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三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その2)

2020-02-07 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 2月 7日(金)10時59分24秒

西園寺実兼と亀山院はともに建長元年(1249)の生まれですが、嘉元元年(1303)、二人が五十五歳の時に生まれた西園寺禧子と亀山皇子・恒明親王は、その周囲にけっこうな波瀾を捲き起こした点では良く似た存在ですね。
恒明親王は後宇多院(1267-1324)の三十六歳下の弟ですが、亀山院は恒明親王を鍾愛して皇位を継がせることにし、後宇多院に同意を強要します。
しかし、嘉元三年(1305)に亀山院が亡くなると後宇多院はその同意を撤回し、亀山院が恒明親王を託した西園寺公衡を勅勘、朝廷への出仕を禁止します。
あわてた公衡は幕府に取りなしを頼み、暫くして勅勘は解かれますが、後宇多院との間にわだかまりは残ったでしょうね。
他方、公衡(1264-1315)の三十九歳下の妹、西園寺禧子の場合、東宮時代の後醍醐が西園寺実兼の邸から「忍びて盗み給」うた訳ですが、これは正和二年(1313)の出来事なので、後醍醐が数えで二十六歳、禧子は僅かに十一歳。
その行為自体は後宇多院が後深草院・東二条院と同居していた遊義門院を「とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給」うた事件と似ていますが、こちらは永仁二年(1294)の出来事なので後宇多は二十八歳、遊義門院は二十五歳で、二人とも大人ですから問題はありません。

「新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7510e924ed2c4eaf216c6d9643ebffef

しかし、後醍醐は数えで十一歳、満年齢なら十歳の子供を「忍びて盗み給」うた訳で、現代であれば未成年者略取誘拐(刑法224条)という立派な犯罪ですし、当時としても相当問題のある行為ですね。
ま、それはともかく、三浦論文に戻って、「珣子とこの西園寺公宗は叔母・甥の関係となる」の続きです。(p521)

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この珣子の中宮立后は皇太后宮禧子の死の直後であり、やや唐突な感が否めないが『続史愚抄』によれば、

  七日丁卯、一品珣子内親王<御年廿三、法皇第一皇女、母広義門院>、冊為中宮、有節会宮司除目等、此日、京師依有訛言、大騒動云、

とあるように、この日、都では「訛言」があり大騒動となった。これについて『大日本史料』では、「是日、京師騒動ノ事、何故ナルカヲ詳ニセズト雖ドモ、是時護良親王ト尊氏トノ釁隙漸ク深ク、明年ニ至リ、屡、変ヲ生ゼントセシコトアレバ、物情ノ驚擾セシハ、或ハ之ニ原因セシヤモ知ルベカラズ」と、この騒動の原因について、判然としないものの護良親王と足利尊氏の確執を見ているようである。一方、熱田公氏は「立后の日、京都の物情騒然たるものがあったというが、あるいは立后の背景と関係するかもしれない」と述べられている。こうした騒動が、珣子の中宮冊立と関わるものかは即断できないが、いずれにしても、この立后には何らかの意図・背景があったように思われるのである。その点についてさらに考えていきたい。
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いったん、ここで切ります。
『大日本史料』の「護良親王と足利尊氏の確執」云々との推測は、江戸時代に編纂された『続史愚抄』の記事だけが根拠ならいささか無理が多いように感じます。
また、熱田公氏の見解は、注(11)によると安田元久編『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社、1985)に記されているのだそうで、特にここに書かれた以上の検討はなさそうです。
さて、続きです。

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 まず私が注目したいのは次の二点である。まず一つ目は、この立后の三日後に光厳へ「太上天皇」の尊号が与えられていることである。先述したように、元弘三年の帰京直後に光厳天皇の帝位は廃されていたが、この尊号授与の詔書を見ると、光厳を「皇太子」と記し、崇敬のために「太上天皇」の尊号を上〔たてまつ〕るとされている。これについて飯倉晴武氏は、

  後醍醐は体制を元弘元年九月以前にもどしたのであるから、現在も光厳院は皇太子である。この事実に後醍醐は
  ハタと気がついたのであろうか。そしていくら否定しても玉座についていた事実は、いかんともしがたいとの思
  いがつのったのであろうか。後醍醐が光厳院をここで皇太子と表明したのは、自己の在位継続をさらに裏づける
  ためであり、皇太子の地位からはずしたのは、皇子恒良親王を子太子に立てるためでもあった。

と説かれている。二つ目として、『続史愚抄』に、

  十二月日、前斎宮一品准三宮懽子内親王、<御年十九、今上第一皇女、母後京極院、重服中>、入新院<光厳院>宮、

とあるように、後醍醐天皇の第一皇女である懽子内親王が光厳院の後宮に入っていることが注目される。これについて『女院小伝』を見ると、「密入上皇宮」とあるように密かに行われたことであった。
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うーむ。
飯倉晴武氏の見解(『地獄を二度見た天皇 光厳院』、吉川弘文館、2002)は妙に情緒的で、ちょっと賛成できないですね。
ごく普通に論理的に考えれば、「体制を元弘元年九月以前にもどしたのであるから、現在も光厳院は皇太子」であって、別に「ハタと気が」つく必要もありません。
光厳は皇太子ではあるが、「崇敬のために「太上天皇」の尊号を上る」という理屈で何の問題もないはずです。
また、三浦氏は「密かに行われたこと」に何か特別な意味を感じておられるような書き方をされていますが、懽子内親王は母が死んで「重服中」なのだから、あまり派手なことはできなかった、で済むのではないかと思います。

懽子内親王(宣政門院、1315-62)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BD%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

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