投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月24日(日)13時28分20秒
それでは歌人としての足利尊氏について、国文学の研究を少しずつ紹介して行きます。
この問題の先行研究で一番重要なのは立教大学名誉教授・井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)ですね。
井上宗雄(1926-2011)
同書は978頁の大著で、その構成は次のようになっています。
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序章
第一編 鎌倉末期の歌壇
第一章 正応・永仁期の歌壇
第二章 嘉元・徳治期の歌壇
第三章 延慶・正和期の歌壇
第四章 文保~元弘期(鎌倉最末期)の歌壇
第二編 南北朝初期の歌壇
第五章 建武新政期の歌壇
第六章 暦応・康永・貞和期の歌壇
第三編 南北朝中期の歌壇
第七章 文和・延文期の歌壇
第八章 貞治・応安期の歌壇
第四編 南北朝末期の歌壇
第九章 建徳以後の南朝歌壇
第十章 永和~明徳期の歌壇
終章
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「第五章 建武新政期の歌壇」の冒頭から少し引用します。(p364以下)
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村田正志氏『南北朝論』によれば、建武新政は、元弘三年(一三三三)五月二十日鎌倉幕府滅亡を起点として、延元元年(一三三六)六月十五日光厳上皇が政務を開始し、建武の年号に復した日に終わる、という。妥当な見解である。而してこの間は、大覚寺統・二条派の復活期、持明院統・京極派の沈淪期であるという点で、前後の歌壇と明確に区別され、また歌壇的事跡もかなり豊富であるので、期間は短いが一章をたてて叙述する。
1 宮廷歌壇
五月十七日船上山で後醍醐天皇は、光厳天皇を廃し、その叙任した廷臣の官位を認めず、元弘元年八月に復し、かつ光厳天皇によって辞任せしめられた廷臣の官位を旧に復する詔を発した。歌人でいえば正三位権中納言正親町忠兼は非参議三位に、正二位為実・雅孝・隆教は従二位に、また為定は権中納言(前官より現官)に復したのであった。
五月二十三日天皇は船上山を発し、六月四日帰京、東寺に泊した。頼意の詠がある(新葉一一五四)。五日二条富小路殿に入り、東宮康仁を廃した。五月二十六日後伏見は出家し、持明院統は忽ちに逼塞したが、しかしその廷臣に対する処分は、元弘元年八月以後の叙位任官を一切認めないという事以外には為されなかったようである。
後醍醐宮廷は六月以後頻りに除目を行ない、廟堂は左大臣道平、右大臣長通(翌建武元年二月辞、経忠に代わる)、内大臣公賢(翌年九月病により辞、定房に代わる)で構成され、宣房・藤房・為定・良基・隆資・実世・光顕・清忠・忠顕等々、配地・閉門の人々が、大・中納言、参議に復せられ、足利高氏・直義兄弟も上階し、六月二十二日尊澄は座主に還任された。二条為明も帰洛したのであろうが、しかし彼は上階していない(公卿補任貞和三年の条<尻付>)。
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「建武新政は、元弘三年(一三三三)五月二十日鎌倉幕府滅亡を起点として」とありますが、細かいことを言うと、鎌倉幕府の滅亡は五月二十二日なので、二日ずれますね。
多くの登場人物には家名がなく、歴史学研究者にはなじみのない名前も多いかもしれませんが、いちいち紹介しているとキリがないので省略します。
この後、井上氏は「七月二日従二位前参議為実が六十八歳で没した」云々と二条為世の弟である二条為実について、その事蹟を紹介されます。
まあ、事蹟といっても為実は「偽書」の創作などを行ったちょっと変わった人で、面白い話ではあるものの、歴史学の観点からはそれほど重要でもないので省略します。
さて、続きです。(p366以下)
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八月五日の叙位除目で高氏は従三位となって公卿に列し、後醍醐の諱尊治の一字を与えられて尊氏と改名した。
その月十五夜、新拾遺一六四八には殿上人が探題で詠歌したという詞があって、為冬の月前霧の詠がある。この日は除目であり、恐らく九月十三夜会の誤りであろう。九月十三夜には内裏三首会が行なわれ、題は月前擣衣・月前菊花・月前待恋。作者は天皇・尊良・為定・隆朝(新拾遺五〇八・五一〇・一六五七、新葉三七五・三八五・八二五・八二六、藤葉)。探題も行なわれた(新拾遺一三二五、為世<恨恋>)。九条隆朝もまじっているが、老為世をはじめ為定ら、二条派の人々がリードしたであろう事はいうまでもない。天皇の代表作「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」はこの時のものである。得意の絶頂にありながらその調べは何か沈痛である。
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歴史学の研究者、特に「科学運動」や「民衆史研究」が大好きなインテリ左翼タイプの人たちは、たとえ大学教授クラスであっても二条派・京極派の違いなどよく分かっていない人が多いと思いますが、さすがにそこまでは説明できないので、岩佐美代子氏や小川剛生氏などの著作で勉強していただきたいと思います。
小川氏の『武士はなぜ歌を詠むか』(角川学芸出版、2008)は尊氏への言及も多く、歴史研究者には読みやすい本だと思います。
>筆綾丸さん
『南朝研究の最前線』所収の谷口雄太氏の論考「新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源家嫡流」だったのか?」には、
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義貞論は時代によって揺れはあるものの、総じて『太平記』(十四世紀後半に成立したとされる軍記物)を、どう解釈するかの問題にすぎないこと、換言すれば、義貞論は『太平記』の掌〔てのひら〕の上で遊ばされていることを指摘する。
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との一節がありますが(p130)、護良親王論もまだまだ「『太平記』の掌の上で遊ばされている」感が強いですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「太平記のレジリエンス」 2021/01/23(土) 18:52:49
小太郎さん
バイデン大統領は就任演説で、議事堂占拠事件を踏まえながら、
You know the resilience of our Constitution・・・
と言いましたが、
「殆どの研究者が『太平記』史観の影響から脱して」いない状況をみると、 the resilience of the Taiheiki と揶揄したくなりますね。
小太郎さん
バイデン大統領は就任演説で、議事堂占拠事件を踏まえながら、
You know the resilience of our Constitution・・・
と言いましたが、
「殆どの研究者が『太平記』史観の影響から脱して」いない状況をみると、 the resilience of the Taiheiki と揶揄したくなりますね。
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