第143回配信です。
一、前回配信の補足
佐藤進一は所領安堵を、鎌倉時代では「主従制的支配権」、南北朝初期では「統治権的支配権」に分類。
1981年、二十六歳の近藤成一青年が、分別が間違っているのでは、と疑問を呈す。
近藤成一「文書様式にみる鎌倉幕府権力の転回―下文の変質―」(『古文書研究』17・18合併号、1981)
佐藤は、1983年の『日本の中世国家』(岩波書店)において、所領安堵の管轄は、
将軍の専権事項
→(弘安年間)庶子に対する所領安堵のみ執権の管轄
→(嘉元年間)すべて執権の管轄
→(南北朝初期)(執権の後継者である)足利直義の管轄
と変遷したと説明。
しかし、「主従制的支配権」から「統治権的支配権」に移行した理由は示さず。
ガーシーの表現を借りれば、佐藤は「主従制的支配権」と「統治権的支配権」を、理念型(分析のための道具)ではなく、分別用の「ゴミ袋」として使用しているのではないか。
【設問】東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んで、その内容を五字で要約せよ。〔2019-07-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55ba16ae9afea6e4e705e5b08a304837
佐藤進一は所領安堵を、鎌倉時代では「主従制的支配権」、南北朝初期では「統治権的支配権」に分類。
1981年、二十六歳の近藤成一青年が、分別が間違っているのでは、と疑問を呈す。
近藤成一「文書様式にみる鎌倉幕府権力の転回―下文の変質―」(『古文書研究』17・18合併号、1981)
佐藤は、1983年の『日本の中世国家』(岩波書店)において、所領安堵の管轄は、
将軍の専権事項
→(弘安年間)庶子に対する所領安堵のみ執権の管轄
→(嘉元年間)すべて執権の管轄
→(南北朝初期)(執権の後継者である)足利直義の管轄
と変遷したと説明。
しかし、「主従制的支配権」から「統治権的支配権」に移行した理由は示さず。
ガーシーの表現を借りれば、佐藤は「主従制的支配権」と「統治権的支配権」を、理念型(分析のための道具)ではなく、分別用の「ゴミ袋」として使用しているのではないか。
【設問】東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んで、その内容を五字で要約せよ。〔2019-07-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55ba16ae9afea6e4e705e5b08a304837
二、「恩賞充行が内包する統治権的要素」
p52以下
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所領安堵から主従制的支配の要素を完全に排除することが不可能であるとすれば、逆に恩賞充行に統治権的支配の要素が含まれることを、完全に否定することも無理なのではないか。
平時の室町幕府においては、まず武士が恩賞方に軍忠状や感状を提出し、合戦で挙げた勲功(軍忠)が審査される。軍忠が認定されると、案件は所付方という部局へ移され、武士の希望あるいは諸国の守護が作成した闕所地注進によって恩賞地が決定された。将軍の下文が発給された後には、執事が施行状を発給して守護に下文の執行を命じることも多かった。現実には充行のミスが多かったことを差し引いても、十分に公的・領域的な支配ではないだろうか。
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還補〔げんぷ〕の問題
還補とは何らかの理由で所領を失った武士に対して、その所領を返還すること。
還補は充行か、それとも安堵か。
三、「軍事指揮権を完全に掌握していた直義」
p55
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さらに重要なのは、同じ羽下が一九七三年に発表した論文である。これによって、建武三年(一三三六)後半以降、感状と軍勢催促状が、すべて直義によって発給されたことが解明された。(羽下:一九七三)。すなわち、直義は「主従制的支配権」の根幹を占める軍事指揮権を完全に掌握していたのである。
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羽下徳彦(1934生、東北大学名誉教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E4%B8%8B%E5%BE%B3%E5%BD%A6
四、「「将軍権力の二元性」論に対する理論的検討」
p55以下
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以上論じてきたのは、主に実証面からの「二頭政治論」に対する批判である。しかし、一方で理論的側面からも、この学説に対する批判が時折出現した。
こうした批判は、古くは永原慶二によってなされた(永原:一九七二)。永原は、主従制的支配と統治権的支配を並列的な次元でとらえることを批判し、「前者(筆者注:主従制的支配)は後者(同注:統治権的支配)のための権力構成原理の問題に他ならな」いと論じた。永原は、佐藤の言う統治権的支配に相当するものとして、「先行国家の枠組」を想定しているようである。
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永原「本来、主従制は領主階級内部における階級結集の問題であり、統治権的支配こそ農民支配の問題であるから、前者は後者のための権力構成原理の問題に他ならず、両者を「支配」の二要素として同一にとらえるべきではない」
還補は充行か、それとも安堵か。
三、「軍事指揮権を完全に掌握していた直義」
p55
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さらに重要なのは、同じ羽下が一九七三年に発表した論文である。これによって、建武三年(一三三六)後半以降、感状と軍勢催促状が、すべて直義によって発給されたことが解明された。(羽下:一九七三)。すなわち、直義は「主従制的支配権」の根幹を占める軍事指揮権を完全に掌握していたのである。
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羽下徳彦(1934生、東北大学名誉教授)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E4%B8%8B%E5%BE%B3%E5%BD%A6
四、「「将軍権力の二元性」論に対する理論的検討」
p55以下
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以上論じてきたのは、主に実証面からの「二頭政治論」に対する批判である。しかし、一方で理論的側面からも、この学説に対する批判が時折出現した。
こうした批判は、古くは永原慶二によってなされた(永原:一九七二)。永原は、主従制的支配と統治権的支配を並列的な次元でとらえることを批判し、「前者(筆者注:主従制的支配)は後者(同注:統治権的支配)のための権力構成原理の問題に他ならな」いと論じた。永原は、佐藤の言う統治権的支配に相当するものとして、「先行国家の枠組」を想定しているようである。
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永原「本来、主従制は領主階級内部における階級結集の問題であり、統治権的支配こそ農民支配の問題であるから、前者は後者のための権力構成原理の問題に他ならず、両者を「支配」の二要素として同一にとらえるべきではない」
永原慶二(1922‐2004)
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