学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その9)

2021-03-27 | 歌人としての足利尊氏
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月27日(土)17時04分28秒

石川氏は「一方で護良親王との確執等も既に起こっていた」とされますが、これは恐らく佐藤進一『南北朝の動乱』の影響ですね。
ただ、佐藤説そのものが『太平記』の枠組みの中で想像を重ねた「『太平記』史観」に過ぎず、この時期の「護良親王との確執」を一次史料で裏付けることはできません。
護良の確実な事跡としては、元弘三年(1333)一二月一一日に南禅寺に参詣して元僧・明極楚俊の法話を聴いた、というエピソードがあるだけなので、素直に考えれば護良もけっこうヒマだったのでは、ということになりそうです。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/679ad9e52ebe90324ce3fb8e11eef575
「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8af9d296e77523b21f345d6f27ab22c
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d
南北朝クラスター向けクイズ【解答編】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6d0f6f585a180760d494ad4f9b0c01f
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

さて、続きです。(p15)

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 一三三五年、これも尊氏にとって転機となる重要な年であるが、後醍醐天皇内裏において千首歌会が催行された。この「内裏千首」の全貌は明らかでないが、地下の出家歌人をも含めた広範囲の歌人が参加しており、尊氏も歌人の一人として名を列ねている。
     建武二年内裏千首の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、氷
                    等持院贈左大臣
  流れ行く落葉ながらや氷るらむ風より後の冬のやま河
                   (新千載六二六)
     建武二年内裏千首歌の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、月を
                    等持院贈左大臣
  今ははや心にかかる雲もなし月を都の空と思へば
                    (同一七八三)
この詞書によれば折しも尊氏は東国に下向しており、そこで題を受け取って歌を都に送ったという。この年の尊氏の東国下向という事から直ちに想起されるのは、中先代の乱であろう。七月、幕府最後の執権であった北条高時の遺児時行が諏訪頼重等とともに挙兵し、足利直義の軍を撃破して鎌倉を占領、直義は鎌倉を出奔し(この時に預かっていた護良親王を殺害した)、三河国に逃れた。事件を聞いた尊氏は征夷大将軍の称号と追討令を望んだが後醍醐天皇はこれを許さず、尊氏は勝手に軍勢を率いて下向し、天皇は慌てて征東将軍の号を与えて、自らが出兵を命じたかの如く体裁を繕った。尊氏に征夷大将軍の号を与える事で名実ともに武士の棟梁となって統率権を握られる事を危惧するとともに、そうする事が武士の体制からの離反をも招来しかねない、その苦渋の結果の措置であったろうが、後醍醐天皇としては顔に泥を塗られたような思いもあったであろう事は想像に難くない。尊氏は三河で直義と合流し、東下して時行軍を駆逐し、直ちに鎌倉を回復した。そのどの段階で先の歌題が届いたのかは定かでないが、これ以前に生じていた両者の間の溝は東国への出兵の件を巡って一層深刻化したはずであろう。そんな状況のなかであったにも拘わらず天皇は宮廷和歌活動の題を敢えて遠征中の尊氏に送って参加させ、尊氏もそれに応じて和歌を詠んで送ったのである。この問題をどう考えたらよいのだろうか。
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「最後の執権であった北条高時」とありますが、これは「最後の得宗」の誤りですね。
「最後の執権」は尊氏の正室・赤橋登子の兄、赤橋守時です。
さて、このあたりの記述も概ね佐藤進一説を前提としていますが、「尊氏は征夷大将軍の称号と追討令を望んだ」の「追討令」については石川氏に若干の誤解があるようですね。
『太平記』によれば尊氏が望んだのは「追討令」ではなく「東八ヶ国の管領」権であり、また『神皇正統記』によれば「諸国惣追捕使」です。
私自身は尊氏が「征夷大将軍の称号」を望んだという点についても懐疑的で、これも「『太平記』史観」の一環だろうと思っています。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fd1116047e33b2545c9b6155eab52b8
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

それにしても、佐藤進一『南北朝の動乱』では、中先代の乱で尊氏が京都を離れた時点で後醍醐と尊氏の間に大きな衝突があり、その緊張状態がずっと続いて十一月の決裂に至る、というストーリーとなっており、これは他の歴史学研究者の著作でも基本的に同じ構図です。
しかし、「建武二年内裏千首」をめぐる歌壇での動きを見ると、なんだかずいぶんのんびりとした雰囲気ですね。
「この問題をどう考えたらよいのだろうか」という問いへの石川氏の回答は次の投稿で紹介します。
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