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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)

2021-01-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月26日(火)12時01分37秒

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』の紹介を三回ほど続けてきましたが、タイトルがバラバラだと後で検索・参照するときに不便なので、今回から書名を入れることにします。
ということで、建武元年(1334)の話の続きです。(p367以下)

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 七夕内裏七首には天皇・雅朝・為定が詠じた(藤葉<七夕月>・新続古今三七七・三七八)。因みに明題和歌全集や類題和歌集に、ただ「御会」「内裏御会」とあって、七夕月・七夕霧・七夕河・七夕草・七夕鳥の題によって人々が詠じた会があった。作者は天皇・明釈・為定・実忠・季雄・公脩・惟継・為明・為忠・経有・為冬・為親・公明・隆教・隆朝・光吉・公泰・寂阿<丹波忠守>・公宗・雅朝・実教。明釈とあるので一応元徳二、三年か、建武元、二年かと思われるが、公宗(建武二誅)が作者になっており、建武二年ではないようである。年次は未詳だが一応掲げておく。十五夜会(<雅朝・行房・永能他。藤葉・新続古>)。
 以上を通じてこの頃の歌壇は二条家の人々によってリードされていたらしい事が如実に知られるし、またそれは当然なことであった。なお他に注意されるのは次の如き点である。
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言うまでもありませんが、この二条家は摂関家の二条家とは別の歌道の家で、この時期は二条為世を中心としています。
藤原定家(1162-1241)の子孫が為家(1198-1275)→為氏(1222-86)→為世(1250-1338)と続いていて、「為」が通字ですね。
ただ、二条家が「為」を独占している訳ではなく、為家の同母弟・為教の京極家、為家の異母弟・為相(母は阿仏尼)の冷泉家にも「為」が多く、非常に紛らわしいです。

二条為世(1250-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96

なお、三条公明(1281-1336)と寂阿(丹波忠守、?-1344)の名前が出ていますが、この二人は『徒然草』第一〇三段の、

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 大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれけるところへ、医師〔くすし〕忠守参りたりけるに、侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを、「唐瓶子〔からへいじ〕」と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちてまかり出でにけり。
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というエピソードで有名な仲良しコンビですね。
上記引用は小川剛生訳注『新版 徒然草』(角川文庫、2015)から行いましたが(p103以下)、小川氏は『二条良基研究』(笠間書院、2005)において、自ら設定した「そもそも<作者>とは何であろうか」という「なぞなぞ」を検討し、丹波忠守が『増鏡』の著者で二条良基が監修者であった、と解かれました。
まあ、『増鏡』の著者としては忠守程度の身分の人では無理が多いことが明らかなので、私はあまり感心しなかったのですが、その後、『人物叢書 二条良基』(吉川弘文館、2020)では、小川氏もご自身の説を撤回されて、古くからの通説である二条良基説に戻っておられますね。
かつてのご自身の迷答(?)に「腹立ちてまかり出でにけり」という訳でもないでしょうが。

「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/16665e8f7d97eaf7bdb417181c2f1cb2
『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25e3325c1d57ad163fd6338cf9f68df4
小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25bff1410b6473592b94072dc69d40b4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dd111d27c6978b428f696122434f45c
二条良基を離れて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ecab544e96e7299adab407b4b94ca6

『中世歌壇史の研究 南北朝期』に戻ると、井上氏は「なお他に注意されるのは次の如き点である」として、最初に飛鳥井家の動向について語りますが、これは歴史学の観点からはあまり重要ではないので省略します。
そして「永能」についての話となりますが、こちらは細かい話ではあるものの、武家歌人に関係してくるので紹介します。(p368)

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 次に、十五夜の会に出ている永能は、星野三河守保能(続千載作者)の子。従五位左近将監と尊卑分脈にみえる者らしい。この星野氏は熱田大宮司族で、代々昇殿を聴されていたから、宮廷の会にも出席できたのであろうが、建武新政期には地下の武士までも武者所において天皇から題を賜わって詠歌する事があった。新千載七八〇に「後醍醐院の御時、武者所にさぶらひけるに、原霞といへる題を賜はりてつかうまつりける」と詞書して河内(源)知行(親行孫、法名行阿)の詠がみえる。行阿は後年「原中最秘抄」の奥書に

  (後醍醐)              (恒良)
  吉野先皇御治天之時、摂度々公宴畢、加之、龍楼・竹園・執柄・大家等、所々会席之候末座者也

とみえ、この頃さかんに行われた各所の会に知行は出席した。天皇に河内本源氏物語を書写進上した事もある(同奥書)。(知行については山脇毅『源氏物語の文献学的研究』に記述がある)
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ということで、「建武新政期には地下の武士までも武者所において天皇から題を賜わって詠歌する事があった」という点は興味深いですね。
さて、この後、尊氏の名前が出てきます。
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