投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月25日(木)13時57分43秒
『新千載和歌集』には詳しい注釈書がなくて、明治書院の「和歌文学大系全80巻(別巻1)」シリーズには含まれていますが、現時点では未刊です。
https://www.meijishoin.co.jp/news/n3341.html
仕方がないので『新編国歌大観』から尊氏の「都の歌壇へのデビュー」作を引用しようかと思っていたところ、松本郁代・ 鹿野しのぶ氏の論文を見つけました。
『中世王権と即位灌頂 聖教のなかの歴史叙述』(森話社、2005)の著者である松本郁代氏(横浜市立大学教授)については、当掲示板でも2010年に少しだけ言及したことがあります。
また、鹿野しのぶ氏には『冷泉為秀研究』(新典社、2014)という著書があるそうですが、私は未読です。
『中世王権と即位灌頂-聖教のなかの歴史叙述』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1058856b8db18635f9180226eca27545
「寺家即位法」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/108e85b9adc442d8da8840000edeb296
「人の精魂を喰う恐るべき女鬼神」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce94ad96f90bb65fad5b176d8284b9b2
さて、『新千載和歌集』は尊氏と後醍醐の関係を考える上で非常に重要な歌集ですが、石川論文の検討を始めたばかりの段階で詳しく論じる訳にも行かないので、尊氏の「都の歌壇へのデビュー」作とその直前にある後醍醐御製の解説だけ、松本・鹿野論文から引用しておきたいと思います。
「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(二) ―附『新千載和歌集』神祇歌九六一~九八八番歌註釈―」(『横浜市立大学論叢.人文科学系列』71号、2020)から引用します。(p137・138)
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元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を 後醍醐院御製
(45) 立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ(九八二)
等持院贈左大臣
(46) 諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり(九八三)
【中略】
後醍醐天皇詠の(45)は、元弘三年(一三三三)十二月十七日、珣子内親王(一三一一~一三三七)立后月次屏風に寄せた春日祭の和歌である。ここで、春日祭を勤める朝廷官人らに「こころせよ」と示した場所は、「藤の鳥居のしたかげ」である。藤原氏を春日社鳥居のそばに咲く藤の花に喩え、その下の影となり祭に奉仕する官人らの存在を表わしている。元弘三年は、倒幕と帰京を果たした後醍醐天皇が建武新政を始めた年であり、対立した持明院統の後伏見天皇皇女を皇后とした祝意の和歌が配列されている。
配列上の意味からこの「花のしたかげ」をとらえると、藤原氏の陰にあっても、(43)に詠まれた躬恒の「かすがの野べの草も木も」 のように、再び春の訪れに巡り会えることを示唆するものである。「春日山」と「藤波」(44) は、「藤の鳥居の花」(45)にも及んでいるが、花の盛りの下陰にも目を留め、「こころせよ」とした後醍醐天皇の政道を示している。
(46)は、(45)と同様に、元弘三年珣子内親王の立后月次屏風のうち、春日祭が描かれた屏風に足利尊氏が寄せた和歌である。「春日野や道ある御代に神まつるなり」と、後醍醐天皇による正しい治世や政道を讃えた祝意を表わす。「諸人」が「春日野」に「踏み分けて」行く、人々を導く道筋をつける天皇の治世に春日神を祀る、「諸人」と後醍醐天皇と春日神との関わりが、「春日野」という場所をつうじて示されている。
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「附『新千載和歌集』神祇歌九六一~九八八番歌註釈」にはより詳しい解説がありますね。
あまり長く引用するのもためらわれますが、ここまで充実した注釈があるのですから、こちらも転載しておきます。(p109・108)
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元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を 後醍醐院御製
九八二 立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ
【作者】後醍醐院―前稿(一)参照。
【通釈】春日祭の勅使として、身を寄せて仕えるのであれば、家臣各々、心して仕えよ。藤の鳥居の傍に咲いている花の下影で。
【語釈】●詞書―「元弘三年立后」は元弘三年十二月十七日、後醍醐天皇は隠岐から帰京ののち、後伏見院皇女・珣子内親王を中宮としたことをさす。「春日祭」は二月および十一月の上申日に行われる。その様子が描かれた?風を見て詠んだ。●つかさづかさ―現存の用例では初見。当該歌の影響を受けたと思われる後村上院に「名をとへばつかさづかさも心して雲井にしるきけさの初雪」 (『新葉集』冬・四六八「初雪見参のこころを」)という詠がある。
【参考】 「春日山藤のとりゐの春の色に身をもはづべき宿とみゆらん」(『公義集』春・四八・ 「忠光卿の家の障子の絵に、春日社鳥居ふぢかかりたる所」)
【他出】『新葉集』(神祇・五九四・「元弘三年立后屏風に、春日祭 )『六華集』 (神祇・一八五八)
等持院贈左大臣
九八三 諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり
【作者】足利尊氏―前稿(一)参照。
【通釈】諸人も今日は踏み分けて春日野の、正しい政道が行われる御代に神を祀るのであるよ。
【語釈】●諸人―多くの人々。衆人。●春日野―九八〇番歌参照。●道ある御代―秩序があり、首尾良く治まっている世。「近江のや坂田の稲をかけつみて道ある御世のはじめにぞつく」(『新古今集』賀・七五三・「仁安元年嘗会悠紀歌たてまつりけるに、稲舂歌」・藤原俊成)
【参考】「おく山のおどろがしたもふみわけて道ある代ぞと人に知らせん」(『新古今集』雑中・一六三五・「住吉歌合に山を」・後鳥羽院)
【補説】九八二番歌の詞書を受ける。為定・後醍醐院・尊氏の配列構成。「道ある御代」については、尊氏が正しい政治、治世を詠んだ歌として、「道ありておさまれる世をしら雪のふるきみゆきにうつしつるかな」(「将軍大納言尊氏京所望屏風色紙形事 」)がある。これは【参考】に挙げた後鳥羽院の歌を念頭に置いたかと思われる。当該歌も後醍醐の代を治世とし、これを意識した配列が成されたのであろう。
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「将軍大納言尊氏京所望屏風色紙形事」の「京」は「卿」の誤変換でしょうか。
『新千載和歌集』には詳しい注釈書がなくて、明治書院の「和歌文学大系全80巻(別巻1)」シリーズには含まれていますが、現時点では未刊です。
https://www.meijishoin.co.jp/news/n3341.html
仕方がないので『新編国歌大観』から尊氏の「都の歌壇へのデビュー」作を引用しようかと思っていたところ、松本郁代・ 鹿野しのぶ氏の論文を見つけました。
『中世王権と即位灌頂 聖教のなかの歴史叙述』(森話社、2005)の著者である松本郁代氏(横浜市立大学教授)については、当掲示板でも2010年に少しだけ言及したことがあります。
また、鹿野しのぶ氏には『冷泉為秀研究』(新典社、2014)という著書があるそうですが、私は未読です。
『中世王権と即位灌頂-聖教のなかの歴史叙述』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1058856b8db18635f9180226eca27545
「寺家即位法」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/108e85b9adc442d8da8840000edeb296
「人の精魂を喰う恐るべき女鬼神」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce94ad96f90bb65fad5b176d8284b9b2
さて、『新千載和歌集』は尊氏と後醍醐の関係を考える上で非常に重要な歌集ですが、石川論文の検討を始めたばかりの段階で詳しく論じる訳にも行かないので、尊氏の「都の歌壇へのデビュー」作とその直前にある後醍醐御製の解説だけ、松本・鹿野論文から引用しておきたいと思います。
「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(二) ―附『新千載和歌集』神祇歌九六一~九八八番歌註釈―」(『横浜市立大学論叢.人文科学系列』71号、2020)から引用します。(p137・138)
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元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を 後醍醐院御製
(45) 立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ(九八二)
等持院贈左大臣
(46) 諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり(九八三)
【中略】
後醍醐天皇詠の(45)は、元弘三年(一三三三)十二月十七日、珣子内親王(一三一一~一三三七)立后月次屏風に寄せた春日祭の和歌である。ここで、春日祭を勤める朝廷官人らに「こころせよ」と示した場所は、「藤の鳥居のしたかげ」である。藤原氏を春日社鳥居のそばに咲く藤の花に喩え、その下の影となり祭に奉仕する官人らの存在を表わしている。元弘三年は、倒幕と帰京を果たした後醍醐天皇が建武新政を始めた年であり、対立した持明院統の後伏見天皇皇女を皇后とした祝意の和歌が配列されている。
配列上の意味からこの「花のしたかげ」をとらえると、藤原氏の陰にあっても、(43)に詠まれた躬恒の「かすがの野べの草も木も」 のように、再び春の訪れに巡り会えることを示唆するものである。「春日山」と「藤波」(44) は、「藤の鳥居の花」(45)にも及んでいるが、花の盛りの下陰にも目を留め、「こころせよ」とした後醍醐天皇の政道を示している。
(46)は、(45)と同様に、元弘三年珣子内親王の立后月次屏風のうち、春日祭が描かれた屏風に足利尊氏が寄せた和歌である。「春日野や道ある御代に神まつるなり」と、後醍醐天皇による正しい治世や政道を讃えた祝意を表わす。「諸人」が「春日野」に「踏み分けて」行く、人々を導く道筋をつける天皇の治世に春日神を祀る、「諸人」と後醍醐天皇と春日神との関わりが、「春日野」という場所をつうじて示されている。
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「附『新千載和歌集』神祇歌九六一~九八八番歌註釈」にはより詳しい解説がありますね。
あまり長く引用するのもためらわれますが、ここまで充実した注釈があるのですから、こちらも転載しておきます。(p109・108)
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元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を 後醍醐院御製
九八二 立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ
【作者】後醍醐院―前稿(一)参照。
【通釈】春日祭の勅使として、身を寄せて仕えるのであれば、家臣各々、心して仕えよ。藤の鳥居の傍に咲いている花の下影で。
【語釈】●詞書―「元弘三年立后」は元弘三年十二月十七日、後醍醐天皇は隠岐から帰京ののち、後伏見院皇女・珣子内親王を中宮としたことをさす。「春日祭」は二月および十一月の上申日に行われる。その様子が描かれた?風を見て詠んだ。●つかさづかさ―現存の用例では初見。当該歌の影響を受けたと思われる後村上院に「名をとへばつかさづかさも心して雲井にしるきけさの初雪」 (『新葉集』冬・四六八「初雪見参のこころを」)という詠がある。
【参考】 「春日山藤のとりゐの春の色に身をもはづべき宿とみゆらん」(『公義集』春・四八・ 「忠光卿の家の障子の絵に、春日社鳥居ふぢかかりたる所」)
【他出】『新葉集』(神祇・五九四・「元弘三年立后屏風に、春日祭 )『六華集』 (神祇・一八五八)
等持院贈左大臣
九八三 諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり
【作者】足利尊氏―前稿(一)参照。
【通釈】諸人も今日は踏み分けて春日野の、正しい政道が行われる御代に神を祀るのであるよ。
【語釈】●諸人―多くの人々。衆人。●春日野―九八〇番歌参照。●道ある御代―秩序があり、首尾良く治まっている世。「近江のや坂田の稲をかけつみて道ある御世のはじめにぞつく」(『新古今集』賀・七五三・「仁安元年嘗会悠紀歌たてまつりけるに、稲舂歌」・藤原俊成)
【参考】「おく山のおどろがしたもふみわけて道ある代ぞと人に知らせん」(『新古今集』雑中・一六三五・「住吉歌合に山を」・後鳥羽院)
【補説】九八二番歌の詞書を受ける。為定・後醍醐院・尊氏の配列構成。「道ある御代」については、尊氏が正しい政治、治世を詠んだ歌として、「道ありておさまれる世をしら雪のふるきみゆきにうつしつるかな」(「将軍大納言尊氏京所望屏風色紙形事 」)がある。これは【参考】に挙げた後鳥羽院の歌を念頭に置いたかと思われる。当該歌も後醍醐の代を治世とし、これを意識した配列が成されたのであろう。
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「将軍大納言尊氏京所望屏風色紙形事」の「京」は「卿」の誤変換でしょうか。
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