学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その12)

2021-03-29 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月29日(月)11時58分25秒

続きです。(p372以下)

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建武二年内裏千首  風雅(六六二のみ。以下の集に多くみえる)・新千載・新拾遺・新葉・藤葉の各撰集、光吉・草庵・兼好の各家集にこの詞書を持った歌がみえる。作者は天皇・覚助・尊道<慈道か>・尊良・恒守・尊円・慈道・邦省・道煕・雲禅・覚円・雲雅・良聖・後醍醐天皇典侍・公秀・為世・為親・為定・為明・実教・公脩・尊氏・光之・光吉・雅朝・隆淵・頓阿・兼好・浄弁・国夏・盛徳らである。
 ところで、新千載六二六・一七八三によると「建武二年内裏の千首の歌の折しも東に侍りけるに題を給はりて詠みて奉ける歌に、氷 等持院贈左大臣〔尊氏〕」とあり、この千首歌の折に尊氏は関東にいたのである。建武二年前半の尊氏の動向ははっきりわからないが、仮にこの東下を八月二日以降のものとしたら、この千首もそれ以後に行われた事になる。十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか。
 多くの詞書には「建武二年内裏にて人々題をさぐりて千首つかうまつりける時」とあり、千首歌を探題によって詠じたものである。ところが、上掲の人数の内、頓阿以下は「題を賜はりてよみて奉りける」と詞書に記されている。即ち殿上人以上は内裏において探題で、地下は題を下賜されて詠進したのである。そして殿上人は、花とか橘とかいうような一般の題と、春天象の如き題と両方あったが、地下の場合はすべて「春天象」……「恋雑物」の如き題のみであった。なお藤葉集は詞書の書き方が不完全で、巻三の隆淵の歌に「建武二年内裏にて講ぜられける千首歌に秋植物」とあるが、これも題を下賜された方(地下)ではなかったかと思われる。兼好は家集によると七首を進めているが、地下は各々その程度の歌数を詠じたのであろう。なお増補和歌明題部類には、
  千首<建武頃内第二度 出題御子左中納言(為定)> 春<二百首> 夏<百首> 秋<二百首> 冬<百首> 恋<二百首> 雑<二百首>
  天象 地儀 植物 動物 雑物<各有之>
とある。「第二度」とあり、二度行われたのであろうか。
 この千首歌が二条家の人々のリードで行われた事は明らかであるが、特に地下法体歌人まで加えられている事は注意される。為世や為定の推挙によるのであろうが、地下の法体歌人や国夏のような祠官を公宴に参加せしめるという事は、持明院統や京極派のそれにはみる事が出来ないのである。
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「建武二年内裏千首」の尊氏の詠歌は既に紹介済みですが、参照の便宜のために再掲すると、

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     建武二年内裏千首の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、氷
                    等持院贈左大臣
  流れ行く落葉ながらや氷るらむ風より後の冬のやま河
                   (新千載六二六)
     建武二年内裏千首歌の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、月を
                    等持院贈左大臣
  今ははや心にかかる雲もなし月を都の空と思へば
                    (同一七八三)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7af777a4ef4af1a8f901a142d74daca6

というものです。
さて、井上氏は「建武二年前半の尊氏の動向ははっきりわからないが」とされていますが、これはその通りで、尊氏が継続して京都にいたことを史料的に裏付けることは困難だと思います。
ただ、『中世歌壇史の研究 南北朝期』の初版(1965)、改訂新版(1987)が出された頃と比べると、建武政権下の尊氏の位置付けについては歴史学の方でかなりの進展があります。
即ち、通説であった佐藤進一説の枠組みは相当に揺らいでおり、吉原弘道氏が「建武政権における足利尊氏の立場─元弘の乱での動向と戦後処理を中心として」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)で示した認識が比較的多くの研究者に支持されているように思われます。
吉原氏の結論は、

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 建武政権下で後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた。とはいっても、最終的な軍事指揮権と任免権は後醍醐が握っており、一定の軍事的権限が付与されていた奥州府・鎌倉府の所轄地域に尊氏が公的に関与する必要もなかった(勿論、弟足利直義が中核となって運営されていた鎌倉府に対して尊氏が個人的に影響力を及ぼしたことは否定しない)。尊氏の権限行使は、実際には奥州府・鎌倉府が所轄していない地域(例えば鎮西)が対象になったと考えられる。しかし、奥州府・鎌倉府の権限は、広域行政府とはいえ特定の地域に限定されるものである。全国規模で権限を行使できるのは、後醍醐本人と尊氏の二人だけだった。このため尊氏が離反すると後醍醐は、各国の国人層に対して直接軍勢催促しなければならなくなっている。このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公式に付与された権限に由来していたのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b332242463f314bc38b81ff3df51460

というもので、私自身は必ずしも全て吉原氏に賛同している訳ではありませんが、尊氏の建武政権下での位置づけは従来考えられていたよりも相当高く、「全国規模で権限を行使できる」治安維持の責任者と言ってよいと思います。
その尊氏が京都を離れるというのは大変な事態ですから、仮に尊氏が建武二年の前半にも東下していたならばそれなりの記録が残っていたはずであり、やはり尊氏の東下は中先代の乱に対応しての一回だけと考えるのが自然です。
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