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森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その4)

2021-01-29 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月29日(金)11時29分15秒

後醍醐と護良の関係についてはなかなか難しい議論が多くて、私も今のところ多少の意見を言えるのは征夷大将軍に関することだけです。
そして、それも前回投稿で殆ど言い尽くしているのですが、森氏のこの論文には興味深い指摘が多いので、もう少しだけ紹介しておきます。
ということで、「いわば形式的なセレモニーであったと思われる」の続きです。(p202以下)

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 いっぽう、寺社や将士に対する所領の給付・安堵についての令旨が六波羅探題陥落後目立って多くなっている事実も見落とすことはできない。一覧表に見るように、対象となった所領は和泉・紀伊といった畿内近国にほぼ所在し、護良の勢力範囲と重なっている。ここで注目すべきは、元弘三年五月十日、摂津国三ケ庄(美河原・外院・高山)の領有を護良令旨(本文既出)によって認められた摂津・勝尾寺のように、のち建武新政府の裁判所における訴訟で逆転敗訴したケースの存在である。護良が安堵令旨を下すとき、相伝の理非より軍事的必要性を優先させたことによる当然ともいえる結果であった。このような不首尾は当事者に不信感をいだかせるのみならず、広く社会的混乱を巻き起こす一因となったであろう。護良の令旨発給が新政府の主催者たる後醍醐天皇の施政によって障害となるというようなことがままあったものと思われる。
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「護良が安堵令旨を下すとき、相伝の理非より軍事的必要性を優先させたことによる当然ともいえる結果であった」とありますが、戦争の最中に落ち着いて「相伝の理非」を検討する暇があるはずもなく、「軍事的必要性を優先」することがむしろ「当然」ですね。
森氏の見方は、ちょっと護良に酷のような感じがします。
護良は決して征夷大将軍を「自称」していたのではなく、きちんと後醍醐の了解を得ていたと考える私の立場からすれば、護良は意外にもけっこう律儀な人間であって、少なくとも主観的には後醍醐が与えてくれた権限の範囲内で動いていたのに、後になって後醍醐に梯子をはずされてしまったようにも見えます。
この点は、中先代の乱後の後醍醐と尊氏の関係と併せて、後で論じたいと思います。
さて、続きです。(p203)

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 護良が将軍のポストを剥奪されたのがいつか明証はない。しかし、管見の範囲では、その令旨における「依 将軍家仰、……」の表現が元弘三年八月二二日付(「歓喜寺文書」、一覧表の57)を最後に消滅し、同年九月二日付(「久米田寺文書、一覧表の58)では単に「依令旨、……」となっている。将軍の解任はこの間にあったものと思われる。しかも、将軍となる以前の令旨には「二品親王令旨」と記されていたことを想起すれば、将軍職解任と同時に二品の位階をも奪われた可能性も否定できない。
 管見の限りでは、最後の令旨は次のものである(「久米田寺文書、一覧表の59)。

  和泉国上下包近名事、為往古寺領、各別進止、無相違之条、寺家所進證文等分明也、而混三ケ里地頭職、乱妨当
  名<云々>、事実者、太以不可然、早任先度令旨、可被全所務者、依令旨執達如件、
      元弘三年十月三日     左少将〔四条隆貞〕(花押)奉
     久米田寺明智上人御房

 護良の最末期の令旨が彼の最後のとりでともいうべき和泉国関係、しかも討幕の旗揚以来むすびつきの深かった久米田寺あてである事実は、護良の置かれた立場をこのうえもなく雄弁に物語っている。
 護良の失脚はこうして始まった。これ以降のことについては、注(1)所引拙著の該当箇所に譲り、ここでは再説を控えたい。
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うーむ。
仮に「護良の最末期の令旨」の直後に護良が逮捕され、鎌倉に流されたのなら、私もこの元弘三年十月三日付の久米田寺宛の文書が「護良の置かれた立場をこのうえもなく雄弁に物語っている」と考えるのですが、実際にはこの後、一年以上の空白があります。
その空白期間において護良が何をしていたかというと、確実な史料に基づいて分かっているのは元弘三年十二月十一日に南禅寺で明極楚俊の法話を聴いたことくらいであり、後は『太平記』や『梅松論』の、どこまで信頼できるのか分からない話だけですね。
ところで、森氏は「将軍のポストを剥奪」「解任」という表現を使われていますが、私は後醍醐と護良の合意による「辞職」ではなかろうかと思っています。
もちろん私も後醍醐と護良がずっと良好な関係にあった、などと想定している訳ではなく、建武元年(1334)十月に両者の関係が破綻している以上、その暫く前から相当の緊張関係があったであろうことは明らかです。
しかし、『太平記』の影響で、佐藤進一氏を中心とし、森氏を含む従来の通説が、後醍醐・護良の関係は最初から緊張をはらんでおり、尊氏を交えて三つ巴の「公武水火の世」が建武新政発足直後から始まっていたのだ、としている点には多大な疑問を抱いています。
佐藤氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)など、その構成が、

「はじめに」→「公武水火の世」→「建武の新政」→「新政の挫折」(以下略)

となっていて、タイトルだけを見れば「建武の新政」の説明を始める前に「公武水火の世」を論ずるという極めて倒錯的な展開です。
この「公武水火」という表現自体は『太平記』ではなく『梅松論』が典拠であり、『梅松論』は、

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「一統の御本意、今においては更にその益無し」と思し召しければ、武家よりまた公家に恨みを含み奉る輩は、頼朝卿のごとく天下を専らにせむ事をいそがしく思へり。故に公家武家水火の諍ひにて元弘三年も暮れにけり。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou18.html

という具合いに、元弘三年(1333)の時点で既に「公武水火」の世だという書き方をしているのですが、私は「『太平記』史観」と並んで「『梅松論』史観」も相当に問題だと考えています。
大雑把な傾向としては、『太平記』も『梅松論』も建武元年(1334)以降に顕在化する諸事件や対立関係を元弘三年(1333)に前倒しして配置することにより、「公武一統」など所詮「あだ花」で、公武は最初から対立する宿命にあったのだ、というイメージを創り出しているように感じるのですが、この点も後で検討したいと思います。
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