学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その4)

2020-02-10 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 2月10日(月)10時01分0秒

深津睦夫氏の『光厳天皇』(ミネルヴァ書房、2014)には、前回投稿で引用した部分に続いて次のような記述があります。(p94)

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また、道長は末娘の寛子を小一条院の御匣殿とした。それに倣ったのであろう、後醍醐天皇は、この月、後京極院を母とする懽子内親王を光厳院の宮に入れた。後に宣政門院と称される人である。建武二年(一三三五)十一月と同四年十一月に工女を産んでいる。
 光厳院は、翌年(建武元年)正月二十九日には御幸始めを行うなどしており、一応太上天皇としての待遇は受けていたと推測される。
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三浦龍昭氏は「光厳への「太上天皇」尊号の授与、懽子内親王の入宮、そして珣子内親王の立后、これらは一連のものであり、すべて持明院統側への懐柔策であったと考えられないだろうか」と言われますが、前二者は確かに後醍醐の「持明院統への懐柔策」だと私も思います。
より正確には、小一条院の先例に倣った、自分がいかに寛大な帝王であるかを公家・武家にアピールするための、持明院統への恩着せがましい演出ですね。
しかし、珣子内親王の立后は性格が異なると私は考えます。
この点を検討する前に、三浦氏は「この問題を考える上で参考となりそうなのが遊義門院姈子の事例である」とされるので、遊義門院について少し考えてみたいと思います。
結論として、私は遊義門院の問題は珣子内親王の問題とは性格が異なり、従って全然参考にはならず、両者は独立独立に考察しなければならないと思っています。
さて、遊義門院とは何者かですが、鎌倉時代の歴史にそれなりに詳しい人でも、『とはずがたり』に関心がある人以外は、そもそも遊義門院の名前すら知らないのではないかと思います。
遊義門院については、去年、『増鏡』巻十「老いのなみ」の「北山准后九十賀」の場面を検討する際に少し纏めてみたのですが、その際に伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」(服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』所収、小学館、2002)を引用させてもらいました。
伴瀬論文は問題の所在が明確なので、改めて関連部分を引用します。(p144以下)

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四 二つの王家に愛された皇女─姈子内親王

 二つの皇統が相並ぶことになった両統迭立は、皇女たちの生涯にもさまざまな影を落とした。持明院統の後深草院の皇女として生れながら、大覚寺統である後宇多院の妃になるという数奇な運命をたどった姈子内親王は、まさに両統迭立のはざまにその生涯を送った皇女である。
 姈子内親王は、一二七〇年(文永七)九月一八日、後深草院御所の冷泉富小路殿で誕生した。母は東二条院藤原公子。後深草院の最初の妃であり、院がもっとも尊重していた妃である。その東二条院を母にもつ彼女は誕生の翌年にはやくも親王宣下を受け、養君として廷臣の家へ預けられる皇子女が少なくないなかで、院の御所に母とともに住まい、父母の手もとで成長した。
 後見が弱いゆえに日影の身として育てられたり、院や廷臣たちの漁色の対象となったりした皇女たちに比べれば、姈子はしあわせな少女時代をおくった皇女といえるかもしれない。
 そして姈子内親王が一六歳だった一二八五年(弘安八)八月、彼女は皇后となった。未婚の皇女のままの立后である。天皇と婚姻関係にない皇女が立后されるときの根拠は、ほとんどの場合は現天皇の「准母」であるが、彼女の場合、今上・後宇多天皇の准母として立后されたとは考えにくい。
 なぜなら、准母立后は、原則的に天皇即位にともなって、あるいは即位後二、三年のうちにおこなわれるのに対して、後宇多天皇は即位してすでに一二年めであった。また、准母とされるのはオバ・姉など天皇にもっとも近い尊属女性であるのに対して、姈子内親王は後宇多のイトコで、それも三歳年少なのである。もっとも、単に天皇の近親にあたる皇女を優遇する意味でも皇女が后に立てられることもあった。しかし、後深草院の娘である姈子は後宇多天皇にとっては近親どころか対立統の皇女であり、これにもあたるまい。

遊義門院再考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89f6135364af467d393614e15fd75662

ということで、当時、結婚の実体を伴わない立后の例としては「准母」という制度があったのですが、遊義門院にこれはあてはまりません。
続きです。(p145以下)

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 謎を解くためのかっこうの材料となるべき貴族の日記もこの日の前後は残っておらず、結局のところ、立后の理由といい、なぜこの時期におこなわれたのかという問題といい、諸説はあるが明確な答えを出すのは難しい。
 だが、一つ仮説を立てるとすれば─即位後一〇年以上もたっているという時期、そしてあえて対立統の皇女を皇后にしているということから考えて、大覚寺統の治世が長引くなかで不満をつのらせていたであろう持明院統に対する配慮(ないし懐柔策)としての意味があったのではなかろうか。
 一二九一年(正応四)八月、姈子内親王は遊義門院という院号を宣下され、女院となった。このころ二〇代の前半であった姈子は、あいかわらず父母のもとで暮らし、ともに寺社参詣などに出かける日々をおくっていたが、そのおだやかな生活に大きな転機が訪れたのは、九四年(永仁二)である。
 『増鏡』は次のように記す。
「皇后宮(姈子)もこの頃は遊義門院と申す。(後深草)法皇の御傍らにおはしましつるを、中院(後宇多院)、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせたまひて、いと忍びがたく思されければ、とかく謀〔たばか〕りて、盗み奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿(後宇多院御所)におはします。またなく思ひきこえさせ給へること限りなし」
 つまり、何かの機会にほの見た姈子内親王に恋心をつのらせた後宇多院が、彼女を盗み出して自分の御所に連れてきてしまったというのである。
 一二九四年(永仁二)の夏から翌年一月までのあいだに姈子内親王は父母の御所である冷泉富小路殿から後宇多院の御所へ居所を移し、さらに後宇多院と一つ車で外出するようになっており、この時期に姈子が後宇多院の妃になったことはまちがいない。かりにも女院を盗み出すとはおだやかでないが、この一件についても同時代の史料がなく、「盗み出した」ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fadd72cad3a95e02f94b4c3226bc95c

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