学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

謎の女・赤橋登子(その2)

2021-03-01 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 1日(月)12時01分56秒

続きです。(p35以下)

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 結局、上杉氏を中心として、家中で北条氏に特別な恩義を感じることなく、北条氏の風下に立つことを潔しとしないグループに背中を押されるかたちで、尊氏は叛逆に踏み切ったのである。さきに、兄高義の死がその後の日本の歴史を大きく変えることになった、と私が書いたのは、こうした尊氏の出自をふまえてのことである。おそらく北条氏を母にもつ兄高義が存命であったならば、足利家は謀叛に突き進むことはなかったであろう。
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清水氏の描く尊氏像は、一貫して「主体性のない男」ですね。

「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b

そして「主体性のない男」尊氏の「背中を押」して「叛逆に踏み切」らせたのは「上杉氏を中心として、家中で北条氏に特別な恩義を感じることなく、北条氏の風下に立つことを潔しとしないグループ」です。
清水氏は「北条氏を母にもつ兄高義が存命であったならば、足利家は謀叛に突き進むことはなかったであろう」とされますが、仮に高義が北条氏に皆殺しにされた安達一族の「血」に目覚めた「主体性のある男」だったら、別の方向に進む可能性も充分あり得たはずです。
また、高義が清水氏が描く尊氏と同様の「主体性のない男」であったとしても、「上杉氏を中心として、家中で北条氏に特別な恩義を感じることなく、北条氏の風下に立つことを潔しとしないグループ」は、尊氏用とは別の理屈を見つけて「主体性のない男」高義の「背中を押」して「叛逆に踏み切」らせたかもしれません。
まあ、高義がどのような人物であったかは全然分からず、そもそも高義の死は文保元年(1317)の出来事なので、元弘三年(1333)の鎌倉幕府崩壊の十六年も前の話です。
この間に社会は大きく変動していますから、私には「兄高義の死がその後の日本の歴史を大きく変えることになった」という清水説は、「風が吹けば桶屋が儲かる」程度の話のように感じられます。
さて、清水著の続きです。(p35以下)

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 ただ、叛逆を躊躇させる要因として、尊氏の場合、正室登子が北条氏の出身であり、彼女との間に既に嫡子義詮が生まれているという事情があった。尊氏の西国出兵にさいし、得宗北条高時は周到にも、その妻子を人質として鎌倉に留め置かせ、幕府に二心〔ふたごころ〕ない旨の起請文の提出を求めている(『増鏡』)。そうである以上、幕府に叛逆するということは、彼女らを見殺しにするということを意味していた。母の実家をとるか、妻の実家をとるか。現代人の感覚からすれば尊氏は身を切られるような重大な決断を迫られていたということになる。しかし、たしかに中世社会において正妻のもつ権限(主婦権)は、私たちが思っている以上に強かったが、それ以上に強かったのが、母のもつ権限(母権)であった。二つの利害が相反したとき、当時の社会では当主の母方の利害(母権)が優先されるのが最も一般的であった。妻と母との板ばさみのなかで、尊氏は最終的に母方の血筋を優先させてしまったわけだが、中世社会においては、それは何ら不思議なところのない、必然的な選択だったといえる。
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うーむ。
いろいろ問題がある、というか殆ど変な記述ですが、まず、『増鏡』巻十七「月草の花」には、

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 四月の十日余り、また東より武士多く上る中に、一昨年笠置へも向ひたりし、治部大輔高氏上れり。院にも頼もしく聞しめして、かの伯耆の船上へ向ふべきよし院宣賜はせけり。東をたちし時も、後ろめたく二心あるまじきよしを、おろかならず誓言文しおきてけれども、底の心やいかがあらん、とかく聞ゆるすぢもありけり。

http://web.archive.org/web/20150909073254/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-takauji-kyouhe.htm

とあるだけで、「尊氏の西国出兵にさいし、得宗北条高時は周到にも、その妻子を人質として鎌倉に留め置かせ」云々は『増鏡』とは関係なく、『太平記』の話ですね。
そして『太平記』の起請文エピソードは、例によって面白すぎる作り話で、とても史実としてそのまま信頼できるようなものではありません。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1
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謎の女・赤橋登子(その1)

2021-03-01 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 1日(月)10時35分7秒

私は足利高義が二十一歳の若さで亡くなった文保元年(1317)頃に釈迦堂殿の母・無着も亡くなったのではないかと推定しますが、そうすると釈迦堂殿の出家もその頃と考えるのが自然ですね。
金沢北条氏と安達家・足利家の接点となる無着と釈迦堂殿の周辺についてはもう少し検討したい点が残っていますが、まだ準備不足なので後で論ずることにします。
さて、清水克行氏は尊氏の正室・赤橋登子について、尊氏母・上杉清子との関係を中心に、次のように述べられています。
私は清水説にかなり疑問を持っていますが、まずは清水氏の見解をそのまま紹介します。(『足利尊氏と関東』、p32以下)

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裏切りの伏線

 これまで尊氏が幕府に反逆した理由については、孫の尊氏に「天下取り」の悲願を託した祖父家時の置文の存在や、北条氏のまえで多年の鬱屈を余儀なくされてきた足利氏の宿怨、あるいは源氏の棟梁としての尊氏の自負などが、要因として大きく取り上げられてきた。しかし、現在の研究水準では、そのいずれも尊氏反逆の主要因としては認めがたいものがある。【中略】
 さらに、尊氏自身の源氏の棟梁としてのプライドについても、言われるほどのものが尊氏の胸中にあったかどうか、疑わしい。これも第Ⅱ章の内容の先取りになるが、そもそも足利氏の庶家のなかには斯波家や吉良家など、足利よりも兄筋にあたる家が多くある。それらの家のなかには、あえて足利氏の兄筋にあたることを誇示しようとする家も少なくなかったようで、そうしたなかで室町時代以前に「足利嫡流家=源氏の棟梁」という意識がどれほど浸透していたかはわからない。また、尊氏自身、長年にわたり足利家の"妾腹の二男坊"の地位にあり、家督の継承はつい最近のことだった。彼個人が、言われるほどにみずからの血統についての自負があったとは思えない。
 むしろ、尊氏を叛逆に走らせた決定的な要因は、やはり彼自身が北条氏の血をひかない、北条氏と距離のある人物であることにあったのではないだろうか。それに対し、かわりに尊氏の外戚となった上杉氏は、もとは京都に出自をもつ中下級貴族であり、尊氏の母清子の祖父重房の代で鎌倉に下ってきた家系であった。そのため上杉氏は西国の情勢を的確に判断することができ、後醍醐側と接触する手だても兼ね備えていた可能性が高い。実際、尊氏が鎌倉から京都に出征するさい、一番最初に幕府への叛逆を進言したのは、清子の兄にあたる上杉憲房であった(『難太平記』)。そして西上中の尊氏に、ひそかに後醍醐の綸旨を届け、近江国鏡宿(現在の滋賀県蒲生郡竜王町)で再三にわたり挙兵を促したのも細川和氏と上杉重能(憲房の養子、尊氏の従兄弟)であった(『梅松論』)。また、家時・貞氏が生前から倒幕の意志をもっていたという『難太平記』にある予定調和的な足利神話も、元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実とされ、清子を介して流布された話であったらしい。
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いったん、ここで切ります。
「元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実とされ、清子を介して流布された話であったらしい」とありますが、『群書類従』合戦部の『難太平記』を見ると、

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元弘に御上洛の時。不思儀の事ありける。三河国八橋に御着の時。御前無人数の夕に。白き衣かづきたる女一人参て云。御子孫悪事なくば七代守るべし。其支証には毎度合戦に出給時。雨風をもつてしめし可申と云て如夢失にけり。それよりしてひしと御むほんのことおぼしめし定て。為上杉兵庫入道御使。先吉良上総禅門に被仰合しに御返事に云。今まで遅くこそ存づれ。尤可目出云々。其後人人にも其御談合有けり。此事関東御立の時より内々上杉兵庫入道は申勧めけるにや。家時。貞氏。此両御所の御造意を。大方殿の上杉計に仰きかせられけるとかや。是によりて殊更其人骨を折て河原合戦にうち死しけるとかや。今の上杉中務入道の祖父なり。
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となっています。
清水氏は「大方殿」上杉清子が「上杉兵庫入道」即ち憲房だけに話されたらしい、と読まれており、確かにそう読むのが自然かもしれませんが、上杉清子は尊氏の母なのだから直接尊氏に言えばよいのに、何故か

上杉清子→上杉憲房→尊氏

という迂回ルートを取っていることが少し変な感じはします。
また、清水氏は「元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実」とされていますが、これはどんな史料に基づくのか。
まあ、貞氏から聞くのは当然として、弘安七年(1284)六月二十五日に家時が二十五歳で死去(自害?)したとき、文永七年(1270)に生まれた清子はまだ十五歳で、貞氏の側室となっていたのかも分かりません。
年齢だけを考えても、清子が家時から足利家の運命に関わる微妙な話を聞き取るような立場だったのかは疑問です。
コメント (2)
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