学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その8)

2021-03-27 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月27日(土)10時19分40秒

石川論文に戻って、続きです。(p14)

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 後醍醐天皇の和歌活動に政治的意味が含まれていた事は夙に指摘されている。宮廷和歌の盛行が親政や中央集権の一つの証であった。しかし新政権を樹立させたばかりのこの時期、政務は多忙を極めたであろう。大規模な晴儀の歌会など企画する余裕もなかったかと推察される。これは裏付けもない憶測であるが、記録に残らない小歌会等の折に天皇は尊氏の詠に接する機会でもあったのだろうか。
 或いは、頓阿の『草庵集』や『続草庵集』には「等持院贈左大臣家三首に」「等持院贈左大臣家五首に」といった、尊氏邸での歌会で詠まれた事を表す詞書を有する夥しい数の歌が載っている。同様の機会に詠まれたと思しき詠は勅撰集等からも若干が拾えるのみであり、小規模の、身近な歌人を中心とした歌会であったかと想像されるが、『草庵集』『続草庵集』を根拠に推測する限り、尊氏邸では相当頻繁に歌会が行なわれていたらしい。その殆どは年次未詳であるが、「建武の比、等持院贈左大臣家に、寄花神祇といふ事をよまれしに」(『草庵集』一四〇二)と年号が記されたものが一つだけ見え、尊氏の動向を踏まえると建武三年、一三三六年とは考え難く、従って建武元年または二年、一三三四、五年の事と見るのが妥当であろうが、もし仮にそうした企画が一、二年遡った時点から始まっていたならば、頓阿から尊氏の好士ぶりを聞いた二条家歌人がそれを天皇の耳に入れる可能性もあったかもしれない。
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「建武の比、等持院贈左大臣家に、寄花神祇といふ事をよまれしに」の詞書がある頓阿の歌は、『和歌文学大系65 草庵集・兼好法師集・浄弁集・慶運集』(明治書院、2004)を見ると、

  男山花の白木綿〔しらゆふ〕かけてけり影なびくべき君が春とて

というものですね。
なお、和歌文学大系では1399番となっています。
さて、建武新政期の歌壇の状況については、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院、1987、初版1965)に基づいて、ある程度検討済みです。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc6c2dccd1195ee9ba285085019fc05a
「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41
「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d36788a856c4f606023cc810573c542c
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7033564fcc0b9a7ae425378f77af987e
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe

重複は避けますが、井上氏が「八月五日の叙位除目で高氏は従三位となって公卿に列し、後醍醐の諱尊治の一字を与えられて尊氏と改名した。その月十五夜、新拾遺一六四八には殿上人が探題で詠歌したという詞があって、為冬の月前霧の詠がある。この日は除目であり、恐らく九月十三夜会の誤りであろう」(p366)と言われている為冬の歌は、

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       元弘三年八月十五夜うへのをのこども題をさぐりて月の歌よみ侍
       りけるに、月前霧              藤原為冬朝臣
一六四八 空にのみたつ河霧のもひまみえてもりくる月に秋風ぞ吹く
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というものですね。
さて、石川論文の続きです。(p15)

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 要するに一三三三年から一三三五年前半頃までは、一東国歌人であった尊氏が都の伝統文化の中に身を置きその風流に浸った時期、と言えようか。公的な会への出詠も経験し、おそらく小規模だったとはいえ、都の好士達を集めての歌会も主催した。二条為世邸の桜を密かに賞翫した翌朝に贈答歌を交わしたのもこの期間であろう。

     家の花おもしろかなりとて等持院贈左大臣月夜に忍びて見
     侍りけるを朝にききて、かの花につけて申しつかはしける
                      前大納言為世
  夜半に見し人をも誰としらせねば軒端の花を今朝ぞ恨むる
                      (新千載一七一五)
     返し               等持院贈左大臣
  しられじと思ひてとひし夜半なれば軒端の花のとがやなからん
                        (同一七一六)

歌壇のリーダーとしてかつては雲の上の存在のように思えたであろう為世が、今はこうして親しく和歌を送り、風流を共有しているのである。但し、一方で護良親王との確執等も既に起こっていたから、尊氏にとって終始平穏な時期ではなかったであろうが。
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この時期の二条派の総帥・為世は建長二年(1250)生まれで、尊氏より五十五歳も上ですね。
建武五年(暦応元年、1338)に八十九歳という高齢で亡くなっており、尊氏とのなかなか洒落た贈答歌は為世最晩年のエピソードです。

二条為世(1250-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96
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