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「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)

2021-01-25 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月25日(月)11時26分54秒

『中世歌壇史の研究 南北朝期』の続きです。(p367)

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 あけて元弘四年正月二十三日恒良親王を東宮とし、道平が傅となった。これを、先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置に比較すると、甚だ釈然としないものを感ずる。それはとにかくとして、二十八日三席御会が行なわれた。敦有卿記<御遊部類記所引>に

  元弘四年正月廿八日禁裏御遊始<天下一統ノ後初度>有之、以仁壽伝西面<議定所>為其所、先被講詩歌之後、有御遊、奉行範國

とある。詩歌会の詳細は不明である。翌二十九日建武と改元した。
 三月二十一日北条氏の降将阿曽霜台時治・大仏陸奥介高直・長崎四郎左衛門尉高貞らを阿弥陀峯で誅した由が梅松論・蓮華寺過去帳にみえる。後者によると佐介(佐助)一族も何人か殺されている。蓮華寺過去帳には殺された四人の詠歌がみえている。
 因みに太平記巻十一に佐介左京亮貞俊(歌人、既述)も次いで捕えられて殺され、その辞世の歌を聖が故郷の妻にもたらし、妻の嘆きの歌などみえているが、西源院本その他「宣俊」としている本が多く、貞俊は誤りらしい。
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「これを、先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置に比較すると、甚だ釈然としないものを感ずる」という井上氏の発想はちょっと面白いですね。
元弘元年(1331)八月二十四日、後醍醐が三種の神器を持って密かに京都を脱出し南都に向かいますが、翌九月に関東から安達高景・二階堂道蘊が来て東宮践祚を奏上します。
これを受けて九月二十日、三種の神器のないまま光厳天皇践祚、ついで十一月八日、康仁親王立太子となります。
大覚寺統は亀山・後宇多・後二条と続いて、後宇多は後二条の子の邦良親王を花園天皇の皇太子としたかったのですが、諸事情から後醍醐が、あくまで中継ぎとして皇太子となります。
康仁親王は邦良親王の子であって、本来はこちらが大覚寺統の本流、後醍醐は傍流ですね。
康仁が光厳天皇の皇太子となったのは、もちろん鎌倉幕府の意向であり、持明院統の主体的決定ではありません。

木寺宮康仁親王(1220-55)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%AF%BA%E5%AE%AE%E5%BA%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

また、建武三年(1336)八月十五日、尊氏の奏上で光明天皇践祚、ついで十一月十四日、阿野廉子所生の後醍醐皇子・成良親王の立太子となりますが、もちろんこれも尊氏の意向ですね。
僅か十一歳の成良が、このとき既に征夷大将軍の経歴を有していたこと、そしてその任官の時期について従来の通説、即ち建武二年八月一日説に問題があることは既に述べました。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
帰京後の成良親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9263c48e615c99949952173370ff559
同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32d6571d5c77d753fb36d0dbff8c15a9

ま、康仁・成良の事例はいずれも武家の意向による決定であり、「公平な措置」かどうかはともかく、恒良親王の立太子とは事情が異なりますね。
さて、改元後の建武元年(1334)三月二十一日に「北条氏の降将阿曽霜台時治・大仏陸奥介高直・長崎四郎左衛門尉高貞らを阿弥陀峯で誅した由が梅松論・蓮華寺過去帳にみえる」とありますが、『太平記』ではこれを前年の七月九日の出来事としています。
西源院本では第十一巻第十一節「金剛山の寄手ども誅せらるる事」に次のように記されています。(兵藤校注『太平記(二)』、p203以下)

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 同じき七月九日、阿曾弾正少弼、大仏右馬助、江馬遠江守、佐介安芸守、并びに長崎四郎左衛門、かれら十五人、阿弥陀峯にて誅せらる。この君、重祚〔ちょうそ〕の後〔のち〕、諸事の政〔まつりごと〕未だ行はれざる先に、刑罰を専らにせられん事は仁政にあらずとて、ひそかにこれを切りしかば、首を渡さるるまでの事にも及ばず、便宜〔びんぎ〕の寺々に送られて、かの後世菩提〔ごせぼだい〕をぞ弔はれける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4dbdce2e2857d750af5d75bfdecb668c

『太平記』の時間の流れは例によって極めていい加減ですが、全体的に殺伐とした出来事を元弘三年(1333)に移動させて、建武新政はその発足当初から不安定であり、公武は最初から対立する宿命にあったのだ、という印象を与えているように感じます。
この阿弥陀峯の一件も、タイムラグは八か月程度ですが、建武の新政は僅か三年間、中先代の乱までの平穏な時期だと二年と少しですから、八か月は決して短い期間ではないですね。
また、「佐介左京亮貞俊」(西源院本では「宣俊」)のエピソードは兵藤校注の岩波文庫版で五ページ分というけっこうな分量ですが、『太平記』の「降参」という表現を検討するに際して、非常に興味深い事例でした。
もともと自らの待遇に不満を持っていた佐介宣俊は「千種頭中将殿より綸旨を申し与へて、御方に参ずべき由を仰せらければ、去んぬる五月の初めに、千剣破より降参」します。
宣俊はいったんは自由の身になったようですが、「平氏の一族皆出家して召人になりし後は」「宣俊も阿波国へ流されて」、更に「一旦命を助からんために降人に」なった「関東奉公の者ども」は「悉く誅せらるべし」という方針変更があって、結局、宣俊も処刑されてしまいます。
元弘三年四月二十七日の名越高家討死と五月七日の六波羅陥落の間に幕府を裏切った者の扱いは微妙で、佐介宣俊の処分に関する長大な記事は後醍醐側にとってもその処遇が難しかったであろうことを示唆しているように思われます。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13d2c7d1d9e4c7c5733b2666510a0273
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