学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

赤橋種子と正親町公蔭(その2)

2021-03-09 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 9日(火)12時42分42秒

正親町家は西園寺家の分家・洞院家のそのまた分家で、

  洞院公守(1249-1317)→正親町実明(1274-1351)→正親町公蔭(忠兼、1297-1360)

と続いています。
他方、『園太暦』の著者・洞院公賢の家系は、

  洞院公守(1249-1317)→洞院実泰(1269-1327)→洞院公賢(1291-1360)

と続いていて、洞院公賢は正親町公蔭の六歳上の従兄ですね。
さて、家永論文の続きです。(p113以下)

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 直仁の生母実子は公蔭の異母姉妹である。直仁は登子・尊氏夫妻の義理の甥、義詮の従兄弟にあたる。直仁を正嫡に定めた理由は、尊氏らと親しい親族関係にあった点に求められる。【中略】
 正親町公蔭は異母姉妹である宣光門院実子と同じ永仁五年(一二九七)に生まれた。歌人京極為兼の養子となり、忠兼と名乗った。正和四年(一三一五)一二月に為兼が失脚した後、翌年正月に蔵人頭を免じられた。『公卿補任』には、その後「辺土」に「籠居」したとある。種子の産んだ忠季は元亨二年(一三二二)の誕生である。種子との結婚時期が窺われる。
 忠兼(公蔭)は光厳天皇践祚後、正慶元年(元弘二年・一三三二)一〇月に権中納言となり、六波羅探題滅亡後の正慶二年五月一七日に職を止められた。建武二年(一三三五)後半に姉妹実子が直仁を産んだ。「忠兼」から「実寛」に改めたのち、建武四年二月三〇日に「公蔭」に改めて正親町家に復した。同年七月二〇日に参議、暦応二年(一三三九)八月一二日に権中納言、貞和二年(一三四六)二月一八日に権大納言となった。
 時期上限の確定は困難だが、史料一のあと、光厳の御所持明院殿には、光厳・直仁を囲繞する形で、正親町公蔭の近親女性五人がいた。直仁の准母徽安門院寿子(公蔭の姪)、直仁の生母宣光門院実子、直仁の乳母「対御方」、実子の女房「宣光門院廊御方」(以上は公蔭の姉妹)、寿子の女房「徽安門院一条」(公蔭の女子)である。
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いきなり細かな話に入ってしまって、家永氏作成の「関係略系図」(p113)を見ないと訳が分からない内容かもしれません。
直仁親王関係はともかく、鎌倉時代最末期に限ればそれほど複雑な話ではないのですが、家永論文は相当の応用問題を扱っているので難解ですね。
そこで、内容的には重複しますが、国文学者の研究を参照しつつ、もう少し正親町公蔭(忠兼)について基礎的な情報を固めておきたいと思います。
公蔭の経歴で何といっても特徴的なのは「歌人京極為兼の養子となり、忠兼と名乗った」点です。
家格からいえば正親町家(洞院家)の方が京極家より遥かに高いのですが、忠兼は何故か京極為兼の養子(または猶子)となります。
そして正和四年(1315)、忠兼が十九歳のときに遭遇した京極為兼の失脚、ついで二度目の流罪という大事件により、それまで順調だった忠兼の人生も暗転し、以後十五年間、その官歴に長い空白期間が生まれます。
そして、「種子の産んだ忠季は元亨二年(一三二二)の誕生」なので、この空白期間に忠兼は赤橋種子と出会い、結婚したと思われます。
北条一門の中でも得宗家につぐ超名門、赤橋家のお嬢様である種子からすれば、流罪となった京極為兼の猶子で、公家社会における出世の見込みが全く閉ざされていた忠兼と結婚することに何のメリットがあったかというと、全くなかったと思います。
赤橋種子にとって全然メリットがなく、親や親族からは大反対されたであろうこの結婚に種子が踏み切った理由を考えると、もしかしてこの結婚は、当時の日本では稀な「恋愛結婚」なのではなかろうか、というのが私の想像(妄想?)です。
そして、二人が結びついた理由としては、京極為兼失脚後の忠兼に残された唯一の才能である歌人としての能力ではなかろうかと想像を重ねると、種子と『臨永集』の歌人「平守時朝臣女」(『臨永集』の表記)との関係も問題となってきます。
つい先日まで、私は鎮西探題滅亡の際に赤橋英時の妹、「平守時朝臣女」も殺されてしまったのではないかと思っていました。

謎の女・赤橋登子(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e90942d529b1b3a7d0e87c141516fea5

しかし、赤橋久時に三人の女子がいたことを示す「北条系図」も少し変なところがあり、種子と『臨永集』の歌人「平守時朝臣女」が同一人物であって、和歌を通じて京極派の歌人・忠兼と知り合った可能性もあり得るように思われます。
そこで、歌人としての忠兼の周辺を少し見て行きます。
家永氏は参考文献に井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院、1987)を挙げておられますが、より新しい文献として井上氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)があるので、次の投稿から同書を見て行きます。
コメント
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