学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その2)

2021-03-30 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月30日(火)23時05分4秒

結局、『大日本史料』建武二年十月十五日条に載せられている三つの史料のうち、「三浦文書」は勅使派遣とは全く関係なく、『梅松論』は勅使派遣が御所への移徙(十月十五日)より前であることを示唆するものの具体的時期は不明、『保暦間記』は記事内容そのものが胡散臭い感じですね。
そこで、いったん『梅松論』『保暦間記』を離れて、この時期の後醍醐と尊氏の関係を示す客観的事実を探ると、尊氏が八月三〇日に従二位に叙せられたこと(『公卿補任』)に注目すべきではないかと思います。
尊氏は元弘三年(1333)八月五日に従三位に叙せられて公卿の仲間入りをした後、五ヶ月後の建武元年(1334)正月五日に正三位に昇進し、ここで更に従二位に昇進します。
中先代の乱鎮圧の知らせが京都に届いたであろう直後の時期ですから、これが鎮圧への恩賞の一形態であることは明らかですが、以後の展開を考えると、同時に後醍醐による尊氏の離反防止のための懐柔策と思われます。
そうであれば、後醍醐は従二位昇進を直ちに尊氏に伝える必要がありますが、ここで『梅松論』の「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下著し、今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三也、但軍兵の賞にをいては、京都にをいて、綸旨を以宛行へきなり、先早々に帰洛あるへしとなり」という記述を考慮すると、中院具光の派遣は九月初旬と考えるのが自然ではないかと思います。
後醍醐としては、後に現実化するように、尊氏が独自の判断で配下の武士に恩賞を与えるようなことを防止するため、早急に手を打つ必要があったはずです。
整理すると、中院具光は九月初旬、「今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三」の具体化として尊氏が八月三十日に従二位に叙せられたことを伝え、同時に恩賞を勝手に与えるな、早々に帰洛せよ、という指示も伝えたと思われますが、更に「建武二年内裏千首」の題も具光が伝えたと考えてよいと思います。
こうした行事についての連絡はそれなりの身分の者が行なうはずであり、具光自身には歌人としての格別な業績はなかったようですが、六条有房の孫ですから、尊氏と和歌をめぐる優雅な応答をする程度の教養も当然あったでしょうね。
また、「建武二年内裏千首」の時期を後ろにずらせばずらすほど、十一月に訪れる後醍醐・尊氏の破局とそれに伴う政治的・軍事的混乱に巻き込まれることになってしまうので、九月くらいが順当と思われます。
なお、『続史愚抄』も九月の記事の最後に、

-------
〇ゝゝ〇ゝゝ。蔵人左少将具光。<作中将者謬歟。>為勅使下向関東。召左兵衛督<尊氏。征東将軍。>固辞不参洛云<〇梅松論、保暦間記>
-------

としており、『梅松論』を素直に読めば、やはりどんなに遅くとも九月中の出来事と解することになると思います。
また、小松茂美『足利尊氏文書の研究Ⅰ研究篇』(旺文社、1997)には「やがて十月十五日、京都から勅使蔵人頭中将中院具光が鎌倉に下着した」(p14)とあって、十月十五日が中院具光の鎌倉到着日になってしまっていますが、これは『大日本史料』建武二年十月十五日条に独自の想像を加味したものですね。
まるで伝言ゲームを見ているような感じがして、田中義成も罪作りだな、と思います。
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『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)

2021-03-30 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月30日(火)14時02分12秒

井上宗雄氏は「十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか」(p372)とされていますが、中院具光の勅使云々は『太平記』には出てこない話です。
『梅松論』には「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣」が登場しますが、その派遣時期は不明です。
ちょっと不思議に思って『大日本史料 第六編之二』を見たら、関係記事が十月十五日にありましたが、これは相当問題がありますね。
同日の第二条の綱文は「中院具光ヲ鎌倉ニ遣リテ、足利尊氏ノ上京ヲ促ス、尊氏応ゼズ、第ヲ幕府ノ旧址ニ造リ、是日之ニ徙ル」とあって、この後に「三浦文書」『梅松論』『保暦間記』が引用されています。
まず、「三浦文書」は、

-------
 著到
   三浦和田四郎兵衛尉茂実
 一 十月八日御方違ニ、二階堂の東のらう(廊)を警固仕畢、
 一 十月十五日御所の御わたましに、南総門を警固仕畢、<〇中略、全文ハ三日ノ条ニ収ム、>
 右著到如件、
     建武二年十月廿日
             (高師泰)
           承候(花押)
-------

というもので、ここから分かることは十月十五日に御所の移徙があって、三浦茂実が南総門を警固したということだけです。
勅使派遣とは何の関係もない記事ですね。
ついで『梅松論』が引用されていますが、

-------
<〇前文八月十八日ノ条ニ収ム、> 又勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下著し、今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三也、但軍兵の賞にをいては、京都にをいて、綸旨を以宛行へきなり、先早々に帰洛あるへしとなり、勅答には、大御所<〇尊氏>急き参るへきよし御申有ける所に、下御所<〇直義>仰られけるは、御上洛然るへからす候、其故は、相摸守高時滅亡して、天下一統になる事は、併御武威によれり、しかれは、頻年京都に御座有し時、公家并義貞隠謀度々に及といへとも、御運によつて今に安全なり、たまたま大敵の中をのかれて、関東に御座可然旨を以、堅いさめ御申有けるによつて、御上洛をとゝめられて、若宮小路の代々将軍家の旧跡に、御所を造られしかは、師直<〇高>以下の諸大名、屋形軒をならへける程に、鎌倉の体を誠に目出度う覚へし、<〇下文十一月十八日ノ条ニ収ム>。
-------

ということで、中院具光の関東下着と尊氏への帰洛要請と、それに対する尊氏・直義の対応が語られ、更に御所造営の話となっています。
ただ、この記事の順番から見て中院具光の派遣が御所完成より早そうなことは分かりますが、具体的な時期は全く記されていません。
そして『保暦間記』の方でも、中院具光の派遣時期は不明です。
片仮名は読みづらいので平仮名に代えて引用すると、

-------
<〇前文八月十八日の条に収む、>然る所に、故兵部卿親王<〇護良>の御方臣下の中にや有けん、尊氏謀反の志有る由讒し申て、新田右衛門佐義貞を招て、種々の語ひをなして、左中将に申也て、<〇貞義の左中将に任ずるは、明年二月八日にあり、>上野国は尊氏分国也、義貞に申充けり、何なる明主も、讒臣の計申事は、昔も
今も叶ぬ事にて、尊氏上洛せは、道にて可打由を義貞に仰す、仍、尊氏を京都より召る、勅使蔵人中将源具光也、関東勢をは尊氏に付置、一身急馳参すへしと云々、尊氏勅定に応して上洛する所に、京都より内々此事を申ける人も有けるにや、又直義も、東国の侍も、不審に思て留めけれは、尊氏上洛せす、<〇下文十一月十九日の条に収む>
-------

ということで、『保暦間記』では後醍醐が義貞に、尊氏が上洛する途中で殺害せよ、と命じていて、中院具光は尊氏を誘い出すために鎌倉に派遣された、というストーリーになっています。
さて、この後に編者(田中義成)が次のように記します。
これも片仮名は読みづらいので平仮名に代えます。

-------
〇是より先き、尊氏鎌倉に入りて、二階堂別当坊に居りしが、<八月十八ニ日の条、>是に至りて、新第成るを以て之に徙りしなり、勅使発遣の月日詳かならざるを以て、姑く梅松論に拠りて、此に合叙す、尊氏鎌倉に入りてより、或は神社仏寺に領地を寄せ、<八月二十七日、九月二十日、二十四日、二十八日、>或は八幡宮の座不冷行法を興し、<八月二十七日の条、>又部下の賞を行ひ<八月々末、九月二十七日の条、>奥州管領を補し、<八月々末の条、>自ら征夷将軍と称し、<八月十八日の条、>幕府の旧址に徙り、遂に奏状を上りて、新田義貞を伐たんことを請ふに至る、<十一月十八日の条、>各、本条あり、参看すべし、
-------

うーむ。
「勅使発遣の月日詳かならざるを以て、姑く梅松論に拠りて、此に合叙す」とありますが、『梅松論』を見ても、別に「勅使発遣の月日」を詳らかにするための根拠はないのですから、「梅松論に拠りて」はおかしいですね。
結局、田中義成は「勅使発遣の月日詳かならざる」ことを知悉しつつ、「三浦文書」に十月十五日の御所移徙があり、『梅松論』に勅使発遣と御所造営の記事があることから、この二つを「合叙」してしまった訳で、何とも雑な作業です。
何じゃこれ、以外の感想が浮かんできません。
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