学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その3)

2020-02-08 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 2月 8日(土)12時04分35秒

飯倉晴武氏の『地獄を二度見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)を確認してみましたが、「いくら否定しても玉座についていた事実は、いかんともしがたいとの思いがつのったのであろうか」(p104)という記述は、飯倉氏が後醍醐の政策の基本的性格について誤解していることを示しているように思われます。
自分は退位したことはなくて、光厳天皇が践祚した元弘元年九月以降の任官叙位は全て停廃、改元も否定ということは、別に践祚・任官叙位・改元等の外形的行為があった事実を否定している訳ではなくて、その法的な効力を否定しているだけです。
従って、光厳天皇が外形的に「玉座についていた事実」は認めても、法的には践祚は無効であり、光厳は未だに皇太子である、という思考は極めて論理的ですね。
「いくら否定しても玉座についていた事実は、いかんともしがたいとの思いがつのった」などという事態はおよそありえません。
しかし、後醍醐としては光厳を皇太子のまま存続させるという意図は全くなく、皇太子を廃した後、自分の希望する皇太子(恒良親王)を新たに立てることに決めていた訳で、後は皇太子を廃する手順について政治的配慮を加えるかどうかだけが問題ですね。
そして、おそらく敦明親王(小一条院)の先例を勘案して、太上天皇の尊号を贈って光厳の面子を立ててやった、ということだと思います。
飯倉氏は小一条院の先例に言及されていませんが、深津睦夫氏の『光厳天皇』(ミネルヴァ書房、2014)には、

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元弘元年九月以前、光厳院(当時は量仁親王)は後醍醐天皇の皇太子であった。したがって、すべてを元弘元年九月以前に戻すというのであれば、光厳院はまぎれもなく皇太子である。しかし、もちろんそれは後醍醐天皇の本意ではない。そこで、体よく光厳院を皇太子の地位から下ろすために「太上天皇」の尊号を贈ったのである。これには、小一条院という先例があった。小一条院は、三条天皇の第一皇子で、後一条天皇の皇太子であったが、藤原道長が娘の彰子所生の敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子に立てようと様々に圧迫を加えたために、皇太子を辞したという人物である。皇太子を辞した後、小一条院の院号を送られ、太上天皇に准えられた。これが、皇太子を退かせ、その代わりに太上天皇の尊号を贈る先例であった。
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とあります。(p94)
そして、この小一条院の先例は、当時の貴族社会の人であれば誰でも思いつくことであって、この点も別に後醍醐が「ハタと気が」ついたような話ではないでしょうね。

敦明親王(小一条院、994-1051)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B

ま、それはともかく、三浦論文の続きです。(p522以下)

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 以上の、光厳院への「太上天皇」尊号授与、そして皇女懽子の入宮、これらはすべて珣子の立后と関連しているのではないだろうか。この問題を考える上で参考となりそうなのが遊義門院姈子の事例である。後深草の皇女であった姈子は、弘安八年(一二八五)八月、後宇多朝において后位についているが、これは立后の原則が全くあてはまらない異例のものであった。このような立后が行われた理由について、伴瀬明美氏は「持明院統に対する配慮(ないし懐柔策)」と解している。また三好千春氏は、皇位の継承と関連して、「天皇「家」のうち、天皇位は大覚寺統、后位は持明院統で折半する構図がここで現出している。本来は一対で王権を構成するはずの地位を、「二つの天皇家」が分割・保持することで、本命である皇位継承の攻防戦にとりあえずの折合いをつけた結果の姈子立后だったのではないだろうか」と論じられている。以上の指摘を踏まえると、今回の珣子内親王の立后も、父後宇多法皇のやり方に倣った後醍醐天皇の配慮(懐柔策)と考えられないだろうか。その背景には、先に触れられていた皇太子の問題があったと考えられる。『続史愚抄』を見ると、

  十六日乙巳、節会、自今日被行五壇法於宮中、立坊無為御祈云、中壇阿闍梨天台座主務品尊澄法親王、

とあり、珣子立后の約一ヵ月後、正月十六日より五壇法が宮中で催されているが、その目的は「立坊」が無事に行われることであった。そしてその一週間後、正月二十三日、恒良親王を皇太子に立てている。この恒良親王は、後醍醐天皇の寵愛していた阿野廉子の所生であった。この皇位継承を定めるにあたり、持明院統側への配慮(懐柔策)を行なったのではないだろうか。つまり光厳への「太上天皇」尊号の授与、懽子内親王の入宮、そして珣子内親王の立后、これらは一連のものであり、すべて持明院統側への懐柔策であったと考えられないだろうか。とくに珣子の立冊には、先に指摘されていたような天皇位と后位の折半、王権の分割・保持という意図が含まれていたと思われる。もし後醍醐と珣子内親王との間に皇子が誕生すれば、いつか持明院統側にも皇位の継承に関与する機会が巡ってくる可能性も生じることになる。よく知られているように、建武政権内には、護良親王の存在など皇位をめぐり不安定な要素を抱え込んでいたが、少しでも安定した形で自らの皇位継承を進めていくために、まず持明院統側の不満を減らすことを考えたのではなかろうか。
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三浦氏が参照されているのは伴瀬明美氏の「中世前期─天皇家の光と陰」(服藤早苗他著『歴史のなかの皇女たち』、小学館、2002)と三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)という論文ですが、私はこの二つの論文を以前検討したことがあります。
三浦氏は「珣子の立冊には、先に指摘されていたような天皇位と后位の折半、王権の分割・保持という意図が含まれていたと思われる」と書かれているので、三好千春氏の論文を高く評価されていることが伺われますが、私は三好論文にはかなり問題があると思っています。
その点、次の投稿で検討します。
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