投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月23日(火)12時59分6秒
続きです。(p13以下)
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この時代、既に東国にも和歌に代表される都の文化が十分に浸透していた事は言うを俟たないが、それにしても十代半ばにして都の勅撰集撰者のもとに詠草を送る早熟さには驚きを禁じ難い。このような早熟さを持っていたかどうかは不明だが、弟直義も和歌に深い関心を寄せていることを考え併せれば、尊氏個人の資質のみならず、その環境をも考慮すべきであろう。この点に関し、早く井上氏が母方の実家上杉家(元来貴族階級の家柄で、母清子やその兄弟達も勅撰集歌人である)の文化性を指摘され、またやや後年の事になろうが、赤橋家(北九州歌壇で活躍した鎮西探題英時らがいる)出身の登子との結婚も和歌への傾倒を助長したであろう。一方小川氏は、高氏〔こうし〕そして上杉氏をも被官として捉え、彼ら被官の和歌活動が尊氏を刺激したと推測されている。
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「井上氏」に付された注(6)は『中世歌壇史の研究 南北朝期』の書名だけを挙げていますが、具体的には、
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尊氏の祖義氏は続拾遺の作者であったが、その後足利氏から勅撰歌人を出していない。しかし尊氏・直義兄弟の母清子の実家上杉氏は、元来勧修寺支流の下級貴族といわれ、関東に下って武士になるが、やはりその文化性は失わなかったようで、清子の兄重顕(伏見院蔵人)は玉葉・続千載作者、同じく兄弟の頼成(永嘉門院蔵人)も風雅作者。清子も歌をたしなんで、風雅作者である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe
ということですね。
「北九州歌壇」は井上宗雄氏の用語で、川添昭二氏は「鎮西探題歌壇」と言われています。
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfe007b7d6b954ab20cfdaaad8d09115
川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fdbc57baf8aa4f6c8db931f265801da8
「小川氏は、高氏そして上杉氏をも被官として捉え」は、石川氏が高氏と上杉氏の異質性を意識されていたことを反映しているように見えます。
この点、小川剛生氏は両者を「被官」として単純に並記されていますね。
ま、細かいことですが。
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ところで『井蛙抄』の記述によれば、『続千載集』編纂の折に撰者二条為世は、「さして歌よみにもあらざる人」に対してまでも詠歌の提出を求めたという。その方針からすれば、東国の得体の知れない若輩の武家歌人の歌だからといって最初から見向きもされなかったわけではなかろうが、結果的に尊氏の歌は『続千載集』には入集しなかった。その程度の出来栄えだったのだろう。『続後拾遺集』に採られたのも、詠み溜めておいた歌ではなく、入集を願って添えた歌であった。そうした結果を踏まえて言えば、早熟とはいえ、さすがに未だ歌人としての実力は伴っていなかったのであろう。だが注目されるのは、十代半ばにして単に抒情の発露として和歌という手段を選んでいたに留まらない事である。十代半ばにして勅撰集歌人となる栄誉を欲していた、そういう野心を東国の地で育んでいたのである。
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『井蛙抄』は「和歌四天王」の筆頭格・頓阿の歌論書ですね。
井蛙抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E8%9B%99%E6%8A%84
尊氏が「十代半ばにして単に抒情の発露として和歌という手段を選んでいたに留まら」ず、「十代半ばにして勅撰集歌人となる栄誉を欲していた」「そういう野心を東国の地で育んでいた」ことは重要です。
もちろん、この「野心」を政治的野心に直結させることはできませんが、尊氏の視野が若年から極めて広かったことは注目してよいと考えます。
上杉家からは京都の最新情報が頻繁に寄せられたでしょうし、赤橋登子の姉妹、正親町公蔭の正室・赤橋種子からも京都情報が到来したはずです。
また、登子の兄・鎮西探題の赤橋英時と「平守時朝臣女」からは九州、そして海外情報ももたらされたはずですね。
尊氏のみならず、登子も視野の広い、極めて知的な女性だったと私は想像します。
続きです。(p13以下)
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この時代、既に東国にも和歌に代表される都の文化が十分に浸透していた事は言うを俟たないが、それにしても十代半ばにして都の勅撰集撰者のもとに詠草を送る早熟さには驚きを禁じ難い。このような早熟さを持っていたかどうかは不明だが、弟直義も和歌に深い関心を寄せていることを考え併せれば、尊氏個人の資質のみならず、その環境をも考慮すべきであろう。この点に関し、早く井上氏が母方の実家上杉家(元来貴族階級の家柄で、母清子やその兄弟達も勅撰集歌人である)の文化性を指摘され、またやや後年の事になろうが、赤橋家(北九州歌壇で活躍した鎮西探題英時らがいる)出身の登子との結婚も和歌への傾倒を助長したであろう。一方小川氏は、高氏〔こうし〕そして上杉氏をも被官として捉え、彼ら被官の和歌活動が尊氏を刺激したと推測されている。
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「井上氏」に付された注(6)は『中世歌壇史の研究 南北朝期』の書名だけを挙げていますが、具体的には、
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尊氏の祖義氏は続拾遺の作者であったが、その後足利氏から勅撰歌人を出していない。しかし尊氏・直義兄弟の母清子の実家上杉氏は、元来勧修寺支流の下級貴族といわれ、関東に下って武士になるが、やはりその文化性は失わなかったようで、清子の兄重顕(伏見院蔵人)は玉葉・続千載作者、同じく兄弟の頼成(永嘉門院蔵人)も風雅作者。清子も歌をたしなんで、風雅作者である。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe
ということですね。
「北九州歌壇」は井上宗雄氏の用語で、川添昭二氏は「鎮西探題歌壇」と言われています。
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfe007b7d6b954ab20cfdaaad8d09115
川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fdbc57baf8aa4f6c8db931f265801da8
「小川氏は、高氏そして上杉氏をも被官として捉え」は、石川氏が高氏と上杉氏の異質性を意識されていたことを反映しているように見えます。
この点、小川剛生氏は両者を「被官」として単純に並記されていますね。
ま、細かいことですが。
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ところで『井蛙抄』の記述によれば、『続千載集』編纂の折に撰者二条為世は、「さして歌よみにもあらざる人」に対してまでも詠歌の提出を求めたという。その方針からすれば、東国の得体の知れない若輩の武家歌人の歌だからといって最初から見向きもされなかったわけではなかろうが、結果的に尊氏の歌は『続千載集』には入集しなかった。その程度の出来栄えだったのだろう。『続後拾遺集』に採られたのも、詠み溜めておいた歌ではなく、入集を願って添えた歌であった。そうした結果を踏まえて言えば、早熟とはいえ、さすがに未だ歌人としての実力は伴っていなかったのであろう。だが注目されるのは、十代半ばにして単に抒情の発露として和歌という手段を選んでいたに留まらない事である。十代半ばにして勅撰集歌人となる栄誉を欲していた、そういう野心を東国の地で育んでいたのである。
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『井蛙抄』は「和歌四天王」の筆頭格・頓阿の歌論書ですね。
井蛙抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E8%9B%99%E6%8A%84
尊氏が「十代半ばにして単に抒情の発露として和歌という手段を選んでいたに留まら」ず、「十代半ばにして勅撰集歌人となる栄誉を欲していた」「そういう野心を東国の地で育んでいた」ことは重要です。
もちろん、この「野心」を政治的野心に直結させることはできませんが、尊氏の視野が若年から極めて広かったことは注目してよいと考えます。
上杉家からは京都の最新情報が頻繁に寄せられたでしょうし、赤橋登子の姉妹、正親町公蔭の正室・赤橋種子からも京都情報が到来したはずです。
また、登子の兄・鎮西探題の赤橋英時と「平守時朝臣女」からは九州、そして海外情報ももたらされたはずですね。
尊氏のみならず、登子も視野の広い、極めて知的な女性だったと私は想像します。