3月21日 平成27年4月、近世日本の教育遺産群として日本遺産に認定された『弘道館』へ。
水戸に3年住み、会社事務所も三の丸所在でしたが、目と鼻の先の『弘道館』は初めての訪問。いよいよ水戸を離れるにあたり今更ながらですが足を運びました。『弘道館』は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(1800~1860)によって創立された日本最大規模の旧水戸藩の藩校です。弘道館建学の精神は、天保9年(1838)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示され、「教育によって人心を安定させ、教育を基盤として国を興す」というものでした。天保10年(1839)城内三の丸の地に学校の敷地が決まり、翌年から建設工事が開始され天保12年(1841)7月に落成、さらに安政4年(1857)5月に本開館式の日を迎えました。『弘道館』では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で卒業はありませんでした。学問と武撃フ両方が重視され、文館では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武館では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多様な科目が教えられていたとのこと。その後。幕末の動乱期を経て、明治5年(1872)の「学制」発布により閉鎖。県庁舎や学校の仮舎として使用されてきました。幾度の戦火を免れた「正門」「正庁」「至善堂」は昭和39年(1964)に国の重要文化財に指定され往時の姿を今に伝えています。薄曇の空模様のもと、静かな藩校館内を散策すると、水戸の学問の府としての伝統に感じることができ、また、弘道館公園での斉昭が愛した幾種もの梅を愛でながらの散策は心穏やかに3年間の水戸での生活を締め括るに相応しいひと時となりました。
【弘道館】(日本遺産)
「正門」
「正庁」「至善堂」
「正庁諸役会所」(松延年 筆 「尊攘」)
「正庁正席の間」(弘道館記碑拓本)
「正庁正席の間」(日本遺産 認定証)
「至善堂御座の間」(要石歌碑拓本)
「烈公梅」
「要石歌碑」
「孔子廟」
「学生警鐘」
「八卦堂」
「種梅記碑」
「鹿島神社」
【旧水戸彰考館跡】(日本遺産)
1698年、水戸光圀(水戸藩第2代藩主)が開設した「大日本史」の編纂所。「水戸黄門」に登場する助さん(佐々宗淳)、格さん(安積澹泊)は、「水戸彰考館」の総裁を務めた有名な学者です。
水戸に3年住み、会社事務所も三の丸所在でしたが、目と鼻の先の『弘道館』は初めての訪問。いよいよ水戸を離れるにあたり今更ながらですが足を運びました。『弘道館』は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(1800~1860)によって創立された日本最大規模の旧水戸藩の藩校です。弘道館建学の精神は、天保9年(1838)に斉昭の名で公表された「弘道館記」に「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」の5項目として示され、「教育によって人心を安定させ、教育を基盤として国を興す」というものでした。天保10年(1839)城内三の丸の地に学校の敷地が決まり、翌年から建設工事が開始され天保12年(1841)7月に落成、さらに安政4年(1857)5月に本開館式の日を迎えました。『弘道館』では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で卒業はありませんでした。学問と武撃フ両方が重視され、文館では儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽など、武館では剣術・槍・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳など多様な科目が教えられていたとのこと。その後。幕末の動乱期を経て、明治5年(1872)の「学制」発布により閉鎖。県庁舎や学校の仮舎として使用されてきました。幾度の戦火を免れた「正門」「正庁」「至善堂」は昭和39年(1964)に国の重要文化財に指定され往時の姿を今に伝えています。薄曇の空模様のもと、静かな藩校館内を散策すると、水戸の学問の府としての伝統に感じることができ、また、弘道館公園での斉昭が愛した幾種もの梅を愛でながらの散策は心穏やかに3年間の水戸での生活を締め括るに相応しいひと時となりました。
【弘道館】(日本遺産)
「正門」
「正庁」「至善堂」
「正庁諸役会所」(松延年 筆 「尊攘」)
「正庁正席の間」(弘道館記碑拓本)
「正庁正席の間」(日本遺産 認定証)
「至善堂御座の間」(要石歌碑拓本)
「烈公梅」
「要石歌碑」
「孔子廟」
「学生警鐘」
「八卦堂」
「種梅記碑」
「鹿島神社」
【旧水戸彰考館跡】(日本遺産)
1698年、水戸光圀(水戸藩第2代藩主)が開設した「大日本史」の編纂所。「水戸黄門」に登場する助さん(佐々宗淳)、格さん(安積澹泊)は、「水戸彰考館」の総裁を務めた有名な学者です。