学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

赤橋種子と正親町公蔭(その4)

2021-03-11 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月11日(木)10時27分32秒

私も別に京極為兼の反幕府的思想が正親町公蔭、赤橋種子を通じて赤橋登子に、そして尊氏に影響を与えた、などと主張したい訳ではなくて、あくまで赤橋登子という(私の仮説が正しければ)日本史上稀有な「鉄の女」を生みだした知的環境を探っているだけです。
そもそも京極為兼自身、別に幕府に謀叛を起こそうと思った訳ではないのは明らかで、反幕府的姿勢すら窺えません。
伏見法皇に極めて重用された京極為兼は自己の権勢を誇示する行為を繰り返し、朝廷や寺社の人事に恣意的に介入し、結局、後伏見上皇や西園寺実兼の反発を呼んで持明院統に分裂の危機を生じさせた、いわば持明院統の獅子身中の虫です。

京極為兼(1254-1332)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E7%82%BA%E5%85%BC

幕府は京極為兼が公家政権内部に混乱を起こしたことを理由に為兼を捕縛し、流罪に処した訳ですが、そもそも何故に幕府にそんな権限があるのか、という根本的な問題が存在します。
また、鎌倉後期には公家政権内部の事項であっても幕府には介入の権限があるのだ、ということが当時の常識であったとしても、実際に介入するかどうかは微妙な政治的判断の問題です。
公家政権内部のゴタゴタに巻き込まれることは幕府にとってもあまり望ましいことではないはずですが、何故に正和四年(1315)という時点で幕府はわざわざ公家政権に介入したのか、という問題は、幕府の権限論とは別に論じる必要があります。
こうした問題は歴史学においてもあまり説得的な議論がなされていたようには思えませんが、佐藤雄基氏の最新の論文「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)は相当に刺激的な内容で、佐藤氏の、

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 だが、得宗の国制上の役割は、必ずしも天皇・将軍の補佐のみではない。【中略】『吾妻鏡』は執権を「理非決断職」とする(貞永元年七月十日条)。日本中世では「裁判する」権限は必ずしも重視されてこなかったといわれ、少なくとも検断権などと同レヴェルの得分権として裁判(得分)権なるものが成型されることはなかったが、得宗は公家政権や本所の支配権を尊重しつつ、様々な「口入」を行い、幕府の裁判を求める社会の要請に応えていく。得宗権力は諸国守護を担当する「将軍」とは異なり、「裁判する」権能を自らの新たな仕事として発見したのではなかろうか。
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といった指摘(p19)をベースに、今後、様々な議論が展開されて行く可能性があるように思われます。
ただ、もちろん今の私にはそのような議論をする準備はないので、当面は「鉄の女」赤橋登子を生んだ知的環境を探ることに止めます。

新年のご挨拶(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/896f6f1d4184ed0b84f204fe8cddc712
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d78d824db0eff1efeecc14e0195184d2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704
新年のご挨拶(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f7e604e47b3c0e59d1e30df10b5bf02

ということで、井上著の続きです。(p245以下)

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忠兼は為兼失脚後、籠居を経て入道小倉公雄(頓覚)の猶子となっている。公雄は洞院実雄男、実明は実雄の孫であるから、忠兼にとって公雄は大伯父である。なお公雄は後嵯峨院の近臣で、院の他界に殉じて出家。著名な歌人である。正中二年以後まもなく没したらしいので、忠兼が猶子となったのは元応・元亨の頃であろう。公雄には実教という継嗣がいたから、忠兼が公雄の猶子となったのは、為兼の猶子であった経歴を薄める(消去する)ためだったのではなかろうか。元弘元年十月五日任参議。『花園院記』に「年来〔としごろ〕為兼卿猶子也。実者実明卿息也。而るに為兼卿左遷之後、公雄中納言入道猶子と為る。仍て中将を申すと雖も、今夕は之に任ぜられず」とある(公雄猶子となったことへの不満か)。意味深長な表現である(しかし十一月五日左中将に任ぜられた)。のち公蔭と改名、正親町家に復し、実明のあとを継いだ。『風雅集』の寄人となり、歌壇で一定の地位を得、また権大納言にも昇った。延文五年(一三六〇)十月六十四歳で没した。
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井上氏は「忠兼が公雄の猶子となったのは、為兼の猶子であった経歴を薄める(消去する)ためだったのではなかろうか」とされますが、忠兼の「兼」は為兼からもらったものですから、本当に「為兼の猶子であった経歴を薄める(消去する)」ためであれば、この時点で改名しているはずです。
しかし、為兼失脚後の長い空白期間を経て、元徳二年(1330)正月に三十四歳で従三位に叙せられて『公卿補任』に登場した時点でも、名前は「(正親町)忠兼」ですね。
そして元徳三年(元弘元年、1331)九月の光厳践祚の翌十月に参議、十一月に左中将に任ぜられ、正慶元年(元弘二年、1332)十月権中納言となりますが、正慶二年(元弘三年、1333)五月の六波羅陥落後、同月十七日に「止職」となります。
その後は散位ですが、建武三年(1336)、四十歳で名前を「(正親町)実寛」に改めます。
そして建武四年(1336)二月、更に「公蔭」に改名します。
実は『公卿補任』建武四年の記述は些か奇妙で、「至二月廿九日為実寛。二月卅日改公蔭」となっています。
つまり「実寛」だったのは一日だけということですが、これはあまりに不自然なので、建武三年に「実寛」、翌年に「公蔭」としたのだろうと思います。
とにかく、「実寛」といういかにも閑院流の、そして小倉公雄の猶子らしい名前になったのは建武三年(1336)であって、それまで「為兼の猶子であった経歴」は、薄くはなっても「消去」されたとは言い難いですね。
改名しなかったことは忠兼自身の意志でしょうから、忠兼は為兼の猶子であった経歴を決して恥じてはいなかった訳ですね。
コメント
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