学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その7)

2021-03-26 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月26日(金)21時14分6秒

ということで、『新千載和歌集』だけで考えると尊氏の位置づけがものすごく高いことになりそうですが、『新拾遺和歌集』を見ると若干の修正を図る必要が出てきます。
『新千載和歌集』は尊氏主導の事業でしたが、『新拾遺和歌集』は『新千載和歌集』成立の僅か四年後、貞治二年(1363)に義詮が執奏し、公家社会の抵抗をかなり強引に押し切って推進した事業です。
井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』によれば、

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 貞治二年二月二十九日、為明は勅撰集を撰進すべき命を後光厳天皇から受けた。後愚昧記三月十九日の条に「勅撰事日来武家執奏、子細有之、而重々被経御沙汰、被仰前中納言為明卿云々、仍賀遣之、為悦之由有返報」とある。すなわち義詮が撰集あるべく執奏し、宮中ではかなり議論があったらしい。恐らくこれは新千載成立後わずか四年目にしかも同じ後光厳天皇の綸旨を請うたからであろう。翌三年二月二日近衛道嗣が「今度勅撰事衆人不甘心歟、然而大樹骨張之間、不能是非」と愚管記で記しているように、人々は非常に批判的であったが、義詮が強く主張した為に文句がつけられなかったのである。天皇が在位の間に二度も勅撰集を撰進せしめるのは異例であるが、将軍の側から言えば初度である。撰集発企の権限は既に新千載の折に掌中にした、と解する武家の考え方を示すものである。異例の事であっても撰者となりうる機会を得た為明が悦んだのは想像に難くない。
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といった具合です。(p613)
撰者の二条為明は永仁三年(1295)生まれでかなり高齢であり、結局、完成を待たずに貞治三年(1364)十月二十七日に死んでしまいます。
そして、編纂作業は地下歌人の実力者・頓阿が受け継いで十二月に完成させます。
ま、そうした事情はともかくとして、『新拾遺和歌集』に採られた「元弘三年立后屏風」の歌は八首です。
それらを『新編国歌大観 第一巻 勅撰集編』から転記すると、

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       元弘三年立后屏風に   藤原雅朝朝臣
二四三 おほあらきのもりのうき田の五月雨に袖ほしあへず早苗とるなり

       元弘三年立后屏風に、蛍  前大納言為世
二七八 くるるより露とみだれて夏草のしげみにしげくとぶ蛍かな

       元弘三年立后屏風に、おなじ心を  前権僧正雲雅
二九六 夏衣たちよる袖の涼しさにむすばでかへる山の井の水

       元弘三年立后屏風に、七夕  前参議経宣
三四二 七夕のいほはた衣かさねても秋の一夜となにちぎりけん

       元弘三年立后屏風に     正二位隆教
五六六 三輪山は時雨ふるらしかくらくの初瀬のひばら雲かかるみゆ

       元弘三年立后屏風に、五節をよませたまうける  後醍醐院御製
六二二 袖かへす天つ乙めも思ひいでよ吉野の宮のむかしがたりを

       元弘三年立后屏風に   後宇多院宰相典侍
七一六 さき初そむるまがきの菊の露なから千世をかさねん秋そ久しき

       元弘三年立后屏風に、石清水臨時祭   後醍醐院御製
一四〇五 九重の桜かざしてけふは又神につかふる雲のうへびと
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となります。
こちらの詞書は「元弘三年立后屏風に」で統一されていますね。
296に「おなじ心を」とありますが、これは直前の295が「百首歌たてまつりし時、納涼」という詞書の「等持院贈左大臣」尊氏の歌で、要するに「納涼」ということですね。
さて、『新千載和歌集』十五首と『新拾遺和歌集』八首の合計二十三首で考えると、「後醍醐院御製」は、

「春日祭の儀式ある所を」
「五節をよませたまうける」
「石清水臨時祭」

の三首があって、この中で「五節」は「弾正尹邦省親王」の「宮人のとよのあかりの日かげ草袂をかけて露むすぶなり」と場面が重なるようです。
つまり、尊氏の歌だけが後醍醐の歌と同じ場面に登場するのではなく、邦省親王と後醍醐の組み合わせもある訳ですね。
従って、尊氏だけが特等席を与えられた訳ではありませんが、それでも邦省親王と同様の立場ですから、唯一の武家歌人である尊氏にとっては破格の待遇であることは間違いないと思われます。
なお、私は勅撰集の扱いに不慣れなものですから、律儀に『新編国歌大観』をコピーしてあれこれ考えてきましたが、国文学研究資料館の「二十一代集データベース」に「元弘三年立后」と入れれば、たちどころに、

『新千載和歌集』十五首
『新拾遺和歌集』八首
『新後拾遺和歌集』一首

の合計二十四首が出てきますね。
最後の『新後拾遺和歌集』の歌は、

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    元弘三年立后屏風に、新樹を  藤原為冬朝臣
167 青葉にも/しはし残ると/見し花の/ちりてさなから/しける比哉
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というものです。
ただ、「おなじ心を」などとなっているものはやはり書籍で確認する必要があり、歌集全体の雰囲気や該当の歌の周辺の配列なども確認できる点で、やはり書籍の方が確実ですね。

国文学研究資料館「二十一代集データベース」
http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G000150121dai
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