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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その7)

2021-02-08 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 8日(月)12時15分55秒

井上氏は前回投降で引用した部分の次に為定の撰集を補佐した二条派関係者、そして撰集の史料として諸臣に下命された「正中百首」について検討されますが、細かな話になるので省略します。
次いで、京極派との関係で興味深い指摘があります。(p269)

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 為定も一応資料は集めたらしい。後伏見・花園方へも詠を請い、中宮(禧子)を通じてその姉永福門院にも詠を請うた。しかし女院は続千載の時、「天未通女」の歌を改悪した事を責めて遣わさず、また女院の夢想に、今度の勅撰は不可説の事で、歌を一首たりとも遣わしたら嘲弄の基である、という伏見院の告があったので上皇らも全く遣わさなかった(花園院記)。為定としては予想していた事でもあろう。
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これだけでは何のことか分かりませんが、これは『続拾遺和歌集』のひとつ前、大覚寺統の後宇多院の下命を受けて二条為世が元応二年(1320)に撰進した『続千載和歌集』の編纂過程で起きた次のようなエピソードですね。(p233以下)

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 大覚寺統の人々が増加しているのはいうまでもない。玉葉に比べてそのプラスの数は、後宇多44、後醍醐20、後二条13、亀山13の如くであり、一方、持明院統の人々は伏見75、永福門院38、花園8、後伏見5をそれぞれ減じている。もっとも為兼や為子の零に比べると、尊貴に対しては幾らか為世も遠慮し、手心を加えているのであろうが、しかし撰入した歌は「うつろふも心づからの花ならばさそふ嵐をいかゞ恨みむ」(伏見院)の如く二条風のものが多い。花園院記正中二年十二月十八日裏書によると、永福門院の「天未通女〔あまをとめ〕袖翻〔そでひるがへす〕夜名々々能〔よなよなの〕月乎雲居丹〔つきをくもゐに〕思遣哉〔おもひやるかな〕」という歌を、為世は「袖振る夜半之風寒ミ」と改作して採った。女院は怒って父実兼を通じて為世に切出すべく申し入れたが為世は承知しなかった(一七九五に改作の形でみえる)。後に花園院はそれを咎めた処、為世は「意趣」を改めず改作入集した由を答えたが、院は既に意趣が変わっているとして怒っている。
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為世も伏見院崩御、為兼の二度目の配流の後、京極派の中心となっていた永福門院に正面から喧嘩を売った訳で、現代ならば著作者人格権(同一性保持権)の侵害として訴訟になりかねない無茶苦茶な話ですね。
この時期の二条派と京極派の対立は本当に厳しくて、伏見院など『玉葉和歌集』では93首も入っていたのに、『続千載和歌集』では18首となってマイナス75首ですが、まあ、京極派も為兼が『玉葉和歌集』でやりすぎた、という面が多分にありますね。

『玉葉和歌集』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%91%89%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
『続千載和歌集』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8D%83%E8%BC%89%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86

さて、『続後拾遺和歌集』に戻ると、井上氏は入集歌数を「大覚寺統の天皇」「二条家の人々」「持明院統関係」「京極派の人」「御子左庶流及び御子左以外の歌道家」「その他、権門や武家」に分けて論じられていますが、細かな話なので省略し、まとめの部分のみ引用します。
ここに尊氏が登場します。(p271以下)

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 以上、通観して際だった特色というものをとらえる事が難かしい。勿論、大覚寺統や二条家が優遇され、京極派が冷遇されているが、続千載ほど顕著な派閥意識は見られない。強いていえば物故者や長老よりも、現在活躍している中堅層を優遇しているという傾向が濃い。
 さて、成立した続後拾遺に対して、天皇は「いみじきよし」を仰せ下し(増鏡)、「集のさま昔にはぢぬ」という言葉を為定に賜わった(新千載一九七五・一九七六)。なお増鏡は、為定の姉妹中宮宣旨が帝の寵妃であり、法仁親王の母であることを記し、為定も信寵厚かった由を記している。ともあれ、勅撰集の完成は、天皇の政治理念である諸儀復興の一環が成就した事であり、嬉しかったに違いない。
 続後拾遺には、初めの撰者であった為藤の仕事がどれ位生かされているのか明らかでない。為藤は二条派のマンネリズムを何とか打破しようとしたといい、為定もその精神を受け継ごうとしたというが、歌風のきわだった特徴といったものも目につかない。

  久堅の雲居に月の澄みぬれば照さぬ方もあらじとぞ思ふ  (為藤・三二七)
  足引の山の高嶺は晴やらでたなびく雲に降れるしら雪   (為定・四八五)

 一〇七四から一〇八六までは為藤・経継・貞直・高氏・範秀・高広・隆教・定資・行済・源承・長遠・忠守・隆淵・慶融ら、廷臣・歌道家・法体・武家、各々の境遇で和歌にたずさわる感懐を吐露したもので、当時の人々がどのような気持で和歌の道に対していたか、という心境を窺いえて興味深い。その中にみえる高氏の「かきすつるもくずなりとも此度は帰らでとまれ和歌の浦波」(一〇七六)によると、その詠草が二条家にもたらされていたのである。高氏は正中二年二十一歳である。そして「此度」という句を文字通り解すると、前回すなわち続千載の時にも詠草を送ったが帰ってきてしまった、今回はそちらに止まってくれ、という意になるが、続千載(元応二年=十六歳)の折にも詠草を為世の許へか送ったらしい。歌道熱心な青年武人である。後に尊氏が歌壇に対して大きな力を持つようになるが、既に青少年時代から和歌に深い関心を持っていた事がここに知られるのである。
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「6 正中百首と続後拾遺集」はこれで終わりです。
ここに登場する尊氏の和歌について、かつて私は、ずいぶん年寄り臭い歌のように感じて、もしかしたらこれは家庭教師の代作ではなかろうか、などと尊氏に失礼な想像をしたことがあるのですが、現在では全くの間違いであったなと反省しています。
尊氏は知的な面で極めて早熟な人間であった、と素直に考えるべきですね。

「釈迦堂殿」VS.上杉清子、女の闘い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91b1aecdbf8e51163dbf3e675bda3a57
「世間では」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b705e279862fd8c9f0070d6920a4e39f

なお、森茂暁氏は、尊氏のこの勅撰集初入集の歌について、

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 先にこの尊氏の和歌を当時の政治史のうえに置くと興味深いと述べたのは、この歌が当時の両統(持明院統・大覚寺統)迭立期のまっただ中にあって、政治的に後醍醐天皇の大覚寺統に近い二条家に対して尊氏から送られた(しかも一度といわず二度までも)という事実に着目すると、和歌文芸を通して尊氏はすでに後醍醐天皇の目にとまっていたのではないかと推測することが可能となる。当時の後醍醐天皇の周辺に目を転じると、前年の正中元年(一三二四)には初度の討幕クーデターの失敗、いわゆる正中の変を引き起こしていたし、この時期に後醍醐があらゆる手段をつかって討幕のための兵力を集めようとしたと考えて、一向に不自然ではない。
 個々の詠草がどのようにして勅撰和歌集に選定されるか、その方法は具体的には明瞭ではないが、『平家物語巻七』「忠度都落の事」にみる、平忠度詠草の『千載和歌集』(文治四年<一一八八>完成)への入集のされ方からみても、撰者側の思惑や配慮によって採用されるケースがあったはずで、右にみた尊氏の和歌は後醍醐の意志によって選びとられた可能性は十分にある。むろん後醍醐に接近したいという意図は、まだ本格的な討幕の意志は形成されていなかったせよ【ママ】、尊氏にもあったであろうことは容易に推測される。従って、尊氏と後醍醐双方の利害がおよそ一致したところに、尊氏詠草が後醍醐撰の『続後拾遺和歌集』に入集する必然性が生まれたのではないか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccedc9b7d94a1dc0492371c975c00daf

と言われていますが、森氏の「和歌文芸」への極端な無理解が伺われて、言葉もありません。
まあ、強いて言えば、「阿呆だな」といったところですね。
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