goo blog サービス終了のお知らせ 

かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

04.悪夢 その1

2008-03-15 21:51:37 | 麗夢小説『麗しき、夢』
 榊の寝所は、美衆邸でも比較的入り口に近い一間にある。何かあった時には真っ先に飛び出していけるように、奥の客間を勧める美衆にへ特に頼みこみ、しつらえてもらった部屋である。元々は十人ほどの家の子が起居する部屋だったと見えて、榊は何人かの下男達の冷たい視線を甘受せねばならなかった。まあ数日のこと故、と榊は腹の中で詫びたが、自分は招かれざる客であるという自覚は、榊をして帰郷の念を駆り立てずにはいられなかった。が、それはともかくとして、取りあえず明日からの山狩りをどうするか、が榊の抱えた課題である。どうせ八条大夫の起き出すのを待っていては仕事にはならない。榊としては、二度と炎天の日中に山へ登る愚を犯す気はなかった。出来るだけ早く、かなうことなら夜明け前に出立し、涼しい内に一方面片付けておきたい。榊は気の入らないこと甚だしかったが、だからといって手を抜く積もりはなかった。やるだけやって、後はどう大夫を説得するかだ。榊にとっては、八条のわがままをどう御するかのほうがよほど大きな問題なのである。榊はこうして色々考える内にも、昼間の疲れも手伝って、いつしか深い夢の最中に落ちていった。
 ・・・ああ、これは初陣のときだ・・・。夢の中、まるで外から芝居を見ているかように榊は十五になった自分を意識した。榊は新しくあつらえたばかりの鎧をまとい、生涯をともにすることになる大刀を、まだ持て余すように腰に差している。すると、もう亡くなって十年になるはずの父が、妙に若々しい顔を不機嫌そうにしかめ、榊の刀をぐいとねじって、少しでも見栄えのするように位置を直した。それを、これも若い母が心配げに、祖父はいかにも楽しそうに眺めている。周りを見ると、親族や郎党達が皆とりどりに榊家御曹司たる自分の凛々しさをたたえ、鎧に着られているような若者の初々しさを愛で楽しんでいた。榊自身は照れくささもあって、しゃちほこばったきまじめな顔でいる。が、それがまた人々には可愛らしくも見えるのであろう。絶えることのない笑いがさざめいて、若者の初陣を飾っていた。
 場面が変わった。篠つく雨が鎧を通して寒く、血と泥にまみれた顔だけが熱い。既に身は鉛のように重く、刀も持っているのがやっとでほとんど杖代わりになっていた。一緒に出撃した父や郎党達も乱戦の中で見失い、敵意に充ちた闇だけが、辺りを包んで榊を飲み込もうとしていた。これは、初陣の時だ、と何の脈絡もなく榊は感づいた。華々しい興奮に彩られた前半戦と苦々しい無力感に包まれた後半戦。その終末近く、意識もあやふやになりつつある中、ようやく出会った味方に救われる直前の姿。今、自分はその最中で闇を彷徨っている・・・。
 突如、鋭い殺気が背後に迫った。榊は咄嗟に振り返り、相手を確認する暇もなく刀を振るって今日何度目かの血煙を浴びた。もう、最初の洗礼ほどの恐怖も興奮も榊にはない。心の全てが過飽和し、神経回路を駆けめぐる悲鳴を絶縁しているのである。が、この心の安全装置が、今切り倒した相手の顔を前にして、一瞬にして吹き飛んだ。
「は、八条大夫?!」
 公家装束を自らの血で染め上げ、おしろいとお歯黒の代わりに赤く全てを塗りたてた八条雅房が、榊の足下に転がっていたのである。そのあらぬ方を見る光を失った目が、ぎょろりと向いて榊をにらんだ。
「榊殿ぉ・・・、まろを殺してなんとするぞ・・・。榊殿ぉ」
「う、うわあっ!」
 榊は振り返りもせずに逃げ出した。それを血塗れの八条が追いかけた。榊は死にもの狂いで逃げた。日常の榊からは想像もできぬ崩れようだが、夢の中、榊の心は少年のか細さに塗り込められている。一皮やせ我慢の皮をむいてしまえば、無防備な幼いもろさしか残っていないのだ。
 追いかける八条の姿が、次第に膨れ上がりつつ、凄まじい形相に変化した。常に不機嫌そうに結ばれたおちょぼ口が突如耳元まで裂けたかと思うと、ねずみを呑む蛇のように大きく開いた。狼のような長大な牙が夜目にも白々と光り、真っ赤な舌が、唾液を引きながらその歯を舐める。中の目玉がこぼれそうなほどに開かれた目が、血走った狂気の視線で榊を追いかける。榊は気が気ではなかった。ひたすら逃げようと気が逸るのに、まるで泥田の中を歩くように力が地面に伝わらないのだ。榊は、耳元に八条の息を感じて泣き出したいほどに恐れおののいた。どこまで続くとも知れぬ闇を駆ける絶望的な逃避行、いつ果てるとも知れぬ死の鬼ごっこに榊は遂に力尽きた。ひとしきり凄惨な笑いをけたたましく上げた八条の化け物は、へたり込む榊に、いつのまにか手にした刀を振り上げた。その鋭鋒を避けようと這いずった榊の右手が、ふいに感覚を失った。崖だ。どこまで落ちているのか知れぬ深淵が榊の行く手をさえぎった。もはや榊には、発狂への転落か、精神的な斬死しか残されていなかった。絶体絶命の榊に、無情にも八条の刀が落ちた。
 その瞬間、榊の鼻孔を得も言われぬかぐわしき香りがくすぐり、榊の正気を蘇らせた。閉じた目を恐る恐る開いた榊は、化け物の八条と自分との間に、金色に輝く香りの正体を見た。それは辺りを真っ白に染め上げるほどに輝きながら、まるでまぶしさを感じさせない優しい光に包まれていた。よく見ると、緑の黒髪を腰まで豊かに打ち広げた女性である。八条の化け物は、その光に阻まれて苦しげにのたうっていたが、やがて何事もなかったようにあっさりと消滅した。途端に榊は悪夢から解き放たれた安心と幸福感に包まれながら、夢も届かぬ深い眠りへと落ちていった・・・。
 榊ははっとしてとび起きた。今は退いた冷や汗に、夜具の湿りが冷たかった。が、榊が驚いたのは、夢に感じたあの香りが、まだ微かに部屋にたゆたっていたことだった。
(あれは、夢ではなかったのか?)
榊はなおもその香りを追いかけようと努力したが、もうそれは榊の鼻孔をくすぐる程も残ってはいなかった。榊は、言い様のない不思議な気持ちのまま、朝を迎えた。夢としか思えないが、本当に夢だけだったのだろうか? 榊は、暫くぼんやりと考え込んだが、やがて頭を振って考えるのを止めた。榊の下知を待つ百人の部下が、そろそろ起き出してくる頃である。老いてなお、とは行き難くなった身体を叱咤して、榊は障子を開け放った。途端にあふれこむ朝日の光が部屋を満たし、唐天竺まで続くかと思われるような晴天が、榊の心まで気持ちよい青に染めた。
(良し、今日はあの山だ)
今はまだあくびでもしているような柔らかささえ感じる朝日を拝みながら、榊は何気なく見えた向こうの山を、今日の目標に定めた。が、榊は、気づかなかった。今、自分の足下に潜み、やがて朝日を避けるようにして逃げて行く一つの影を。それは、墨のような真っ黒の衣装に身を包み、森の闇へと消えていった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 03.閉ざされた村 その3 | トップ | 05.襲撃 その1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

麗夢小説『麗しき、夢』」カテゴリの最新記事