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謎の女・赤橋登子(その5)

2021-03-03 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 3日(水)11時38分31秒

私は「中世人今際図巻 死に様データベース」という陰気なタイトルのブログを時々覗いているのですが、このブログを運営されているのは立派な著書もある歴史研究者で、内容は信頼できます。
同ブログの「赤橋登子」の項には、

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北条氏一門赤橋久時の娘。
室町幕府初代将軍足利尊氏の妻で、2代将軍義詮・初代鎌倉公方基氏の母。
正慶2年(1333)5月、夫尊氏が、後醍醐天皇の倒幕軍に投じた際には、子の千寿王(のちの義詮)とともに、鎌倉にあったが、脱出し、新田義貞らの倒幕軍と北条氏一門の、鎌倉市街戦には、巻き込まれずには済んだ。
ただ、鎌倉幕府最後の執権をつとめた兄守時は、同年5月18日、鎌倉巨福呂坂で、新田勢と戦ったのち、自刃。
鎮西探題であったもう一人の兄英時も、同年5月25日に、九州の少弐貞経・大友貞宗らに敗れて、筑前博多で自害した。
赤橋登子にとって、夫尊氏は、親兄弟の仇の筋に当たらなくもない。

http://imawazukan.blog.shinobi.jp/Entry/47/

とありますが、「親兄弟の仇の筋に当たらなくもない」は奇妙な表現であって、「親兄弟の仇の筋に」当たっているのは明らかです。
鎮西探題には英時の妹で歌人であった女性もいて、おそらくこの女性も犠牲者となったでしょうから、より正確には「親兄弟姉妹の仇の筋」ですね。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その8)(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dce23fb995dd1b94a833f744bba9ad78
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfe007b7d6b954ab20cfdaaad8d09115

まあ、鎌倉攻撃は新田義貞、鎮西探題攻撃は大友貞宗等の行為であって、尊氏が直接関与した訳ではない、という言い方もできるかもしれませんが、近時の研究は新田義貞は足利一門として尊氏の指示のもとに動いていたことを明らかにしており、大友貞宗等も尊氏と緊密な連絡を取って鎮西探題を攻撃していた訳ですから、尊氏が「親兄弟姉妹の仇の筋」であることは動かせません。
そして、夫が妻の実家の一族郎党を皆殺しにするという話は、戦国時代はともかく、中世前期には珍しいはずで、私が思い浮かべることができるのは比企氏の乱に際しての北条義時くらいです。
ただ、義時の場合、私は「姫の前」と離縁した後ではないかと思っています。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/048db55d52b44343bbdddce655973612
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5
「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1e440c1224dcbf408f9ee3823df979a
比企尼と京都人脈
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55341373fc51df8abada0bf0571afc5c

実家の一族が皆殺しになった場合、中世の女性の生き方としては、おそらく出家して一族の菩提を弔うのが常識的ではないかと思いますが、赤橋登子は出家はしませんでした。
また、「親兄弟姉妹の仇の筋」である夫と離縁することがなかったばかりか、義詮を産んだ十年後の暦応三年(1340)には基氏を産み、もう一人、女子(鶴王)も産んだようで、尊氏とは終生仲良く暮らしたようです。
現代人の感覚では、自分の親兄弟姉妹を皆殺しにした夫と一緒に普通に生活し、普通に子供を産んだりするのは相当に気持ちが悪い、というか、サイコパス的な不気味さを感じますが、登子はなぜにこうした生き方を選んだのか。
登子に関する論考は少なくて、国会図書館サイトで「赤橋登子」を検索すると、論文は僅かに一つです。
その唯一の論文である谷口研語氏の「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』所収、文献出版、1997)を確認してみましたが、大半の記述が『太平記』に依拠するものでした。
そして同論文の「おわりに」には、

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 いずれにせよ、登子像を描こうとする本稿の試みは、推測の上に推測を重ねる結果となってしまった。その推測の上に推測を重ねて浮かび上がる、私の登子像、それは血を分けた子のみを大事とする女の姿である。それは彼女の本性だったのだろうか。それとも、あの元弘の乱の過酷な体験によって身に付いたものだったのだろうか。竹若や直冬の例からすれば、それは彼女の本来的な性格だっただろうと思われる。元弘の乱の過酷な体験は、その彼女の性格を、さらに執拗で強靭なものにしたにちがいない。そうさせたもの、それは、自らの血を分けた子供たちに、足利幕府を継承させようとする執念だっただろう。
 登子の血、それは北条一門の血であった。
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とありますが、率直に言って、私には谷口氏に賛同できる部分は一つもありません。

※(2021.3.19追記)「鎮西探題には英時の妹で歌人であった女性もいて、おそらくこの女性も犠牲者となったでしょうから」と書いてしまいましたが、この女性は生存が明らかなので訂正します。

勅撰歌人「平守時朝臣女」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c91b274f8318bab508bec111024b3981
コメント
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謎の女・赤橋登子(その4)

2021-03-03 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 3日(水)11時01分29秒

「人質といっても別に拘禁されている訳ではなく、足利邸に普通に住んでいただけですから、適当な時期に鎌倉を脱出すればよいだけの話で、実際に登子と義詮はそうしています」と書いてしまいましたが、厳密に言うと登子が鎌倉を脱出したことを明記する史料はないようです。
『太平記』には義詮の脱出が記されているだけで、第十巻第一節「長崎次郎禅師御房を殺す事」に、

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 さる程に、足利治部大輔高氏敵になり給ひぬる事、道遠ければ、飛脚未だ到来せず、鎌倉には、かつて沙汰なかりけり。かかる処に、子息千寿王殿、五月二日の夜半に、大蔵谷〔おおくらがやつ〕を落ち、いづくともなくなり給ひにけり。これによつて、「すはや、親父〔しんぷ〕の京都にて敵になり給ひけるは」とて、鎌倉中の貴賤上下、ただ今事のあらんずるやうに騒ぎ合へり。
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とあります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p99)
尊氏が謀叛の意志を明らかにしたのは元弘三年(1333)四月二十七日なので、千寿王(義詮)四歳が鎌倉を脱出した五月二日というのは絶妙のタイミングですね。
千寿王の鎌倉脱出が早すぎれば、尊氏の動きが怪しいという知らせを持った飛脚が鎌倉から京に向かい、尊氏の計画が頓挫してしまいます。
また、尊氏謀叛が判明して、その飛脚が鎌倉に到着した後ならば脱出は困難です。
ということで、五月二日の脱出はまさに最適のタイミングであり、尊氏と千寿王周辺は緊密に連絡を取り合っていることが分かります。
そして、この後、千寿王は鎌倉攻めの新田の軍勢に加わります。
即ち、第十巻第三節「天狗越後勢を催す事」に、

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 その日の晩景に、戸祢川の方より、馬、物具爽かに見えたる兵二千余騎、馬煙を立てて馳せ来たれり。敵かと見れば、さはあらで、越後国の一族、里見、鳥山、田中、大井田、羽川の人々にてぞありける。【中略】面々に馬より下りて、おのおの対面して式代〔しきだい〕し給へば、後陣の越後勢、甲斐、信濃の源氏等、家々の旗を指して、五千余騎にて小幡庄まで追つ付き奉る。
 「これひとへに、八幡大菩薩の擁護に依るものなり。暫くも逗留あるべからず」とて、同じき九日、武蔵国へ打ち越え給ふ。即ち記五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を具足し奉つて、二百余騎にて馳せ付いたり。その後、上野、下野、上総、下総、常陸、武蔵の兵ども、期〔ご〕せざるに馳せ付き、催さざるに馳せ来たつて、一日の中に二十万騎になりにけり。
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とあって(p106)、千寿王の軍勢は記五左衛門(紀政綱)以下僅かの人数だったようですが、ここで千寿王が参加したことが後で大きな意味を持ち、鎌倉攻めでは戦功抜群の義貞も、後に鎌倉から京に拠点を移さざるをえなくなります。
『梅松論』には、

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扨も関東誅伐の事は義貞朝臣その功をなす所に、いかゞ有りけむ、義詮の御所四歳の御時、大将として御輿に召されて、義貞と御同道にて関東御退治以後は二階堂の別当坊に御座有りしに、諸将悉く四歳の若君に属し奉りしこそ目出度けれ。是実に将軍にて永々万年御座有るべき瑞相とぞ人申しける。
http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあるだけで、千寿王の鎌倉脱出(五月二日)や新田との合流(九日)の日時を記している訳ではありませんが、まあ、特に疑う必要もなさそうです。
さて、この間、登子はどうしていたかというと、僅か四歳の千寿王をめぐるこのような手際の良い采配が登子を蚊帳の外として行われたとは考えにくく、むしろ登子が積極的に主導したと考える方が自然ですね。
登子の詳しい動向は分からないものの、足利邸に住んでいたなら当然感じたであろう怪しい気配を兄・守時に通報しなかったという不作為は明らかですから、登子は尊氏の謀反に突如として巻き込まれた犠牲者ではなく、むしろ積極的な加担者ではないかと思われます。

現代語訳『梅松論』(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou17.html
コメント
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