投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月10日(木)12時41分28秒
亀田俊和氏の『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)を通読して感じるのは、恐らく亀田氏は建武新政期の護良の動向を描くのに一番苦労されたのではないかな、ということです。
護良が畿内南部に潜伏して反幕府活動を行っていた時期には大量の「大塔宮令旨」が発給された模様で、かなりの数が現存しており、その中には軍勢催促や感状も含まれます。
また、幕府側も護良と楠木正成の討伐を命ずる軍勢催促状を残しており、更に護良の活発な活動を記す『花園天皇宸記』などの公家側の史料もあります。
しかし、建武新政期には護良関係の史料が激減するそうですね。
同書第二部の「第一章 足利尊氏との死闘」から少し引用します。(p67以下)
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尊氏暗殺計画
こうしてざっと見ただけでも、尊氏がいかに後醍醐に厚遇されていたのかがよくわかるだろう。足利ファンの筆者でさえ、いささかうんざりするほどである。
そして反面、護良がいかに冷遇されていたかも改めて浮き彫りになる。当時、尊氏が政権の中枢から排除されている状況を、公家たちが「尊氏なし」とささやき合ったという著名な逸話があるが、それはうそである。「護良なし」こそが実態であった。
護良は、尊氏に差をつけられる一方であった。実は、建武政権下における護良の活動さえも、史料からはほとんどうかがええない。わずかに元弘三年(一三三三)一二月一一日に南禅寺に参詣し、住職である元僧明極楚俊の法話を聴いたことくらいである(『明極録』同日条)。
焦った護良は、ついに尊氏にテロを仕掛けて暗殺することを思い立った。翌建武元年(一三三四)六月頃、護良の軍勢が尊氏邸を襲撃する風聞が立った。そこで尊氏は、大部隊を集結させて防御を固めて防いだ(以上、『梅松論』)。その後も尊氏は、外出の際には大勢の軍勢を供奉させて護良の襲撃を警戒している。
また、『太平記』巻一二によれば、密かに諸国へ尊氏討伐を呼びかける令旨を発給したという(ただし、その実例は残存しない)。さらに、護良が蓄えた私兵が、毎夜京・白河を徘徊して少年・少女を殺害した。
辻斬りが事実であったか否かは不明であるが、平時にもかかわらず軍勢が京都に集結することは、当時、それだけで治安悪化の原因となったらしい。たとえば後年、暦応五年(一三四二)正月二一日、室町幕府の執事高師直が急病にかかったとき、洛中に軍勢が充満して騒動になった。その反省を踏まえて師直は、翌二月に足利直義も罹病した際には、見舞いを禁じる命令を出しているほどである。
要人の見舞いという「善意」のときでさえ、この有り様である。尊氏に明確な敵意を持つ護良の私兵がいかなる集団であったのか、推して知るべしである。しかも護良の私兵は、新井孝重の表現を借りれば「浮動的武装民」が主力であった。要するに、盗賊と紙一重のならず者の集団である。
以上、建武政権にとって護良は、存在するだけで秩序を崩壊させかねない不安定要因と化していたのである。
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「実は、建武政権下における護良の活動さえも、史料からはほとんどうかがええない」とする亀田氏が頼っているのは、結局のところ『太平記』ですね。
亀田氏は「第一章 足利尊氏との死闘」の冒頭でも、「護良と高氏の最初の衝突」として『太平記』巻十二から良忠法印の配下二十人余りが強盗を働いて、尊氏がこれらの者の頸を刎ね、六条河原に晒した事件を紹介された後、
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この逸話を素直に信じる限り、非はすべて護良側にあり、高氏にはまったく問題はない。完全な護良の逆恨みである。もちろん、真偽は不明であるが、後述するように、筆者は両者の不和の原因は、護良が高氏を一方的に嫉妬したことだと考えるので、この逸話はそれを反映しているのではないかと思う。
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と述べられています。(p57)
しかし、『太平記』にしか出て来ないこの逸話はかなり奇妙な話ですね。
征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37968ec2d22b9aaae94c672afd446770
倒幕に貢献したことは間違いない護良の配下が、多大の恩賞を期待できる時期に強盗を図るのは変ですし、尊氏の配下が強盗の頸を斬って六条河原に晒すのは良いとしても、その際に「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者、在々所々に於て強盗を致す間、これを誅する所なり」と高札に書くのはあまりに不自然です。
これは護良への侮辱ですから、書いた瞬間に護良の軍勢と尊氏の軍勢の全面戦争となりますね。
とにかく『太平記』における時間の流れは無茶苦茶ですから、あるいは恩賞の少なさに不満をもった護良配下の連中が強盗と化すようなことがあったとしても、それは少し時期的に遅れるのではないかと思います。
また、「夜ごとに京、白河を回りて辻切りをしける程に、路次に行き合ふ尼、法師、女、童部、ここかしこに切り倒されて、横死に合ふ者止む時なし」という話も、『太平記』以外に典拠はありません。
そして『梅松論』も足利側に偏った史料であること間違いない上に、尊氏襲撃云々はあくまでも「風聞」であり、しかもそれは護良だけではなく、後醍醐の指示に基づいて護良のみならず新田義貞・楠木正成・名和長年も計画していたというのですから、護良の非道さを物語る逸話ではありません。
『梅松論』現代語訳(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou19.html
護良の配下が「浮動的武装民」だったとする新井孝重氏の見解も主たる根拠は『太平記』ではなかろうかと思いますが、『太平記』は最初から護良を真っ黒に描いて、その黒さを糾弾しているので、その扱いは慎重であるべきです。
建武新政期の護良については信頼できる史料が皆無に近く、尊氏との対立を詳細に描いている『太平記』は全く信用が置けないので、結局のところ、この時期の護良の動向は、護良の配下が「盗賊と紙一重のならず者の集団」であったのか、「建武政権にとって護良は、存在するだけで秩序を崩壊させかねない不安定要因と化していた」のかを含め、よく分からないとしか言いようがないのではないかと思います。
亀田俊和氏の『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)を通読して感じるのは、恐らく亀田氏は建武新政期の護良の動向を描くのに一番苦労されたのではないかな、ということです。
護良が畿内南部に潜伏して反幕府活動を行っていた時期には大量の「大塔宮令旨」が発給された模様で、かなりの数が現存しており、その中には軍勢催促や感状も含まれます。
また、幕府側も護良と楠木正成の討伐を命ずる軍勢催促状を残しており、更に護良の活発な活動を記す『花園天皇宸記』などの公家側の史料もあります。
しかし、建武新政期には護良関係の史料が激減するそうですね。
同書第二部の「第一章 足利尊氏との死闘」から少し引用します。(p67以下)
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尊氏暗殺計画
こうしてざっと見ただけでも、尊氏がいかに後醍醐に厚遇されていたのかがよくわかるだろう。足利ファンの筆者でさえ、いささかうんざりするほどである。
そして反面、護良がいかに冷遇されていたかも改めて浮き彫りになる。当時、尊氏が政権の中枢から排除されている状況を、公家たちが「尊氏なし」とささやき合ったという著名な逸話があるが、それはうそである。「護良なし」こそが実態であった。
護良は、尊氏に差をつけられる一方であった。実は、建武政権下における護良の活動さえも、史料からはほとんどうかがええない。わずかに元弘三年(一三三三)一二月一一日に南禅寺に参詣し、住職である元僧明極楚俊の法話を聴いたことくらいである(『明極録』同日条)。
焦った護良は、ついに尊氏にテロを仕掛けて暗殺することを思い立った。翌建武元年(一三三四)六月頃、護良の軍勢が尊氏邸を襲撃する風聞が立った。そこで尊氏は、大部隊を集結させて防御を固めて防いだ(以上、『梅松論』)。その後も尊氏は、外出の際には大勢の軍勢を供奉させて護良の襲撃を警戒している。
また、『太平記』巻一二によれば、密かに諸国へ尊氏討伐を呼びかける令旨を発給したという(ただし、その実例は残存しない)。さらに、護良が蓄えた私兵が、毎夜京・白河を徘徊して少年・少女を殺害した。
辻斬りが事実であったか否かは不明であるが、平時にもかかわらず軍勢が京都に集結することは、当時、それだけで治安悪化の原因となったらしい。たとえば後年、暦応五年(一三四二)正月二一日、室町幕府の執事高師直が急病にかかったとき、洛中に軍勢が充満して騒動になった。その反省を踏まえて師直は、翌二月に足利直義も罹病した際には、見舞いを禁じる命令を出しているほどである。
要人の見舞いという「善意」のときでさえ、この有り様である。尊氏に明確な敵意を持つ護良の私兵がいかなる集団であったのか、推して知るべしである。しかも護良の私兵は、新井孝重の表現を借りれば「浮動的武装民」が主力であった。要するに、盗賊と紙一重のならず者の集団である。
以上、建武政権にとって護良は、存在するだけで秩序を崩壊させかねない不安定要因と化していたのである。
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「実は、建武政権下における護良の活動さえも、史料からはほとんどうかがええない」とする亀田氏が頼っているのは、結局のところ『太平記』ですね。
亀田氏は「第一章 足利尊氏との死闘」の冒頭でも、「護良と高氏の最初の衝突」として『太平記』巻十二から良忠法印の配下二十人余りが強盗を働いて、尊氏がこれらの者の頸を刎ね、六条河原に晒した事件を紹介された後、
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この逸話を素直に信じる限り、非はすべて護良側にあり、高氏にはまったく問題はない。完全な護良の逆恨みである。もちろん、真偽は不明であるが、後述するように、筆者は両者の不和の原因は、護良が高氏を一方的に嫉妬したことだと考えるので、この逸話はそれを反映しているのではないかと思う。
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と述べられています。(p57)
しかし、『太平記』にしか出て来ないこの逸話はかなり奇妙な話ですね。
征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37968ec2d22b9aaae94c672afd446770
倒幕に貢献したことは間違いない護良の配下が、多大の恩賞を期待できる時期に強盗を図るのは変ですし、尊氏の配下が強盗の頸を斬って六条河原に晒すのは良いとしても、その際に「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者、在々所々に於て強盗を致す間、これを誅する所なり」と高札に書くのはあまりに不自然です。
これは護良への侮辱ですから、書いた瞬間に護良の軍勢と尊氏の軍勢の全面戦争となりますね。
とにかく『太平記』における時間の流れは無茶苦茶ですから、あるいは恩賞の少なさに不満をもった護良配下の連中が強盗と化すようなことがあったとしても、それは少し時期的に遅れるのではないかと思います。
また、「夜ごとに京、白河を回りて辻切りをしける程に、路次に行き合ふ尼、法師、女、童部、ここかしこに切り倒されて、横死に合ふ者止む時なし」という話も、『太平記』以外に典拠はありません。
そして『梅松論』も足利側に偏った史料であること間違いない上に、尊氏襲撃云々はあくまでも「風聞」であり、しかもそれは護良だけではなく、後醍醐の指示に基づいて護良のみならず新田義貞・楠木正成・名和長年も計画していたというのですから、護良の非道さを物語る逸話ではありません。
『梅松論』現代語訳(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou19.html
護良の配下が「浮動的武装民」だったとする新井孝重氏の見解も主たる根拠は『太平記』ではなかろうかと思いますが、『太平記』は最初から護良を真っ黒に描いて、その黒さを糾弾しているので、その扱いは慎重であるべきです。
建武新政期の護良については信頼できる史料が皆無に近く、尊氏との対立を詳細に描いている『太平記』は全く信用が置けないので、結局のところ、この時期の護良の動向は、護良の配下が「盗賊と紙一重のならず者の集団」であったのか、「建武政権にとって護良は、存在するだけで秩序を崩壊させかねない不安定要因と化していた」のかを含め、よく分からないとしか言いようがないのではないかと思います。
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