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「支離滅裂である」(by 細川重男氏)

2021-01-21 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月21日(木)20時36分39秒

歌人としての尊氏を紹介する前に、後醍醐と尊氏の関係について、現在の学説の状況を確認しておきます。
呉座勇一氏編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)は、そのタイトル通り近時の学説の動向を概観するのに便利なので、同書から細川重男氏の論考「足利尊氏は建武政権に不満だったのか?」を少し引用します。

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『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』

近年、急速に進展した研究から、〈建武政権・南朝は武士を優遇していた〉、〈室町幕府は「南朝の合体」以後も"南朝の影"に怯え続けた〉など様々なことがわかってきた。一次史料を駆使し、南朝=特異で非現実的な政権という定説を覆す。

細川氏の論考は、

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尊氏離反の過程
反逆の動機
鎌倉幕府・鎌倉時代の武家社会での位置づけ
足利氏は、なぜ家格が高いか?
足利家における尊氏の立場
「足利氏源氏嫡流説」と「"源氏将軍観"高揚説」
鎌倉幕府滅亡時の尊氏の動向とその背景
建武政権で尊氏は、冷遇されたのか?
尊氏は、なぜ征夷大将軍を望んだのか?
武士たちが尊氏を「頼朝の再来」にした
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と構成されていますが、「反逆の動機」の冒頭部分を引用します。(p86以下)

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反逆の動機

 では、足利尊氏はなぜ反旗を翻したのか。一般的には、尊氏に天下取りの野望があったからと言われている。
 尊氏の祖父である家時(一二六〇~八四)は、「七代後の子孫に生まれ変わって天下を取る」という祖先源義家(一〇三九~一一〇六)の置文が足利氏に伝えられ、自身がその七代目に当たりながら天下を取れないことを嘆き、「わが命を縮め、三代の中に天下を取らせたまえ」と八幡神に祈願して自刃し、尊氏・直義兄弟は、家時の願文(神仏への祈願状)を目にしたという(『難太平記』)。
 この逸話が正しければ、尊氏は源氏嫡流(嫡流とは本家のこと)の誇りを持っており、天下を取るために後醍醐に反逆したということになろう。
 だが、南北朝時代の軍記物『梅松論』を読むかぎり、離反にいたる尊氏の行動はとても計画的なものとは思えない。まず中先代の乱の勃発を知った尊氏は、「直義が無勢で時行軍を防ぐ知略もなく東海道を引き退いた」と聞いて、東下を何度も後醍醐に願ったが許されず、しかたなく勅許の無いまま出陣したという。
 尊氏は「私にあらず、天下の御為」と言っているが、この様子からすると尊氏出陣の第一の理由は、直義救援であったようである。
 次に、後醍醐の帰京命令に従わなかったことについては、勅使(天皇の使者)の中院具光に対し尊氏は「すぐ京都に参上します」と答えている。ところが、直義に「運良く大敵の中から逃れてきたのだから、関東にいるべきです」、つまり「京都に帰ったら殺されますよ」と諫められると、あっさり帰洛をやめている。
 そして、後醍醐の命を受けた新田義貞が鎌倉に迫ると、尊氏は「もうナニもかもイヤだ!」とばかりに、浄光明寺に籠ってしまった。だが、兄に代わって出陣した直義の苦戦を知らされると、「直義が死んだら、自分が生きている意味は無い!」と叫んで出陣し、義貞を撃破したのである。
 支離滅裂である。弟思いは美徳であろうが、どのような結果をもたらすかを深く考えずに行動し、これまた深く考えずに周囲の意見に流されている。清水克行氏は尊氏を「八方美人で投げ出し屋」と評している(清水:二〇一三)が、まったくそのとおりである。こうなると、尊氏の離反は、尊氏自身の決断なのか、はなはだ疑わしい。
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細川氏の見解は、「南北朝時代の軍記物『梅松論』を読むかぎり」とあるように、ほぼ全面的に『梅松論』に依拠していますが、たしかに『梅松論』を素直に読むと、尊氏の行動が「支離滅裂」のようにも見えます。


ただ、細川氏を含め、歴史学の研究者が殆ど言及しない歌壇の状況を見ると、ちょうど中先代の乱の直後、まだまだ軍事面で極めて慌ただしい時期に、後醍醐と尊氏は「建武二年内裏千首」をめぐって、何だか随分のんびりとしたやりとりをしています。
そこから伺われる尊氏の精神状態はおよそ「支離滅裂」とは言い難く、極めて平静なように思われます。
このギャップをどう考えたらよいのか。
仮に歌壇から伺われる尊氏こそが実態に近いと考えると、『梅松論』のプロパガンダとしての性格を疑う必要性がありそうです。
従来から『梅松論』は足利家寄りの歴史書と言われてきましたが、私は、より正確には『梅松論』は「足利直義史観」に基づく歴史書ではないかと考えていて、そこに描かれた尊氏は、あくまでも直義派から見た尊氏像ではないかと思っています。
この点は、また後で検討します。
なお、細川氏は清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)に描かれた尊氏像を「まったくそのとおりである」と高く評価されていますが、私は清水氏の見解には全然賛成できません。
私はもともと『足利尊氏と関東』に極めて懐疑的だったのですが、「新年のご挨拶(その1) 」に書いたように、佐藤進一氏によって矮小化された尊氏像が網野善彦氏と吉原弘道氏によって是正される可能性が生まれたにもかかわらず、一見すると吉原氏の尊氏像を受け継ぐような姿勢を示しながら、実際には佐藤氏によって矮小化された尊氏像を維持・再生産することに貢献したのが清水克行氏ではないか、と考えています。
この点も、清水著に即して、後で検討します。

新年のご挨拶(その1)
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