投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月20日(土)18時24分52秒
登子の周辺ではもう一人、興味深い女性がいます。
それは元徳三年(元弘元、1331)に鎮西探題歌壇で成立したと思われる私歌集『臨永集』と、貞治三年(1364)成立の勅撰集『新拾遺和歌集』に登場する歌人「平守時朝臣女」です。
鎌倉幕府最後の執権・赤橋守時は登子の兄ですから、素直に考えれば「平守時朝臣女」は登子の姪となりますが、守時は永仁三年(1295)の生まれなので、その娘が元徳三年(1331)に歌人として登場するのは全く無理という訳ではないものの、些か若すぎる感が否めません。
そして、『臨永集』で「平守時朝臣女」の歌を見ると、赤橋英時と並ぶ相当の力量の歌人であって、その歌も若々しい雰囲気のものではありません。
私としては、「平守時朝臣女」は赤橋久時の娘、即ち執権・守時、鎮西探題・英時、そして登子の姉妹であって、久時が徳治二年(1307)に死去した後、兄・守時の養女となったのではないかと考えています。
他方、種子の夫である正親町公蔭(忠兼)は著名な京極派歌人なので、種子と「平守時朝臣女」には和歌という接点があり、もしかしたら種子=「平守時朝臣女」なのではなかろうか、という問題も生じます。
この点、いろいろ考えてみたのですが、Aという父、Bという夫、Cという息子を持った女性が勅撰集ないしそれに准じる歌集に登場する場合、その名前が「A女」となるルールがあるのであれば、種子=「平守時朝臣女」の可能性もあるのかな、と思います。
なお、『臨永集』は二条派の歌集なので「平守時朝臣女」の歌も二条派風ですが、別に夫婦が歌風まで一緒でなければならない訳でもないですから、歌風それ自体は種子=「平守時朝臣女」説の妨げにはならないと思います。
ま、いずれにせよ、鎌倉から鎮西探題にまで下って歌壇の中心となる訳ですから、「平守時朝臣女」は非常に知的で、芸術的センスが高く、しかも行動的な女性であると言えます。
勅撰歌人「平守時朝臣女」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c91b274f8318bab508bec111024b3981
勅撰歌人「平守時朝臣女」について(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61c9760353c0c4f334014b78b8232f1
軍書よりも 歌集に悲し 鎮西探題(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33a2844d936f72223e9031a8676265e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c67ad23eea2cf42520501814bbcd4bc3
『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/744791400c717309a7ad7812b9744b66
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72be48ea101ce58dfed89bf4991db12e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0070c27456467a947a42b9914df9c636
このように、尊氏の周辺には異母兄・高義の祖母に安達泰盛の娘で無学祖元の弟子でもある無着という極めて知的で行動力に溢れた女性がいます。
尊氏の母・上杉清子が極めて知的な女性であり、勅撰歌人でもあることは従来から言われている通りです。
そして、尊氏の正妻・登子を含む赤橋三姉妹(または二姉妹)は、全員極めて知的で決断力・行動力に富む女性たちと思われます。
このような「新しい女」たちが尊氏の周辺に集中しているように見えるのは果たして偶然なのか。
私はそれは決して偶然ではなく、尊氏そして直義は単なる血統エリートではなく、安達・金沢・赤橋・上杉という特権的支配層の中でも最も知的なグループが集中した地点に生まれた知的エリートであって、恵まれた教育環境の中で新しい時代を切り拓く準備を十分に重ねた上で歴史の表舞台に登場した存在だと考えます。
登子の周辺ではもう一人、興味深い女性がいます。
それは元徳三年(元弘元、1331)に鎮西探題歌壇で成立したと思われる私歌集『臨永集』と、貞治三年(1364)成立の勅撰集『新拾遺和歌集』に登場する歌人「平守時朝臣女」です。
鎌倉幕府最後の執権・赤橋守時は登子の兄ですから、素直に考えれば「平守時朝臣女」は登子の姪となりますが、守時は永仁三年(1295)の生まれなので、その娘が元徳三年(1331)に歌人として登場するのは全く無理という訳ではないものの、些か若すぎる感が否めません。
そして、『臨永集』で「平守時朝臣女」の歌を見ると、赤橋英時と並ぶ相当の力量の歌人であって、その歌も若々しい雰囲気のものではありません。
私としては、「平守時朝臣女」は赤橋久時の娘、即ち執権・守時、鎮西探題・英時、そして登子の姉妹であって、久時が徳治二年(1307)に死去した後、兄・守時の養女となったのではないかと考えています。
他方、種子の夫である正親町公蔭(忠兼)は著名な京極派歌人なので、種子と「平守時朝臣女」には和歌という接点があり、もしかしたら種子=「平守時朝臣女」なのではなかろうか、という問題も生じます。
この点、いろいろ考えてみたのですが、Aという父、Bという夫、Cという息子を持った女性が勅撰集ないしそれに准じる歌集に登場する場合、その名前が「A女」となるルールがあるのであれば、種子=「平守時朝臣女」の可能性もあるのかな、と思います。
なお、『臨永集』は二条派の歌集なので「平守時朝臣女」の歌も二条派風ですが、別に夫婦が歌風まで一緒でなければならない訳でもないですから、歌風それ自体は種子=「平守時朝臣女」説の妨げにはならないと思います。
ま、いずれにせよ、鎌倉から鎮西探題にまで下って歌壇の中心となる訳ですから、「平守時朝臣女」は非常に知的で、芸術的センスが高く、しかも行動的な女性であると言えます。
勅撰歌人「平守時朝臣女」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c91b274f8318bab508bec111024b3981
勅撰歌人「平守時朝臣女」について(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61c9760353c0c4f334014b78b8232f1
軍書よりも 歌集に悲し 鎮西探題(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33a2844d936f72223e9031a8676265e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c67ad23eea2cf42520501814bbcd4bc3
『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/744791400c717309a7ad7812b9744b66
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72be48ea101ce58dfed89bf4991db12e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0070c27456467a947a42b9914df9c636
このように、尊氏の周辺には異母兄・高義の祖母に安達泰盛の娘で無学祖元の弟子でもある無着という極めて知的で行動力に溢れた女性がいます。
尊氏の母・上杉清子が極めて知的な女性であり、勅撰歌人でもあることは従来から言われている通りです。
そして、尊氏の正妻・登子を含む赤橋三姉妹(または二姉妹)は、全員極めて知的で決断力・行動力に富む女性たちと思われます。
このような「新しい女」たちが尊氏の周辺に集中しているように見えるのは果たして偶然なのか。
私はそれは決して偶然ではなく、尊氏そして直義は単なる血統エリートではなく、安達・金沢・赤橋・上杉という特権的支配層の中でも最も知的なグループが集中した地点に生まれた知的エリートであって、恵まれた教育環境の中で新しい時代を切り拓く準備を十分に重ねた上で歴史の表舞台に登場した存在だと考えます。