学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その1)

2020-02-06 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 2月 6日(木)10時53分43秒

それでは三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)を見て行きます。(p519以下)

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    はじめに

 後醍醐天皇に多くの皇子・皇女があったことはよく知られており、『本朝皇胤紹運録』には、皇子十七名、皇女十五名の計三十二名が載せられている。そのなかには鎌倉幕府討幕に大きな役割を果たした護良親王、南朝の第二代となった義良親王(後村上天皇)、そして南朝勢力の回復を目指して各地へ派遣された宗良親王や懐良親王など、実に多くの個性的な人物が見られる。しかし今回はほとんど関心が向けられてこなかった一人の皇女(幸子内親王)の誕生に焦点をあててみたいと思う。
 その皇女の母は新室町院珣子内親王である。延慶四年(一三一一)二月二十二日、後伏見院の皇女として誕生している。母は関東申次であった西園寺公衡の女寧子(広義門院)であり、光厳・光明天皇の同母姉に当たる。持明院統内における珣子の立場は彼女の誕生をめぐる史料から窺うことができる。林葉子氏によれば、この出産にともない父西園寺公衡が執筆した『広義門院御産愚記』は「西園寺家にとっては久しぶりの国母となる可能性をこめた御産の前例記」であり、「来るべき皇子降誕の際の手引き書」としての意味をもっていたとされている。つまりこの広義門院の御産は、後伏見院・西園寺公衡の大きな期待を背負ってのものであった。結果的には皇子でなく皇女(珣子)の誕生となったが、『園太暦』延慶四年(一三一一)二月二十二日条に「雖皇女被進御剣也」とあるような特別の扱いを受け、さらに同年六月には内親王宣下を受けている。そして文保二年(一三一八)には一品に叙されるなど、その立場は、長男の量仁(光厳天皇)に次ぐ存在であった。
 これまで後醍醐天皇については、彼の強烈な個性が注目を集め数多くの研究が蓄積されており、また建武政権をめぐっても森茂暁氏の一連の論考を始めとして多くのことがすでに明らかになっている。本論では、後醍醐天皇皇女(幸子内親王)の母珣子内親王の立后とその背景、そして彼女の出産をめぐる祈祷史料の分析などを通じて、建武政権期における政治状況について新たな一断面を描き出すことを目的としたい。
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主要登場人物を生年順に簡単に整理しておくと、

西園寺公衡(1264-1315)
後醍醐天皇(1288-1339)
後伏見天皇(1288-1336)
西園寺寧子(広義門院、1292-1357)
珣子内親王(新室町院、1311-37)
量仁親王(光厳天皇、1313-64)
豊仁親王(光明天皇、1322-80)

となります。
大覚寺統の後醍醐と持明院統の後伏見は同年の生まれですが、後伏見は永仁六年(1298)に僅か十一歳で即位するも三年後の正安三年(1301)に退位。
他方、後醍醐は徳治三年(1308)に九歳下の花園の皇太子となり、文保二年(1318)に三十一歳で即位します。
後伏見と西園寺寧子(広義門院)との間に生まれた珣子内親王は光厳天皇より二歳、光明天皇より十一歳上の同母姉ですね。
続いて、本論に入ります。(p520以下)

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    一 珣子内親王立后とその背景

 鎌倉幕府の滅亡後、正慶二年(一三三三)六月五日、後醍醐天皇は二条富小路殿へ還御すると、元号を「元弘」に復し、さらに光厳天皇が践祚した元弘元年九月以後の任官叙位をすべて停廃した。また皇太子康仁を廃し、崇明門院(禖子)を内親王とするとともに「礼成門院如故為中宮」として、後醍醐天皇の中宮を止め院号(礼成門院)を称していた禧子を再び中宮に戻している。さらに七月一日には皇太后宮とした。ところがこの約三ヵ月後、『后宮略伝』によると、

  後京極院禧子、<太政大臣実兼公女、後醍醐院后>、元弘三年十月十二日院号、元中宮、今日崩、<此御事者、正慶ニ礼成門院ト申キ>

とあるように、同年十月十二日、急に禧子は崩じ、同日「後京極院」と院号が定められている。この突然の死をめぐって『太平記』では、「是只事ニアラス、亡卒怨霊共ノ所為ナルヘシ」として、その「怨害」を止めるために、諸寺において大蔵経の書写などが行われたことが記されている。
 珣子内親王が立后されたのはこのわずか二ヶ月後であった。『女院小伝』によれば、

  新室町院<珣子>後伏見院一女、母広義門院、元弘三十二七冊中宮、

とあり、十二月七日、中宮に冊立され、同日に立后の節会が行われている。またこれに併せて中宮大夫には西園寺公宗が補されている。珣子とこの西園寺公宗は叔母・甥の関係となる。
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段落の途中ですが、ここでいったん切ります。
西園寺家は、

実兼(太政大臣、1249-1322)
→公衡(左大臣、1264-1315)
 →実衡(内大臣、1288-1326)
  →公宗(権大納言、1310-35)

と続いて、西園寺禧子(1303-33)は実兼の娘ですが、『増鏡』巻十三「秋のみ山」によれば、

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今の上は、早うより西園寺の入道大臣の末の御女、兼季の大納言の一つ御腹にものし給ふを、忍びて盗み給ひて、わくかたなき御思ひ、年をそへてやんごとなうおはしつれば、いつしか女御の宣旨など聞ゆ。程もなく、やがて八月に后だちあれば、入道殿もよはひの末にいとかしこくめでたしと思す。
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とのことで(井上宗雄『増鏡(下)全注釈』、p58)、まだ皇太子だった頃の後醍醐が西園寺実兼の邸から「忍びて盗み給ひて」、即位後に女御、そして中宮とした女性です。
『増鏡』では時期が明示されていませんが、『花園院宸記』によれば「忍びて盗み給ひて」は正和二年(1313)秋の出来事ですね。
女御宣旨は文保二年(1318)七月二十八日、中宮となったのは翌元応元年(1319)八月七日です。
また、西園寺寧子(広義門院)は公衡の娘なので、西園寺禧子より十一歳も年上でありながら、禧子の姪となります。
後伏見と広義門院の子、珣子内親王(1311-37)は西園寺禧子より八歳下です。
西園寺禧子が実兼の晩年、五十五歳の時に生まれた子なので、関係者の年齢と親族関係が錯綜して分かりにくいですね。

西園寺寧子(広義門院、1292-1357)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AF%A7%E5%AD%90
西園寺禧子(礼成門院、後京極院、1303-33)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E7%A6%A7%E5%AD%90
西園寺公宗(1310-35)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%AE%97
珣子内親王(新室町院、1311-37)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%98%E3%82%85%E3%82%93%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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