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南北朝クラスター向けクイズ【解答編】

2021-01-29 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月29日(金)21時01分45秒

>筆綾丸さん
いえいえ、もっと大きな話なんですね。
白根氏は「ところが、その護良は十月に謀叛の疑いで失脚してしまい、尊氏の存在感はさらに増していった。そうした中、顕家は、後醍醐の皇子義良親王を奉じ、奥州の統治を委任するという後醍醐の仰せを受け、同じ十月に陸奥へ下向した」と書かれているので、護良が「謀叛の疑いで失脚」したのが元弘三年(1333)十月だと誤解されているんですね。
時系列で整理すると、

元弘三年(1333)五月 鎌倉幕府滅亡
同年八月末or九月初 護良、征夷大将軍を免ぜられる
同年十月 北畠親房・顕家、義良親王を奉じて陸奥へ下向
同年十二月十一日 護良、南禅寺にて明極楚俊の法話を聴く
同年十二月 足利直義、成良親王を奉じて鎌倉へ下向
元弘四年(建武元、1334)正月 恒良親王、立太子
同年十月 護良逮捕され、翌月鎌倉へ流される

ということで、実際には護良は一年後の建武元年(1334)十月に「謀叛の疑いで失脚」している訳です。
まあ、うっかりミスなのですが、ちょっと痛いですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

social distancing 2021/01/29(金) 18:43:04
小太郎さん
--------
彼(尊氏)は武蔵守兼武蔵守護として、新田義貞と東国における主導権争いを繰り広げていたが、護良は、「東国の武士の多くは東北にも所領を持って力があったので、彼らを足利方から引き離そうとして」(保暦間記)、岳父の親房と謀り陸奥守顕家を実現したのだという。
--------
となりますか。
尊氏は護良たちとは social distancing を取っていたのに、引用文は主語と述語が対応していないため、同じクラスターの仲間に入れられてしまった、と。
なお、東国は坂東、謀は図、のほうがいいのかな、という気もしますが、よくわかりません。 
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