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征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その3)

2020-12-09 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月 9日(水)10時13分37秒

第十二巻第九節「兵部卿親王流刑の事」の続きです。
時間の流れが曖昧なまま、護良が帝位を狙っていると尊氏が「准后」阿野廉子を通じて後醍醐に讒言し、それを信じた後醍醐が結城親光・名和長年に護良逮捕を命じた、という展開です。(兵藤校注『太平記(二)』、p273)

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 高氏卿、この事を聞いて、准后に属〔しょく〕し奉り、奏聞せられけるは、「兵部卿親王、帝位を奪ひ奉らんその御たくみに、諸国の兵を召し候ふなり。その証拠分明〔ふんみょう〕に候ふ」とて、国々へ成し下されたる処の令旨を取つて、上覧〔しょうらん〕にぞ備へられたりける。君、大きに逆鱗あつて、「この宮を流罪に処すべし」とて、中殿の御会に事を寄せて、兵部卿親王を召されける。宮、かかる事とは更に思し召し寄らず、前駆二人、侍十余人を召し具して、忍びやかに御参内ありけるを、結城判官、伯耆守、かねてより勅を承つて用意したりければ、鈴の間の辺に待ち請け奉つて、これを取り奉り、即ち馬場殿に押し籠め奉る。
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「高氏卿」となっていますが、史実では尊氏は既に元弘三年(1333)八月五日に後醍醐の偏諱「尊」を賜り、実名を「高氏」から「尊氏」に変えています。
しかし、『太平記』第十三巻第七節「足利殿関東下向の事」では、建武二年(1335)八月、中先代の乱に対処するため尊氏が東国に下向するに際し、征夷大将軍への任官と「東八ヶ国の管領」を要求したのに後醍醐は後者のみを認め、征夷大将軍任官の代わりに「尊」の字を与えた、というストーリーとしており、実に二年のズレがあります。
その箇所は、

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 この両条は天下治乱の端なれば、君もよくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右〔そう〕なく勅許あつて、「征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八ヶ国管領の事は、先ず子細あるべからず」とて、即ち綸旨をぞなされける。これのみならず、忝くも天子の御諱〔おんいみな〕の字を下されて、高氏と名乗られける高の字を改めて、尊の字にぞなされける。
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となっていますが(p335)、この場面は後で改めて検討する予定です。
さて、「兵部卿親王流刑の事」に戻って、続きです。(p274以下)

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 宮は、一間〔ひとま〕なる所の蜘蛛手を結ひたる中に、参り通ふ人一人もなくして、涙の床に起き伏させ給ふを、こはいかなるわが身なれば、元弘の昔は、武家のために身を隠して、伏木の下、岩のはざまに、露敷く袖を干しかね、帰洛の今は、一日の楽しみ未だ日を終らざるに、讒臣のために罪せられて、刑戮の中には苦しむらんと、知らぬ前世の報ひまでも、思し召し残す方もなし。「虚名は久しく立たず」と云ふ事あれば、さりとも、君も聞こし召し直さるる道なくてはよもあらじと、思し召しける処に、公儀すでに遠流に定まりぬと聞こえければ、御悲しみに堪へず、内々御心寄せの女房して、委細の御書〔おんふみ〕をあそばされて、伝奏に付けて、正〔まさ〕しき奏聞を経べき由仰せ遣はさる。その消息に云はく、
  先づ勅勘の身を以て、罪無き由を奏せんと欲するに、涙落
  ちて心暗し。【中略】
  夫れ承久より以来〔このかた〕、武臣権を把〔と〕つて、朝廷政を棄てたる
  こと年尚〔ひさ〕し。臣、苟もこれを看るに忍びず、一たび慈悲忍
  辱の法衣を解〔ぬ〕いで、忽ちに怨敵降伏の堅甲を被〔き〕る。内には
  破戒の罪を恐れ、外には無慙の譏〔そし〕りを受く。然りと雖も、
  君の為に身を忘るるに依り、敵の為に死なんことを顧みず。【中略】
  而るに今、戦功未だ立たざるに、罪責忽ちに来たる。風〔ほの〕か
  にその科条を聞くに、一事も吾が過〔あやま〕る所に非ず。【中略】
  綸宣〔りんせん〕儻〔も〕し死刑を優せらるれば、永く竹園の名を削り、
  速やかに桑門の客と為らん。
  【中略】伏して奏達の誠を仰ぐ。恐々謹言。
    建武二年三月五日             護良
   前左大臣殿
とぞ遊ばされたる。この御文、もし叡聞に達せば、宥免の御沙汰もあるべかりしを、伝奏、傍への憤りを憚つて、つひに奏聞せざりければ、上天〔しょうてん〕听〔きき〕を阻〔へだ〕て、中心の訴へ開けず。この二、三年、宮に付き添ひ奉つて忠を致し、賞を待ちける御内の候人三十余人、ひそかにこれを誅さるる上は、とかく申すに及ばず。
 つひに建武二年五月五日に、宮を直義朝臣の方へ渡されければ、佐々木佐渡判官入道を始めとして、数百騎の軍勢を以て路次を警固し、鎌倉へ下し奉つて、二階堂谷の土の獄〔ひとや〕を掘つて、置きまゐらせける。
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消息も長大なので三分の一くらいに圧縮しましたが、恐らく『太平記』作者の創作とはいえ、なかなかの名文ですね。
ところで、この消息の一番の問題は「建武二年三月五日」という日付です。
そして二か月後の「建武二年五月五日」に護良を鎌倉に流したというのも変で、実際には護良は建武元年〔1334〕十月に逮捕され、十一月に鎌倉に送られていますから半年くらいの違いがあります。
隠岐に流されていた後醍醐が京都に戻ったのが元弘三年(1333)六月で、二年後の建武二年七月に中先代の乱が起きて以降は波瀾万丈の展開となり、建武三年(延元元年)八月に尊氏の奏請で北朝の豊仁親王が即位しますから(光明天皇)、建武の新政は実質三年程度です。
その僅か三年の中で半年はけっこう長い期間であり、『太平記』の作者の単なる記憶違いで済ませることができるのか、若干の疑念を覚えます。
とにかく、『太平記』の記述は時間の観念があまりに適当で、また二年違いの「高氏卿」の表記に見られるように、主役級の人物の名称すら随分いい加減ですね。
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