投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月27日(土)21時40分7秒
「この問題をどう考えたらよいのだろうか」という問いへの石川氏の回答は次の通りです。(p15以下)
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権力を巡って対立を見せ始めても未だ二人は風雅においては結び付いていたのだ、と見る事もできるかもしれないし、尊氏の風流心を繰った一種の懐柔策といった見方も成り立つかもしれない。だがここでは、後醍醐天皇にとっての和歌活動が政治的意味合いを帯びていた事を考え併せたい。和歌活動に参加させる事で離反しつつある尊氏を自らの統制の中に組み込もうとした、或いは題を下賜する事に対する反応によって支配体制下にあるや否やを試みた、天皇のそんな意図を汲み取ってみたいと思う。
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石川氏の見解は佐藤進一説、即ち「『太平記』史観」の枠組みの中での考察なので、私は基本的に賛成できませんが、今は議論しません。
ただ、「尊氏の風流心を繰った一種の懐柔策といった見方」までは良いとしても、「題を下賜する事に対する反応によって支配体制下にあるや否やを試みた」となると、ちょっと陰謀論めいた雰囲気も漂ってきますね。
さて、続きです。(p16)
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だがこの後間もなく、結局両者は決裂した。尊氏の、合戦の功労者に勝手に恩賞を与えるといった行動が後醍醐天皇の堪忍袋の緒を切らせ、十一月、遂に尊氏討伐の命が下る。都から下された新田義貞・尊良親王らによる討伐軍を打破した尊氏・直義軍は西に向かって侵攻、翌一三三六年正月には入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山への退去を余儀なくされた。だが奥州から北畠顕家率いる援軍が到着したのを機に、戦局は一変する。楠木正成・新田義貞の軍にも敗れた足利軍は、西下して九州で軍勢の立て直しを図ることになる。
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中先代の乱をうけて尊氏が京を離れたのは建武二年(1335)八月二日です。
そして同月十九日には時行軍が最終的に敗北し、尊氏は鎌倉を奪還することになります。
この間の事情については今まで何度か触れてきました。
永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その2)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6e52e7952139f28d673368f17f89b0b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a22c3f571c22453c54d08f5fd20d160f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e51727326e03b4432bf1c159dba14ca8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/170f21101bf62fca93341b8fe4239f88
「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824
中先代の乱の勃発以降、本当にめまぐるしく情勢が変化して行きますが、その中で「建武二年内裏千首」はあまりにのんびりした話のようで、本当に不思議な感じがします。
いったい尊氏は何時、後醍醐からの題を受け取り、そして何時、自分の歌を送ったのか。
この辺りの事情について、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』に即して、もう少し考えてみたいと思います。
「この問題をどう考えたらよいのだろうか」という問いへの石川氏の回答は次の通りです。(p15以下)
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権力を巡って対立を見せ始めても未だ二人は風雅においては結び付いていたのだ、と見る事もできるかもしれないし、尊氏の風流心を繰った一種の懐柔策といった見方も成り立つかもしれない。だがここでは、後醍醐天皇にとっての和歌活動が政治的意味合いを帯びていた事を考え併せたい。和歌活動に参加させる事で離反しつつある尊氏を自らの統制の中に組み込もうとした、或いは題を下賜する事に対する反応によって支配体制下にあるや否やを試みた、天皇のそんな意図を汲み取ってみたいと思う。
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石川氏の見解は佐藤進一説、即ち「『太平記』史観」の枠組みの中での考察なので、私は基本的に賛成できませんが、今は議論しません。
ただ、「尊氏の風流心を繰った一種の懐柔策といった見方」までは良いとしても、「題を下賜する事に対する反応によって支配体制下にあるや否やを試みた」となると、ちょっと陰謀論めいた雰囲気も漂ってきますね。
さて、続きです。(p16)
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だがこの後間もなく、結局両者は決裂した。尊氏の、合戦の功労者に勝手に恩賞を与えるといった行動が後醍醐天皇の堪忍袋の緒を切らせ、十一月、遂に尊氏討伐の命が下る。都から下された新田義貞・尊良親王らによる討伐軍を打破した尊氏・直義軍は西に向かって侵攻、翌一三三六年正月には入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山への退去を余儀なくされた。だが奥州から北畠顕家率いる援軍が到着したのを機に、戦局は一変する。楠木正成・新田義貞の軍にも敗れた足利軍は、西下して九州で軍勢の立て直しを図ることになる。
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中先代の乱をうけて尊氏が京を離れたのは建武二年(1335)八月二日です。
そして同月十九日には時行軍が最終的に敗北し、尊氏は鎌倉を奪還することになります。
この間の事情については今まで何度か触れてきました。
永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その2)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6e52e7952139f28d673368f17f89b0b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a22c3f571c22453c54d08f5fd20d160f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e51727326e03b4432bf1c159dba14ca8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/170f21101bf62fca93341b8fe4239f88
「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824
中先代の乱の勃発以降、本当にめまぐるしく情勢が変化して行きますが、その中で「建武二年内裏千首」はあまりにのんびりした話のようで、本当に不思議な感じがします。
いったい尊氏は何時、後醍醐からの題を受け取り、そして何時、自分の歌を送ったのか。
この辺りの事情について、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』に即して、もう少し考えてみたいと思います。
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