学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)

2021-01-24 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月24日(日)22時46分45秒

『中世歌壇史の研究 南北朝期』の続きです。(p366以下)

-------
 この間、新政府の為すべき事は頗る多く、雑訴決断所、次いで記録所・侍所・武者所などが次々に設けられた。十二月十七日には珣子内親王を中宮とした。西園寺公宗が中宮大夫となった。公宗は持明院統の有力な廷臣で、六月いったん権大納言を辞せしめられ、八月還任はしていたが、その沈淪は蔽うべくもなかった。珣子は後伏見院を父とし、公宗の叔母にあたる西園寺寧子(広義門院)を母とする。この立后の措置が持明院統の不満を緩和する為のものであった事は明らかである。この立后の屏風に歌人がそれぞれ詠を進めた。新千載及び新拾遺に多く採られ、なお新葉五〇〇・五九三、新後拾遺一六七、慈道親王集、或は明題和歌全集・類題和歌集にみえる。作者は天皇・慈道・邦省・尊良・道平・冬教・公宗・実教・公明・公脩・実忠・経宣・惟継・尊氏・為世・為定・為明・為冬・為親・隆教・雅朝・覚円・雲雅・後宇多院宰相典侍ら。二条派の人々が中心であるのはいうまでもない。
-------

西園寺家は公衡─実衡─公宗(1310-35)と続いて、西園寺寧子(広義門院、1292-1357)は公衡の娘ですから珣子内親王(1311-37)は公衡の孫、従って公宗とは従兄妹の関係ですね。
井上氏は「この立后の措置が持明院統の不満を緩和する為のものであった事は明らかである」とされますが、この点は歴史学の方で少し進展があります。
亀田俊和氏は『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)において、西園寺公宗の陰謀に関連して次のように書かれています。(p54以下)

-------
【前略】つまり、西園寺家はかつての勢威を失い、どんどん衰えていたのである。じり貧となった公宗が、鎌倉幕府体制の復活を目指して政権転覆の陰謀を企てたとしても不思議ではない。
 ところが最近、このような西園寺事件に関する定説的見解を修正、もしくは否定する新説が発表されている。せっかくなので紹介したい。
 まずは新室町院珣子内親王に関する三浦龍昭氏の研究である。【中略】
 この珣子が、建武の新政開始直後に後醍醐天皇の中宮として立后されたのである。これは、後醍醐天皇による持明院統への懐柔策と三浦氏に評価されている。
 しかも珣子はすぐに懐妊した。後醍醐は珣子が無事に出産することを願い、祈祷を熱心に行った。その数は何と六六回。同時期、他の皇族の出産に関する祈祷回数と比較しても断トツに多いそうである。これらの祈祷には、光厳上皇や西園寺公宗も積極的に参加している。
 もし珣子が皇子を出産し、その皇子が皇位に就くことになれば、親族の西園寺家が復権し、かつての栄光を取り戻す可能性は高い。前節でも述べたように、当時、皇太子は阿野廉子が産んだ恒良親王とされていた。しかし、中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある。それはそれでまた紆余曲折が予想され、新たな「両統迭立」を生み出す展開となったかもしれないが、無理をして天皇暗殺を企てるよりは成算があったであろう。
 ともかく、珣子は西園寺家の希望の星だったのである。つまり、西園寺公宗は、後醍醐の持明院統懐柔政策もあって、少なくとも当初は政権転覆など企てておらず、新政をむしろ積極的に支持していたことになる。
 しかし、珣子が出産したのは皇女であった(幸子内親王)。ここに西園寺家復権の望みは断たれた。公宗の陰謀計画が発覚するのは、皇女出産からわずか三ヶ月後のことである。
-------

井上著でも、すぐ後に恒良親王の立太子のことが出てきますが、これは元弘四年(1334)正月二十三日なので、珣子の立后の一か月後ですね。
「立后の屏風に歌人がそれぞれ詠を進めた」行事は、参加した歌人の数だけ見ても相当大規模なもので、珣子の出産に関する祈祷の尋常ならざる頻度と併せ、後醍醐の西園寺家との関係強化に寄せる熱意の大きさが伺われます。
ところで『太平記』では阿野廉子の存在感が極めて大きいため、研究者にも廉子を重視する人がかなり多く、最近では岡野友彦氏がその代表格ですが(『北畠親房』、ミネルヴァ書房、2009、p67など)、珣子内親王の一件は廉子の過大評価が「『太平記』史観」の一環であることを示しているように思われます。
なお、亀田氏が「西園寺事件に関する定説的見解」を「否定する新説」として紹介されている橋本芳和氏の「公宗無罪説」は無理が多く、引用は省略します。
また、亀田氏が叙述のベースとされた三浦龍昭氏の「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)は、私も亀田氏とは別の観点から少し検討したことがあります。
ただ、三浦氏は珣子内親王の立后の検討に際して、遊義門院に関する伴瀬明美氏と三好千春氏の先行研究に全面的に依拠されていたので、率直に言って三浦氏に賛同できる点はあまりありませんでした。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その1) ~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f733ba40d8e3f29a3e37d779a2304137
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ec36c7d3bfda33efdc10b81911eb255
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61c79f96b44457894268ac8aab823d10
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/451545f9a06ffcb47decb7852eff1cfc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b07826c5e0793f9459319d63f3099f45
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cdc2c396262ac0da5481ec383fdb6ec5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ba29eebcfe587bb836dfc166c642603
再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18af00a5ef28c16a1d00e19454e7975a
珣子内親王ふたたび
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/483c599c2e02190951746258d81671cc
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「聞わびぬ八月長月ながき夜... | トップ | 「先に光厳天皇が康仁を東宮... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

建武政権における足利尊氏の立場」カテゴリの最新記事