学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その4)

2021-03-24 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月24日(水)12時49分55秒

(その3)では五行しか進みませんでしたが、続きです。(p14)

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 一三三三年、鎌倉幕府から船上山に向けて下された尊氏は後醍醐天皇側に翻心し、五月に六波羅探題を滅亡させ、呼応するかの如く関東で挙兵した新田義貞の軍勢(そこには尊氏の嫡男義詮もいた)が幕府を急襲して、鎌倉時代は終焉を迎える。そして後醍醐天皇の所謂建武新政期に入り、軍功を高く評価された尊氏も大きな存在感を示すようになるが、武士をも一元的に自らのもとに統括しようと目論む後醍醐との間に溝が生じ、次第にそれが深まって衝突するのは周知の通りである。
 同年十二月、後伏見院皇女珣子内親王が中宮となり、立后の屏風和歌が行なわれたが、尊氏もその歌人の一人となった(『新千載集』九八三)。現存する尊氏の和歌事跡を辿る限りではこの出詠が都の歌壇へのデビューという事になるようだが、いささか唐突な印象を拭えない。今や公卿に列しているとはいえ、出詠者の中で東国の武家歌人尊氏はやはり異色の存在であるように感じられる。新政権樹立以前の詠が今さら見直されて出詠歌人として選抜されたと見るのは不自然に過ぎるだろう。
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珣子内親王はなかなか面白い存在で、亀田俊和氏は『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)において、西園寺公宗の陰謀に関連して少し検討されています。

「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41

私自身も三浦龍昭氏の「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)という論文を素材として、亀田氏とは異なる観点から少し検討したことがあります。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その1) ~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f733ba40d8e3f29a3e37d779a2304137
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ec36c7d3bfda33efdc10b81911eb255
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61c79f96b44457894268ac8aab823d10
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/451545f9a06ffcb47decb7852eff1cfc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b07826c5e0793f9459319d63f3099f45
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cdc2c396262ac0da5481ec383fdb6ec5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ba29eebcfe587bb836dfc166c642603
再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18af00a5ef28c16a1d00e19454e7975a
珣子内親王ふたたび
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/483c599c2e02190951746258d81671cc

さて、『新千載集』は尊氏の執奏により撰集が進められた勅撰集で、その完成は尊氏没の翌延文四年(1359)ですから、珣子内親王立后の実に二十六年後ですね。
その成立にはなかなか複雑な事情があって、現在の私には論じる準備が全くありませんが、松本郁代・ 鹿野しのぶ氏に「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(一) ―附 『新千載和歌集』神祇歌九三八~九六〇番歌註釈―」(『横浜市立大学論叢.人文科学系列』70号、2019)と「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(二) ―附 『新千載和歌集』神祇歌九六一~九八八番歌註釈―」(同71号、2020)という論文があって、幸いなことにこれらは「横浜市立大学学術機関リポジトリ」で読むことができます。

https://ycu.repo.nii.ac.jp/

そして、「『新千載和歌集』神祇歌の配列考(一)」には、

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 その延文元年六月十一日、後光厳天皇は二条入道大納言為定に勅撰集撰集の綸旨を下した。これは将軍足利尊氏の執奏によるものである。この後の『新拾遺集』 『新後拾遺集』 『新続古今集』は全て武家執奏となった。
【中略】
 さて、『新千載集』の撰集意図については、深津睦夫氏の論に詳しい。それは後醍醐天皇を讃頌しまたその御霊を鎮魂するものであるという。これは足利尊氏の後醍醐天皇に対する強い意志が背景にあった。それが故に法体であったにもかかわらず南朝にも通じていた二条為定を撰者とし、下命者の後光厳天皇が撰者とする意向があったであろう冷泉為秀は、どんなに歌道家としての力を持っていても、撰者から完全に漏れるのである。深津氏は本歌集が崇徳院の鎮魂を目的とした『千載集』の例に倣ったものであることも、書名が『新千載集』であることとともに指摘する。さらに氏はこの後醍醐天皇の鎮魂という意図を慶賀部において読み取っておられる。このことは本稿で松本郁代氏が考察するように『新千載集』神祇歌でも大いに表現されている。
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といった指摘があります。(p270)
まあ、非常に複雑な背景があるのですが、ひと言でいえば『新千載集』は尊氏が歌の世界に造った天龍寺のようなものですね。
次の投稿で尊氏の歌を紹介します。
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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その3)

2021-03-24 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月24日(水)11時00分28秒

続きです。(p14)

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 一三三一年に成立した『臨永集』に三首、同じ頃に成立した『松花集』の現存部分に二首採られた。この頃には二条派内で存在を知られるようになったのだろうか。ただ二集ともに九州と縁深い私撰集である事を考慮すると、前述の赤橋家が仲介して入集せしめた可能性も想定されよう。
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『松花集』については今まで殆ど検討してきませんでしたが、『新編国歌大観 第6巻 私撰集編 2』(角川書店、1988)の福田秀一・今西祐一郎氏の解題(p955)によれば、

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 撰者は未詳だが、おそらく浄弁(当時九州在住か)が関与しているであろう。作者の官位表記から、元徳三年(一三三一)夏秋頃、臨永和歌集と同時期の成立と推定されている。原形は四季(各一巻)恋(二巻)雑その他(計四巻)の一〇巻約六~七〇〇首であったと推測されるが、完本は伝わらず、現在ある程度まとまって伝存するのは、次の四部分である。【後略】
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という歌集です。
「源高氏」の二首は、

251 露にしほれ 嵐になれて 草枕 たびねのとこは 夢ぞすくなき
263 あらましに 幾度すてて いくたびか 世には心の 又うつるらむ

ということで、手慣れた感じはしますが、まあ、率直に言ってちょっとしみったれた歌ですね。
さて、石川論文からは少し脱線気味になりますが、『臨永集』との比較を兼ねて、鎮西探題・赤橋英時、「平守時朝臣女」、大友貞宗、少弐貞経の歌も紹介しておきたいと思います。

軍書よりも 歌集に悲し 鎮西探題(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33a2844d936f72223e9031a8676265e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c67ad23eea2cf42520501814bbcd4bc3

まず、「平英時」(赤橋英時)を見ると、

65 吉野がは はやせの浪に ちる花の とまらぬものと 春ぞくれ行く
84 けさみれば うつろふ色も なかりけり まだ霜とけぬ 庭の白菊

170は前の「よみ人しらず」の歌とセットになっていて、

    人のもとにつかはしける         よみ人知らず
169 なげかじな 猶おなじ世に ながらへて ふるもかひある ちぎりなりせば
    かへし                        平英時
170 われもげに おなじうき世と かこちきぬ ふるにかひなき 人の契は

196は北畠具行の歌の後に「おなじ心を」と出てきます。
ま、編者がそういう配列にしただけでしょうが。

     内裏にて五首歌講ぜられ侍りける時、月前恋 権中納言具行卿
195 なほざりに またれしまでや 月みるも なぐさむよはの 思ひなりけん
     おなじ心を
196 月影の ふけぬる後も 偽に ならはぬほどは 猶ぞまたるる

246も小倉実教の歌の後に「おなじ心を」と出てきますね。

     元亨三年八月十五夜亀山殿にて人人題をさぐりて歌つかうまつり
     けるに、旅                 前大納言実教卿
245 もろともに おなじ山路は こえつれど やどとふ暮は 行きわかれつつ
     おなじ心を                 平英時
246 われよりも いそぐとみえて 夕ぐれの やどとふさとを すぐる旅人

ということで、残存二八七首のうち、赤橋英時の歌は五首ですね。
ついで「平守時朝臣女」の歌は、

182 ながきよの 月にやいとど ちぎらまし 人の心の あきはしらねど
     山家を
237 よそにては うき世のほかと 聞きしかど すめばかはらぬ 山の奥かな

ということで二首。
少弐貞経と大友貞宗の歌は各一首です。

                            藤原貞経
151 あはれともたれかいはせのもりの露きえなんあとの名こそをしけれ

                            平貞宗
253 末も猶 遠きたびねの 草枕 夢にもあすの 道いそぐなり

以上、武家歌人を中心にほんの少しだけ見てきましたが、「同じ心を」がちょっと気になります。
この詞書は別に赤橋英時だけではなく、

67 前大納言実教卿/ 68 宰相典侍
75 惟宗光吉朝臣/ 76 源清兼朝臣
130 丹波忠守朝臣/ 131 玄観法師
136 前大納言為世/ 137 中宮
176 従三位藤子/ 177 権律師浄弁

という組み合わせでも登場していますが、二回登場するのは赤橋英時と小倉実教だけで、しかも小倉実教はいずれも前の方、赤橋英時はいずれも後の方です。
二つの歌が「同じ心」であることは編者の評価ですが、赤橋英時の歌が二回とも後ろにあることは、あるいは英時が「自分だったらこう詠むな」と言っているようにも感じられます。
つまり、英時が編者の可能性もあるのではないですかね。
全く同時期に浄弁が『臨永集』と『松花集』という「鎮西探題歌壇」を中心とする私撰集を二つ編むというのも少し変な話で、別人の方が自然であり、となると一番有力な候補は英時となりそうです。
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