学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「このような謙遜は、いっぱしの歌人にこそ許されるであろうから」(by 小川剛生氏)

2021-03-22 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月22日(月)11時25分58秒

「第一節 尊氏青年期の和歌的環境」は、

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鎌倉時代の足利氏
続後拾遺集に入集する
足利氏被官と和歌
得宗被官尾藤資広の百首
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という小見出しに従って論じられて行きますが、最初の「鎌倉時代の足利氏」はごく一般的な解説ですね。
最後の三行には、

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 尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した原因につき、梅松論は「抑モ将軍関東誅伐ノ事、累代御心底ニ挿マルヽ上」と述べ、北条氏打倒が歴代の宿望であったためとする。そうであっても、若き尊氏はひたすら北条氏に恭順の意を示し、隠忍自重の日々を送ったのである。
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とあります。(p81)
ついで「続後拾遺集に入集する」に入ります。(p82)

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 その頃の尊氏は既に勅撰歌人であった。嘉暦元年(一三二六)六月九日に成立した続後拾遺集に既に一首採られている。
    (題しらず)         源高氏
  かきすつる藻屑なりともこの度はかへらでとまれ和歌の浦波  (続後拾遺集・雑中・一〇八四)
 続後拾遺集は後醍醐天皇の命を受け、藤原為家の曾孫、二条為藤が撰集の業に当り、その夭折後は養子為定が業を継いだ十六番目の勅撰集である。この一首、大意は「和歌の浦では製塩のために海藻を掻いて捨てるという、その掻いて捨てるではないが、私が書き捨てたはかないこの詠草、今回は帰って来ないで、和歌の浦ならぬ京都の歌壇にとどまって欲しい」となる。「和歌の浦」は歌壇を、「藻屑」はその縁で作品の暗喩である。
 つまり尊氏はこれ以前にも撰者のもとに詠草を送ったことがあったが、空しく戻ってきてしまったと解される。それは六年前の元応元年(一三一九)に成立した続千載集の時であろう。その撰者は為藤の父為世であった。前記の通り尊氏は既に五位の官人であったが、さすがに若過ぎるということになったのであろう。当時の鎌倉の上級武家が、勅撰歌人になることにいかに熱意を傾けたかがよく分る。
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「それは六年前の元応元年(一三一九)に成立した続千載集」とありますが、嘉暦元年(1326)の六年前は元応二年(1320)で、ここは小川氏の単純な勘違いですね。
清水克行氏はこの小川氏の記述を見て、

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 こうした不安定な立場にあったときの尊氏の心の慰めになっていたもののひとつが、和歌の世界であった。尊氏のつくった和歌は、嘉暦元年(一三二六)六月に成立した勅撰和歌集(『続後拾遺集』)に採られており、すでに二十二歳のときに彼は勅撰歌人になっていたことが知られる。しかも、元応元年(一三一九)の『続千載集』のときにも、彼はわずか十六歳で作品を撰者に送っていたらしい。残念ながら、そのときは入選にはいたらなかったが、鎌倉幕府の最末期には尊氏は和歌の世界では、それなりの知名度を得るほどの人物になっていたようだ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f46cb25a9ded0de5ed0cd6a7f854c40

と書かれたのだろうと思います。
なお、私は角川叢書版(2008)の『武士はなぜ歌を詠むのか』を見ているのですが、あるいは角川選書版(2016)では修正されているのかもしれません。
ま、それはともかく、続きです。

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 鎌倉時代最末期、元弘元年(一三三一)に成立した臨永集という私撰集がある。規模も小さく、これといって特色のない集であるが、やはり二条為世周辺で成立したものであろう。そこに尊氏歌が三首も見える。
    述懐の心を       源高氏
  これのみや身の思ひ出となりぬらん名をかけそめし和歌の浦浪  (臨永集・雑下・七三七)
 この述懐歌、表現は取り立てて珍奇ではないが、「歌壇で少しは名前を知られるようになったことだけが、つまらぬ自分の境涯の記念となるのであろう」という。二十七歳以前の尊氏が自己を主張できるのが和歌であったことは興味深い。しかも、このような謙遜は、いっぱしの歌人にこそ許されるであろうから、尊氏の知名度は既に高かったと見てよいであろう。
 尊氏の和歌・音楽・絵画にわたった文化的素養は、鎌倉幕府に仕えていた前半生に培われたことが確認できる。
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『臨永集』が「鎮西探題歌壇」で成立した事情については、井上宗雄氏と川添昭二氏の研究に基づいて検討しました。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その8)(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dce23fb995dd1b94a833f744bba9ad78
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfe007b7d6b954ab20cfdaaad8d09115
川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fdbc57baf8aa4f6c8db931f265801da8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58396f164d9d92ae0617c9f683bfd1e8

また、「鎮西探題歌壇」には鎮西探題・赤橋英時と並んで歌壇の中心となっていたと思われる「平守時朝臣女」という女性がいて、この女性はおそらく赤橋久時の娘、守時の養女であって、尊氏の正室・赤橋登子の姉妹であろうことについては縷々検討してきました。

勅撰歌人「平守時朝臣女」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c91b274f8318bab508bec111024b3981
勅撰歌人「平守時朝臣女」について(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61c9760353c0c4f334014b78b8232f1

『臨永集』に採用された尊氏の三首についても紹介済みです。

軍書よりも 歌集に悲し 鎮西探題(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33a2844d936f72223e9031a8676265e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c67ad23eea2cf42520501814bbcd4bc3
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「かれの生涯は悪のパワーがいかにも不足している」(by 小川剛生氏)

2021-03-22 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月22日(月)10時07分31秒

それでは歌人としての尊氏について、少しずつ検討して行きます。
このテーマを扱った論文・書籍はそれほど多くはありませんが、単著では河北騰氏の『足利尊氏 人と作品』(風間書房、2005)があります。

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足利尊氏の生涯の事蹟をたどり、とくに愛弟直義との相克、勅撰集入集歌の鑑賞、尊氏賛美の歴史物語「梅松論」の紹介など、人間味あふれる尊氏の実像に迫る好著。

https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=106

ただ、歴史学の研究水準という観点からは、河北氏の基本的認識は相当古いものであり、また、尊氏の歌風を一貫して二条派と捉えている点、国文学の研究水準に照らしても問題があります。
要するに河北氏の著書は『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)と同じく「隠居仕事」なので、現時点で参照する価値は私には感じられません。

河北騰『増鏡全注釈』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b5ad59292e56bd94e7c14970e019a06
河北騰『増鏡全注釈』(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1350fe52a58ec6396b2df16a6943698f

一般的に入手可能な文献の中で、私にとってもっとも参考になったのは石川泰水氏(故人、元群馬県立女子大学教授)の「歌人足利尊氏粗描」(『群馬県立女子大学紀要』32号、2011)という論文ですが、石川論文を検討する前に、予備的知識の確認を兼ねて小川剛生氏の見解(『武士はなぜ歌を詠むか』、角川叢書、2008)を少し見て行きたいと思います。

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刀だけでは、勝ち抜けない。和歌と権力の関係を説き、「武士像」を覆す!
戦乱の中世、武士は熱心に和歌を詠み続けた。武家政権の発祥地・関東を中心に、鎌倉将軍宗尊親王、室町将軍足利尊氏、江戸城を築いた太田道潅、今川・武田・北条の戦国大名三強を取り上げ、文学伝統の足跡をたどる。

https://www.kadokawa.co.jp/product/321601000715/

同書の「第二章 乱世の和歌と信仰―足利尊氏と南北朝動乱」は、

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第一節 尊氏青年期の和歌的環境
第二節 神仏への祈願と和歌
第三節 鎌倉将軍と京都歌壇
第四節 戦陣における和歌
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と構成されていますが、第一節の前に置かれている部分を引用します。(p80以下)

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 室町幕府初代将軍足利尊氏は南北朝動乱の主役であり後世には逆賊の首魁として筆誅を加えられたが、かれの生涯は悪のパワーがいかにも不足している。禅僧夢窓疎石は、慈悲深く、勇敢で、物惜しみをしないと尊氏の人柄を称えたが(梅松論)、これは育ちがよくて人に乗じられやすいということでもある。同母弟直義は有能怜悧であり、執事の高師直も好んで悪役を引き受けた。かれらと比較すれば、尊氏は、混乱する状況にひきずられ続けた、いささか冴えない英雄であった。
 一方で、尊氏兄弟は文化的素養に富んでいた。直義は禅に心を潜め、詩文に傾倒したが、尊氏が愛好したのは和歌であった。歌集こそ遺っていないが(等持院殿御集は他人の和歌を集めた後世の私撰集である)、二つの百首歌があり、勅撰集には八十五首も入集している。
 尊氏の生涯を和歌とのかかわりから述べようと思う。この時代、地方歌壇の活動は総じて低調で、前代あれほど栄えた鎌倉歌壇も沈滞してしまう。社会変動の激しさを物語るが、しかし尊氏の一生に見るように、詠歌の営みは途絶えず、動乱のなか武家が和歌を詠もうとする姿勢はかえって純粋苛烈でさえある。なお、元弘三年に後醍醐天皇の偏諱を貰って改名する以前の名乗りは「高氏」であるが、ここでは「尊氏」で統一する。
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「執事の高師直も好んで悪役を引き受けた」は「『太平記』史観」的な感じがしないでもありませんが、亀田俊和氏による高師直や高一族に関する書籍が出る前なので、こうした理解は一般的なものでしたね。
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