投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月11日(金)10時08分24秒
今までの私の議論を眺めていて、櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」(『明月記研究』9号、2004)という論文を連想された方も多いかもしれません。
ネットでは杉橋隆夫氏の「鎌倉右大将家と征夷大将軍・補考」(『立命館文学』624号、2012)で櫻井論文の概要を知ることができますが、征夷大将軍に関するポイントは、
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一、義仲は「征夷大将軍」ではなく、「征東大将軍」であった。
二、 頼朝は「大将軍」を望んだのであって、「征夷大将軍」を望んだわけではない。
三、朝廷では、「征夷」、「征東」、「惣官」、「上将軍」等から「征夷大将軍」を選んだ。
四、頼朝は「征夷大将軍」を除目・勅任で与えられた。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/sugihasi.pdf
ということです。
この論文は武家社会の研究者にとってはけっこう衝撃的だったようで、私が昔参加していた勉強会でも、すごい発見だなあ、みたいな感想を述べている人がけっこういました。
まあ、私自身は貴族社会にしか興味がなかったので、ふーん、と思っただけでしたが、今回『太平記』を丁寧に読んでみたところ、『太平記』では征夷大将軍がものすごく重い存在であることを前提にストーリーが展開されています。
まず、第十二巻第一節「公家一統政道の事」で、信貴山に立て籠もった護良親王が後醍醐に征夷大将軍任官と尊氏追罰の二つを要求し、後醍醐は尊氏追罰を拒否した一方、「征夷将軍の宣旨」を下して護良を宥め、護良も了解して帰洛するという話が出てきて、同巻第九節「兵部卿親王流刑の事」の冒頭でも護良への「征夷将軍の宣旨」の話が繰り返されます。
ついで第十三巻第七節「足利殿東国下向の事」で、中先代の乱に際し、関東へ下向する尊氏は後醍醐に征夷大将軍任官と「東八ヶ国の管領」の二つを要求し、後醍醐は「征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八ヶ国管領の事は、先づ子細あるべからず」として、征夷大将軍任官は拒否する一方、「東八ヶ国の管領」は許可します。
この二つのエピソードでは、後醍醐へ二つの要求がなされ、後醍醐はひとつだけ勅許するというパターンが共通していますが、いずれのエピソードでも後醍醐・護良・尊氏の三人全員が征夷大将軍を非常に重い存在と認識していることを前提としています。
第一のエピソードについては次回の投稿から検討しますが、結論として、私は護良が征夷大将軍任官を強く要求した事実はなかっただろうと思っています。
それは就任僅か三か月後の解任に際して後醍醐と護良の関係が決裂しなかったという客観的事実に加え、護良が帰洛した日付について『太平記』に極めて不自然な記述があることからも説得的に論証できると思っています。
そして、第二のエピソードについても、中先代の乱という緊急時に、尊氏がどさくさ紛れで征夷大将軍任官を要求するような事実はなかっただろうと思います。
中先代の乱では、敵は親兄弟・一族・友人・知人を皆殺しにされて復讐の念に燃える鬼のような連中であり、彼等にとって尊氏は許し難い裏切り者ですから、共に天を戴くことのできない仇敵同士として実力で相手を粉砕・殲滅する以外選択肢はありません。
征夷大将軍の権威を帯びたところで敵を威圧したり揺さぶりをかけたりする軍事的効果は全くなく、軍事の天才である尊氏が軍事的効果のない要求をするはずがないと私は考えます。
さて、『太平記』の二つのエピソードがいずれも事実に反し、後醍醐・護良・尊氏がいずれも、少なくとも中先代の乱の時までは征夷大将軍をあまり重い存在と認識していなかったとすると、いったい何時、征夷大将軍は重い存在になったのか、という問題が生じてきます。
鎌倉時代まで遡ると、頼朝自身は征夷大将軍に特別なこだわりを持っていた訳ではなく、「大将軍」だけで充分満足だったことが櫻井論文によって解明されています。
それ以降の歴代将軍の主観的認識については、それを探る史料はおそらく存在していないでしょうが、第二代・源頼家、第三代・源実朝の同母兄弟は共に暗殺されて「源氏将軍」は僅か三代で絶えてしまっているので、外部からはそれほど素晴らしい存在のようにも見えなかったかもしれません。
続く第四代・藤原頼経、第五代・藤原頼嗣の「摂家将軍」は、それぞれ数えで七歳と六歳で就任しますが、いずれも政変に巻き込まれて京都に追われ、康元元年(1256)に相次いで病死してしまった、という縁起の悪さです。
そして最初の「親王将軍」である第六代・宗尊親王は十一歳で就任しますが、二十五歳で不可解な事情により鎌倉を追放され、以降、第七代・惟康親王、第八代・久明親王はいずれも若年で就任するも、成長すると定期便のように京都に送られてしまいます。
という具合いに、「摂家将軍」以降、征夷大将軍はどんどん名目的な存在となってしまいますが、八歳で就任した第九代・守邦親王となると、どんな人生を送ったのか全然史料がなく、結局、幕府自体が消滅してしまって最後の将軍となります。
まあ、要するに鎌倉後期以降、征夷大将軍は極めて軽い存在となってしまっていたので、「親王将軍」である護良の場合も、後醍醐にとっては「倒幕活動ご苦労さま、よくやってくれた」程度の勲功賞として任官させ、護良もそんなものとして受け取った可能性が高いように思われます。
では、征夷大将軍はいつ重い存在となったのか。
これは尊氏の動向を見ていれば明らかで、尊氏が征夷大将軍に就任した暦応元年(1338)ですね。
尊氏が北朝を擁立したのは二年前の建武三年(1336)八月で、それ以降、尊氏が望んだならば北朝はただちに尊氏を征夷大将軍に任じたでしょうが、実際には尊氏は二年間待って、北朝が朝廷としての体制をきちんと整備してから任官しています。
これは、この時の尊氏が足利家の権力の正統性を確立する上で、征夷大将軍が非常に重要な意味を持っていると認識していたことを示しているように思われます。
尊氏を頼朝と重ね合わせる言説が登場するのもこの時期であって、そのあたりの事情については山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)が大変参考になりますが、山家氏の見解にも納得できない点が多々あるので、後で詳しく検討したいと思います。
『梅松論』や『太平記』は、足利家の宣伝戦略により征夷大将軍が大変重い存在であるとの認識が広まって以降、その認識を過去に遡らせてストーリーを作っている可能性が極めて高く、特に『太平記』はマス・メディアとして大変な拡散力を持ったので、かかる認識を広めるのに多大な貢献をした、というのが現時点での私の見通しです。
※追記
「「親王将軍」である護良の場合も、後醍醐にとっては「倒幕活動ご苦労さま、よくやってくれた」程度の勲功賞として任官させ、護良もそんなものとして受け取った可能性が高いように思われます」については、再考の結果、リンク先の考え方に改めました。
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbde7787a86b6133c16f9b56acb161ba
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