おてんきぷらぷら

ホームタウンは三鷹。気ままな旅・街散策にFC東京。

石原裕次郎展

2016年01月12日 | NON
1月11日、調布市市制施行60周年特別企画『石原裕次郎展』を、「文化会館たづくり」にて。
調布市は、市内に日活調布撮影所や角川大映スタジオの大型の映画撮影所があるほか、装飾美術の会社など映画や映像の関連の会社が集まっていて、「映画のまち調布」としてまちおこしを推進中。ということで、映画「嵐を呼ぶ男」など俳優・石原裕次郎さんが出演する多くの作品が撮影されてきた東京・調布市では、市制施行60周年特別企画にて、石原裕次郎さんにまつわる様々な資料を展示する特別企画展を開催。本展では、昭和35年に行った石原裕次郎氏との結婚式で実際に、まき子夫人が着用した結婚衣装や一般公開されていない石原裕次郎氏ゆかりの品の数々、生涯をたどる貴重な写真やャXターが展示されていました。会場では、昭和38年設立された石原プロモーションの設立20周年記念パーティの40分ほどの映像を放映。今は亡き、石原裕次郎さんをはじめ三船敏郎さん、勝新太郎さん、また、裕次郎氏を陰に日向に支えてきた、まき子夫人に渡哲也さん、初々しさの残る神田正輝さん、舘ひろしさん、石原良純さんらの懐かしい映像を鑑賞しました。この映像は昭和58年当時のものでしょうから、自分が大学卒業し社会人となった年であり感慨一入でした。会場外の「文化会館たづくり」東側にある屋外スペースでは、テレビ朝日系列の「西部警察」や「ゴリラ」で実際に使用された特殊車輌も展示されていました。当時はホント、かっこ良かったんだよね。
石原裕次郎さんと云えば自分にとっては、映画スターというよりは、リアルタイムの「太陽にほえろ」「西部警察」、映画ではリバイバルで見た「黒部の太陽」が印象的で、昭和の大スターのイメージ。どちらかと言えば、「石原軍団」の活躍の方が馴染み深いでしょうか。期間限定の特別展で昭和の良き時代を彷彿することができるとともに、歳を重ねた自分を自覚するのでした。













“マシンX (日産スカイライン2000GTターボ ジャパン)”
  西部警察 初代大門軍団特殊車輌 大門団長(渡哲也)車



“特殊機動車輌第2号 (日産サファリ4WD)”
  西部警察 大門団長の司令室を擁する射撃・放水可能の特殊車輌





“ゴリラ警視庁捜査第8班コードナンバーGⅡ(三菱スタリオン2600GSR-VR)”
  ゴリラ 伊達刑事(舘ひろし)専用車




権田修一選手 SVホルンへ期限付き移籍

2016年01月11日 | FC TOKYO
( 2016.01.09 権田修一選手 SVホルンへ期限付き移籍のお知らせ )

このたび、権田修一選手がSVホルン(オーストリア3部)へ期限付き移籍することとなりましたのでお知らせいたします。
期限付き移籍期間は2016年12月31日までとなります。

【権田 修一 (ごんだ・しゅういち) 選手プロフィール】
□ ャWション: GK
□ 生年月日 : 1989年3月3日
□ 出 身 :東京都世田谷区
□ 身長/体重 :187cm / 83kg
□ 血液型 :A型
□ 経歴:
   FC東京 U-15 (2001-2003)
   FC東京 U-18 (2004-2006) ※2006年は第二種登録選手としてトップチーム帯同
   FC東京 (2007- )

□ 本人コメント
『FC東京ファン・サメ[ターのみなさんへ。このたび、オーストリア3部のSVホルンに移籍することが決まりました。 僕はFC東京の駒沢スクールに小学校3年生で入りました。約18年間、ずっとFC東京の恵まれた環境の中でプレーできたことで成長することができました。逆を言えば、僕はFC東京以外のチームを知りません。U-15からU-18、U-18からトップチームへ昇格して、進路を自分で決断することは一度もないサッカー人生を歩んできました。プロ生活10年目を迎えるこのタイミングで、サッカー人生で初めてチャレンジしてみたいと思い、今回の移籍を決断しました。昨年の7月にオーバートレーニング症候群と診断され、みなさんにはご心配をおかけしました。一度は引退する事も考えましたが、サッカーから離れてみたことで今はプレーしたい意欲が今まで以上に沸いています。この意欲を力に、欧州で一からサッカー人生を始めたいと思っています。今までたくさんの応援をありがとうございました。これからもサッカー選手・権田修一への応援をよろしくお願いします。』

以上、オフィシャルより抜粋。


息子と同じ平成元年生まれの権ちゃん。2009年塩田の盲腸炎による長期入院をきっかけに開幕スタメンデビューすると、実力を発揮し見事にブレイク、FC東京の正ゴールキーパーの座を射止め、日本代表まで一気に登りつめました。その勢いある昇り龍が如し姿を我が子のように喜ばしく応援していました。それだけに昨年のオーバートレーニング症候群による離脱はショックでしたが、海外移籍できるほどの回復にひと安心。一部報道によると、期限付き移籍というものの海外進出に不退転の決意とのこと。かのデール・カーネギー曰く“危険を冒せ。人生はすべてチャンスだ。一番遠くまでたどり着く者は大胆に行動する意欲のある人間だ”と。権ちゃんの大いなる挑戦にエールを贈ります。


2009年シーズン 正キーパーデビュー



2010年シーズン 茶髪デビュー



西京極での男泣き



いつしかチームの顔に (FUJI XEROX SUPER CUP 2012)



ロンドンオリンピック日本代表



ザックジャパンでは背番号23



ワールドカップでさらなる成長





FC東京の背番号1へ



今、視線の先に見えているものは・・・




日本橋七福神めぐり

2016年01月10日 | NON
1月9日、『隅田川七福神めぐり』の後、午後からは『日本橋七福神めぐり』のダブルヘッダー。
日本橋界隈は5年前まで業務上の活動エリアで隅々まで周知していたはずなのですが、『日本橋七福神めぐり』は初体験。『日本橋七福神』は他所と異なり、すべてが神社で構成され、しかも日本で一番巡拝が短時間にできるということ。日本橋通りや人形町通りは、江戸下町の伝統を持つ繁華街。下町情緒に触れながら、水天宮以外の神社は初参拝、かつどれもが街中のこじんまりとした神社とのことで、探検気分で散策しました。訪れた順に、『小綱神社(福禄寿・弁財天)』『茶の木神社(布袋尊)』『水天宮(弁財天)』『松島神社(大國神)』『末廣神社(毘沙門天)』『笠間稲荷神社(寿老人)』『椙森神社(恵比寿神)』『寶田恵比寿神社(恵比須神)』。中でも水天宮が改修工事中とは知らず、まさかの仮宮が日本橋浜町に移転しているとは、浦島太郎を実感してしまいました。地下鉄、人形町駅を中心としたこのエリアは、東野圭吾の加賀恭一郎シリーズ「新参者」を思い出しながらのウォーキング。登場シーンはどこだったかきょろきょろしたり。楽しく懐かしく散策できました。少々の疲労感もよい感じ。「東京シティガイド」検定有資格者としての自分にとって、いつ来ても日本橋界隈は好きなエリアだということを実感した散策となりました。








【小網神社】福禄寿・弁財天
稲荷神社を主祭とし540年前(文政元年1466年)に鎮座した歴史の古いお社。福禄寿と弁財天が祀られています。太田道灌公の崇敬も篤く、社名も道灌公が名付けたといわれます。社殿が戦災を免れたり、同神社の御守を受けた戦地に赴いた兵士全員が無事帰還したことから、近年“強運厄除の神”として信仰を集めています。







【茶ノ木神社】布袋尊
「お茶ノ木様」と町内の人に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲魂大神。この土地は徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主、大老堀田家の上屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたもの。防災・生産の神様として信仰を集めています。





【水天宮仮宮 (宝生弁財天)】弁財天
安産・子受のお宮として超有名な水天宮。現在、本宮は改修工事中にて仮宮。久留米藩主の有馬公が文政元年(1818)久留米から分霊して江戸屋敷内にお祀りしたのが始まりです。有馬頼徳公が加賀藩主前田斉広公と宝生流能楽の技を競われた際、弁財天に願をかけ見事に勝利を収め、それ以来、宝生弁財天と敬われています。







改修工事中の水天宮




【松島神社】大国神
創建は口伝によると、鎌倉時代の元亨(1321)以前と推定される。明暦の大火(1657年)以前、周囲は歓楽街で人形細工職人、呉服商人、歌舞伎役者等、券\関係や庶民の参拝により賑わいました、祀られている大国神は破壊と豊穣の神として信仰されました。







【末廣神社】毘沙門天
当社は慶長元年(1596年)以前に稲荷祀として鎮座。この地にあった遊女町吉原の氏神として信仰された。延宝3年の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかったことから末廣神社と名付けられる。祀られているのは毘沙門天。勝負事に利益ありとして崇められています。







【笠間稲荷神社】寿老人
江戸末期安政6年(1859年)、笠間藩主・牧野貞直が、日本三大稲荷のひとつ茨城県の常陸笠間稲荷神社の御分霊を江戸下屋敷に奉納。以降、五穀をはじめ水産、殖産の守護神として信仰を集めました。寿老人は長寿の神にしてお導きの神・幸運の神として、人々の運命を開拓して下さる福徳長寿の守護神とされています。









【椙森神社(すぎのもりじんじゃ)】恵比寿神
創建は一千年前。田原藤太秀郷の平将門の討伐祈願や、太田道灌の雨乞い祈願などの記録の残る古社。祀られているのは恵比寿神。江戸時代には神田・柳森神社、新橋・烏森神社と共に「江戸三森」として信仰されました。







【寶田恵比寿神社】恵比寿神
元々は皇居前にあった宝田村の鎮守様です。運慶あるいは左甚五郎の作とも伝えられる祭壇中央の恵比寿神像は必見とのこと。





隅田川七福神めぐり

2016年01月09日 | NON
1月9日、『隅田川七福神めぐり』をウォーキングにて。
ここ数年、この時期に海外旅行に行くのが恒例だったのですが、今年はまったりと。お正月の食生活で弛んだ腹回り対策でウォーキングです。まずは、『隅田川七福神めぐり』に。江戸文化年間に開闢された“隅田川七福神”は、七福神めぐりの始まりとして長いあいだ善男善女のお正月の楽しみとなった由緒正しき“七福神めぐり”。さて、本日の行程の順に、『多聞寺(毘沙門天)』~約1,500m~『白鬚神社(寿老人)』~約200m~『向島百花園(福禄寿)』~約1,000m~『長命寺(弁財天)』~約50m~『弘福寺(布袋尊)』~約300m~『三囲神社(恵比寿神・大國神)』をめぐります。七福神なのですが全6ヶ所のお寺・神社です。向島と云えば花街(花柳界)のイメージですが、新年の穏やかな陽射しのもと静寂の中のお参りとなりました。お寺と神社が入り乱れているのでお参りの仕方に注意しつつ、七福神めぐりを楽しみました。百花園では初春の草花に癒され、「言問団子」に「長命寺桜もち」も美味しゅういただき、下町のぬくもり漂う大満足の散策となりました。
その後、浅草寺への立ち寄りお参りも。おみくじは「吉」。曰く、「逢春駿馬驕」春になれば馬も勇み走り回るようにようやく運が向いてきましょう。「前程宜進歩」心のままにどこに行っても自分の思うままになるでしょう。「得箭降青霄」矢はまっすぐに進む時は獲物がかかるものです。天より幸運があなたの方へやってくるでしょう。GOOD FORTUNEということで、こいつは春から縁起がいいわぃ。







【多聞寺(たもんじ)】毘沙門天
本尊の毘沙門天は弘法大師の作と伝えられています。昔、本堂の前に住む悪戯する妖怪狸を、毘沙門天門下の禅尼童子が懲らしめ村人を救ったという伝説が伝わっています。









【白鬚神社(しらひげじんじゃ)】寿老人
祭神の猿田彦命は道案内の守り神ということから、お客さまを案内する千客万来・商売繁盛の御利益が。“隅田川七福神”の中でなかなか見つからなかった寿老人を、白い鬚の長寿の神様として白鬚大明神にあてたことから「神」としています。







【百花園(ひゃっかえん)】福禄寿
文化元年(1804)に開かれた「百花園」に集まる江戸の町民文化を代表する文化人達の発案で『隅田川七福神めぐり』が始まりました。福禄寿尊像は、開祖・佐原鞠塢(さはらきくう)が百花園の草花にちなみ、本草の神として愛蔵し信仰していたものだそう。




















【長命寺(ちょうめいじ)】弁財天
三代将軍家光が、鷹狩り途中の腹痛を、寺内の井戸水で薬を服用し快癒したことから、長命水の名をいただき、寺号も長命寺とした。弁財天は河(水)の神ということから蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝する風習が生まれました。







【弘福寺(こうふくじ)】布袋尊
黄檗宗特有の唐風の特徴を持つ禅宗建物。布袋尊は七福神の中で唯一実在した中国の禅僧で弥勒の化身といわれます。









【三囲神社(みめぐりじんじゃ)】大國神・恵比寿神
三井寺の僧源慶が弘法大師創建の由来を持つ荒れた祠を再建したとき、出土した神像の周りを、白狐が現れ三回巡り、消えていったことから「みめぐり」の名が起こったとされます。大國・恵比寿は越後屋(現:三越)に祭られていたものです。三越ゆかりの神社です。











垂れ目が愛らしい三囲のコンコンさん


三越・旧池袋店から移設した三囲のライオン


越後屋(三越)のお客さまに出す茶の湯を沸かす銅壺(どうこ)の台石






城福浩氏 監督就任

2016年01月01日 | FC TOKYO
( 2015.12.28 城福 浩 氏 監督就任のお知らせ )

このたびFC東京では、2016シーズンの監督として城福 浩 氏の就任が決定いたしましたので、お知らせいたします。

【城 福 浩(じょうふく ひろし)氏 プロフィール】
□ 生年月日:1961年3月21日
□ 出身:徳島県
□ 略歴:
 1983 早稲田大学教育学部 卒業
 1983 富士通株式会社 入社
 1995-1996 富士通川崎フットボールクラブ コーチ、監督
 1998 東京ガスサッカー部 ※プロ化の準備組織に参画/S級受講
 1999 FC東京 育成普及部長
 2000-2004 FC東京 育成部長
    2002 U-14日本選抜監督、U-15日本代表監督
    2003 U-16日本代表監督
  2005-2006 FC東京 育成部
    2005 U-15日本代表監督
    2006 U-16日本代表監督(AFC U-17選手権 優勝)
  2007 FC東京 強化部
    2007 U-17日本代表監督(FIFA U-17ワールドカップ 出場)
  2008-2010.9 FC東京 トップチーム監督
    2009 Jリーグヤマザキナビスコカップ 優勝
    2010 スルガ銀行チャンピオンシップ2010 TOKYO 優勝
 2012-2014 ヴァンフォーレ甲府 監督
    2012 Jリーグディビジョン2 優勝、J1昇格

以上、オフィシャルより抜粋。


1960年生まれの自分と同学年の城福氏。自分がSOCIOになった時の監督であり、当時は、管理職の観点で城福氏の言動や熱さを真からリスペクトしていました。2010年9月の監督解任劇でも、“敗軍の将、兵を語らず”を最後まで押しとおした城福監督の“潔さ”に、日本男児の品格・責任感を感じたのを思い出します。“どん底から這い上がった男にかけてみるか!”と言ったのは、帝国重工社長藤間秀樹(下町ロケットより)。第二次城福TOKYOに夢を託します。

















“首都から日本サッカーを変える”と2010年。2016年、監督就任会見で何を語る?!