学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その2)

2021-03-16 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月16日(火)18時27分13秒

前回投稿の最後に「宗教的空白」について少し書きましたが、これは私にとってけっこう重要なテーマで、従来からしつこく検討しています。
最初は「宗教的空白」がどこまで遡れるのか、という観点から調べていたのですが、過去に遡れば遡るほど宗教感情が篤いということではなくて、大きな周期がある感じですね。
例えば神仏分離・廃仏毀釈に関する現在の言説を見ると、「国家神道」を民衆支配の中核としようとした明治新政府が「民衆の素朴な宗教感情」を権力的に圧殺したのだ、みたいなパターンの話をする人が多いのですが、実際には明治維新期の「民衆の素朴な宗教感情」は相当希薄で、現在よりもむしろ薄い感じがします。
もちろんいつの時代にも篤信者と「狂信者」は一定の割合で存在しますが、南北朝期は日本史上「宗教的空白」が特別に拡大した時期ではないか、というのが現在の私の見立てで、『太平記』の笑い話はこの時期の「宗教的空白」を分析するのに絶好の素材だと考えています。

「宗教的空白」の過去と未来
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a08ab0d5924daea7e3dbdae6f360d390
遠藤基郎氏によるストイックな『太平記』研究の一例
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/add15e79ee126d362f65dc1198c31b5b

ま、それはともかく、続きです。(p183以下)

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 探題はかねてより用意したる事なれば、大勢を木戸より外へ出だして闘はしむるに、菊池、小勢なりと云へども、皆命を塵芥に比し、義を金石に類して攻め戦ふ。禦〔ふせ〕ぐ兵若干〔そこばく〕討たれて、攻〔つ〕めの城へ引き籠もる。菊池、いよいよ勝に乗つて、塀を乗り越え、木戸を切り破つて、透き間もなく攻め入りける間、英時怺〔こら〕へかねて、すでに自害せんとしける処に、少弐、大友、六千余騎にて後攻〔ごづ〕めをぞしたりける。
 菊池入道、これを見て、嫡子肥後守武重を呼んで申しけるは、「われ今、少弐、大友に出し抜かれて、戦場の死に赴くと云へども、義の当たる所を思ふゆゑに、命を堕とさん事を悔いず。しかれば、寂阿に於ては、英時の城を枕にして討死〔うちじに〕すべし。汝は急ぎわが館へ帰つて、城を堅くし、兵を起こして、わが生前の恨みを死後に報ぜよ」と申し含めて、若党〔わかとう〕五十騎を引き分けて、武重に相添へて、肥後国にぞ帰しける。古里に留めし妻子どもの、出でしを終〔つい〕の別れとも知らで、帰るを今やとさこそ待つらめと、あはれに思ひければ、一首の歌を袖の笠符〔かさじるし〕に書いて、古郷〔ふるさと〕へぞ送りける。
  古里に今夜ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん
 武重は、四十有余の独りの祖〔おや〕、ただ今討死せんとて大敵に向かふ闘ひなれば、「一所にしてこそ、ともにともかくもなり候はん」とて、再三申しけれども、「汝をば天下のために留むるぞ」と、父が庭訓〔ていきん〕堅かりければ、武重力なく、これを最後の別れと見捨てて、泣く泣く肥後へぞ帰りける。心の中こそあはれなれ。
 その後、菊池入道は、子息肥後三郎と相ともに、百余騎を前後に立てて、後攻めの勢には目を懸けずして、英時が屋形へ攻め入り、つひに一足も引かず、敵に差し違へ差し違へ、一人も残らず討死す。専諸〔せんしょ〕、荊卿〔けいけい〕が心は、恩のために奉じ、侯生〔こうせい〕、予子〔よし〕が命は、義によつて軽しとは、この体の事を申すべき。
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ここは「袖ヶ浦の別れ」と呼ばれる『太平記』屈指の名場面のひとつですが、菊池武時は大友貞宗・少弐貞経とは違って歌人ではなかったようで、『臨永集』にも登場しません。
だからといって一首も詠まなかったとは断言できませんが、まあ、この場面は『太平記』の創作なのでしょうね。
なお、「専諸」・「荊卿」(荊軻)・「予子」(予譲)は『史記・刺客列伝』に、「侯生」は『史記・義公子列伝』に登場する人物で、『太平記』に多い中国古典の引用場面ですが、亀田俊和氏の「『太平記』に見る中国故事の引用」(『古典の未来学』所収、文学通信、2020)に従えば、第一類型「本文の中でごく簡略に引用する方式」の例ですね。
荊軻は赤橋守時自害の場面にも登場していますが、そちらでは守時を「田光先生」に譬えていて、中国古典の引用の分量が増えれば増えるほど創作の度合いが高まっているようです。

謎の女・赤橋登子(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4961756736d97a173f9a995df7c06a75

さて、続きです。(p185以下)

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 さても、少弐、大友が今度の振る舞ひ人にあらずと、天下の人に悪〔にく〕み、譏〔そし〕られながら、そら知らずして、世間の様〔よう〕を聞き居たりける程に、五月七日、両六波羅すでに攻め落とされて、千剣破〔ちはや〕の寄手も南都に引き退きぬと聞こえければ、少弐入道、こはいかがすべきと仰天せり。さらば、探題を討ち奉つて、その咎を補はばやと思ひければ、先づ菊池肥後守と大友入道がもとへ、内々使者を遣はして相語らふに、菊池は先に懲りて、耳にも聞き入れず。大友はわれも咎ある身なれば、かくてや助かると、堅く領状しけり。
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『太平記』では少弐貞経・大友貞宗は一貫して卑怯者として描かれており、まったく良いところがありません。
もちろん、歌人としての才能を発揮する場面もありません。
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『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)

2021-03-16 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月16日(火)11時38分42秒

鎮西探題の文芸活動については、川添昭二氏の先駆的な研究以後、殆ど進展がないように見えますが、地方史の書籍・雑誌等で参照すべき文献をご存じの方は御教示願いたく。
さて、ちょっと脱線気味になりますが、『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期はなかなか壮烈なので、少し見ておきたいと思います。
兵藤裕己校注『太平記(二)』の第十一巻第七節「筑紫合戦九州探題の事」から引用します。(p180以下)

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 京都、鎌倉は、すでに高氏、義貞が武功によつて静謐しぬ。今は、筑紫へ討手を下されて、九国の探題英時を攻めらるべしとて、二条大納言師基を太宰帥になされて、すでに下し奉らんとせられける前に、六月七日、菊池、少弐、大友がもとより早馬同日に打つて、「九州の朝敵、残る所なく退治候ひぬ」と奏聞す。
 その合戦の次第を、後に委しく尋ぬれば、主上〔しゅしょう〕未だ船上〔ふなのうえ〕に御座ありし時、少弐入道妙恵、大友入道愚鑑、菊池入道寂阿、三人同心して、御方へ参ずべき由を申し入れける間、綸旨に錦の御旗を添へてぞ下されける。その企て、かれら三人心中に秘して、未だ色に出ださずと云へども、さすが隠れなかりければ、この時、やがて探題英時の方へ聞こえてけり。
 英時、かれらが野心の実否〔じっぷ〕をよくよく伺ひ見んために、先づ、菊池入道寂阿を博多へぞ呼びける。菊池、この使ひに肝付いて、これはいかさま、この間の陰謀露顕して、われを討たんためにぞ呼び給ふらん、さらんに於ては、人に前〔さき〕をせられなば叶ふまじ、こなたより遮つて博多へ打ち寄せて、覿面〔てきめん〕に勝負を決せんと思ひければ、かねての約諾に任せて、大友がもとへ事の由をぞ触れたりける。
 大友は、天下の落居未だいかなるべしとも見定めざりければ、分明〔ふんみょう〕の返事に及ばず。少弐はまた、その比、京都の合戦に六波羅常に勝に乗る由を聞いて、己が咎を補はんとや思ひけん、日来〔ひごろ〕の約を変じて、菊池が使ひ八幡弥四郎宗安を討つて、その頸を探題の方へぞ出だしける。菊池入道、大きに怒つて、「日本一の不覚人どもを憑〔たの〕んで、この一大事を思ひ立ちけるこそ越度〔おちど〕なれ。よしよし、その人々の与力せぬ軍〔いくさ〕はせられぬか」とて、三月十三日の卯刻に、わづかに百五十騎にて、探題の館〔たち〕へぞ押し寄せける。
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いったん、ここで切ります。
『太平記』は菊池武時・大友貞宗・少弐貞経の間に討幕の密約が成立した後、大友・少弐が菊池を裏切ったとしますが、史実はどうだったのか。
この時期の信頼できる史料としては「博多日記」(東福寺僧良覚の日記。角川文庫『太平記(一)』巻末付録)がありますが、同記によれば三月二十日に後醍醐の「院宣」(綸旨)を持った「八幡弥四郎宗安」が鎮西探題の御所の陣内で当該「院宣」を大友貞宗に渡そうとして逮捕され、その際に「八幡弥四郎宗安」は「大友(貞宗)・筑州(少弐貞経)・菊池・平戸・日田・三窪、(に充てられた)以上六通」の「院宣」を「帯持」していたのだそうです。
『太平記』は「八幡弥四郎宗安」を「菊池が使ひ」としますが、この点は「博多日記」と齟齬があります。
まあ、菊池・大友・少弐間の密約が本当にあったのかもしれませんが、それは史料的には裏付けられず、三月十三日、菊池武時は単独で鎮西探題を攻撃し、敗北したということですね。

「大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d5dfc5df2b095e05c6da24a62ee1e33

なお、「こなたより遮つて博多へ打ち寄せて」とありますが、「遮」は尊氏から大友貞宗に送られた四月二十九日付書状に登場し、解釈の決め手となる表現でもありますね。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1dd5123eeb460e1b8701cd9cfe6b08a
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192
「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe5560701dd33e1fefa4d23a6ebf9f42

『太平記』に戻って続きです。(p182以下)

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 菊池入道、櫛田宮〔くしだのみや〕の前を打ち過ぎける時、軍の凶をや占〔しめ〕されけん、また乗り打ちにしたるをや御咎めありけん、菊池が乗つたる馬、俄かにすくみて、一足も前へ進まず。菊池入道、大きに怒つて、「いかなる神にてもおはせよ、寂阿が軍場〔いくさば〕へ向かはんずる道にて、乗り打ちを咎め給ふ様やある。その儀ならば、矢一つ進〔まいら〕せん。受けて御覧ぜよ」とて、上差〔うわざし〕の鏑〔かぶら〕を抜き出だし、神殿の扉を、二矢までこそ射たりけれ。放つとひとしく、馬のすくみ直りてければ、「さぞとよ」と、あざ笑うて打ち通る。後に社壇を見ければ、二丈ばかりなる大蛇〔おおくちなわ〕、菊池が鏑矢に当たつて死したりけるこそ不思議なれ。
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この部分、創作だろうとは思いますが、南北朝期の人々の宗教観、というか「宗教的空白」の拡がりを感じさせて、非常に面白いですね。
「あざ笑うて打ち通る」とあるように、「宗教的空白」は笑いとともに登場する点も興味深いところです。
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