電脳筆写『 心超臨界 』

人生の目的は目的のある人生を生きること
( ロバート・バーン )

日本が北方四島は日本の領土であるといってきた根拠をざっと述べておこう――上坂冬子さん

2024-08-04 | 04-歴史・文化・社会
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
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1905年に日露戦争に勝った日本は、ポーツマス条約によって先に千島列島と交換した樺太の南半分を日本領として取り戻した。以後、敗戦まで樺太の南半分とカムチャッカ半島から北海道に至る一つながりの島々は、すべて日本領となっていたのである。この経緯で明らかな通り、くどいようだが北方四島が日本以外の領有だったことは歴史的にみて一度もない。


『「北方領土」上陸記』
( 上坂冬子、文藝春秋 (2005/11/10)、p121 )

ついでながら、ここで日本が北方四島は日本の領土であるといってきた根拠をざっと述べておこう。

まず、1644年(正保元年)に松前藩から幕府に「正保御国絵図」が献上された。ここにはノサップ岬の東方に三十九の島々が描かれていてそのうち三十四の島には「くなしり」「えとろふ」など、現在の名前とほとんど同じ名前が記入されており(「私たちの北方領土」)、この地図はいまも所蔵されている。ロシアが千島列島に関して地図を作成したのはこれより百年ほど後のことだ。地図を先につくったから日本の領土といい切るのは無理があろう。しかし、地図献上から百年ほどたって松前藩は国後島に常設の交易の拠点を開設し、19世紀のはじめにはすでに択捉島を含む四島を実際に支配していた。1855年の日露通好条約で四島の北側に国境線が引かれたのは当然といえる。1875年に日本とロシアとの間で全樺太と全千島列島を交換したときにも、条約では北方四島より北の十八の島を日本領とするとしている。これは前提として、四島を無条件で日本領と認めていたからにほかならない。

1905年に日露戦争に勝った日本は、ポーツマス条約によって先に千島列島と交換した樺太の南半分を日本領として取り戻した。以後、敗戦まで樺太の南半分とカムチャッカ半島から北海道に至る一つながりの島々は、すべて日本領となっていたのである。この経緯で明らかな通り、くどいようだが北方四島が日本以外の領有だったことは歴史的にみて一度もない。
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