20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『選択的夫婦別姓は戸籍廃止を策した反日勢力の亡国法案です』【「水間条項」国益最前線ブログ】
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雲は、どこからか湧くように生じて、またいつの間にか流れていきます。新幹線で旅をして、富士山の麓(ふもと)を過ぎるとき、車窓から富士山にかかる雲を見ていると“白雲去来(はくうんきょらい=白雲が往き来する)”という詩句を思います。白雲に限らず、ときには黒雲が富士山全体を覆いますが、富士山にはどうということもありません。いつの間にか雲が去れば、またもとの霊峰富士の居ずまいが見えます。このように、執われのないさまを白雲去来という語で象徴します。
『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p266 )
8章 無罣礙(むけいげ)――とらわれるな
(1) 執着を断ち切る
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
いむしょとくこ ぼだいさつた えはんにゃはらみつたこ しんむけいげ むけいげこ むうくふ
◆“白雲は去来す”
そして本章は、これを受けて「無所得であるから菩提薩埵(と名づく)」と、つなげます。つまり、大空のように“心にかかる雲もなし”というのが、菩薩の心の趣(おもむ)きといったらいいでしょうか。
もっとも、心にかかる雲もなしといっても「空(くう)がない」というのではありません。かかる雲はあるが、あってもどうということもない、というのが「空」の思想の考え方です。そして、心にかかる雲もないのは「般若波羅蜜多に依(よ)るが故に(依般若波羅蜜多故)」と畳みこみます。格調高い玄奘三蔵の訳のすばらしいところです。
雲は、どこからか湧くように生じて、またいつの間にか流れていきます。新幹線で旅をして、富士山の麓(ふもと)を過ぎるとき、車窓から富士山にかかる雲を見ていると“白雲去来(はくうんきょらい=白雲が往き来する)”という詩句を思います。白雲に限らず、ときには黒雲が富士山全体を覆いますが、富士山にはどうということもありません。いつの間にか雲が去れば、またもとの霊峰富士の居ずまいが見えます。
このように、執われのないさまを白雲去来という語で象徴します。心経が、「心に罣礙(けいげ)なし(心無罣礙)」と言い切るところです。
罣礙の罣(けい)も礙(げ)も、ともに〈さえぎる・さまたげる〉いわば妨害の意味で、それから転じて、仏道の修行を邪魔する煩悩を「罣礙」といいます。
したがって「無罣礙」とは、高次の意味で「煩悩や妄想は、けっして絶無になるものではない、ちょうど雲が大空から消え去るときがないようなものだ。たとい一点の雲のない快晴に見えても、ふと山の端(は)にいつの間にか雲がかかるのに似ている。雲はどこからか来て、どこかへ去っていくように、煩悩も妄想も、ともに根なし草で心中に漂うて去来するだけだ……」ということができます。
罣礙(煩悩)の現象をよく見きわめるなら(この智慧が般若)、煩悩はあってもないのに等しいというのが「心に罣礙なし」ということです。
執われるものがないのなら、世の中に怖いものは何もないでしょう。すなわち「恐怖(くふ)あることなし(無有恐怖)」です。財物に執われると盗まれるのが怖いのです。愛に執われると愛を失うのが悲しいのです。
しかし、執着がないという点に執着すると、今度は血も涙もない非人間に落ちてしまいます。無執着にもおちいることなく大らかな心を持てば、そこにはじめて思いやりが生まれます。すると人の喜びや悲しみにも、義理ではなく芯から、ともに喜び悲しめる、本当の人間性が開発されてまいります。
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雲は、どこからか湧くように生じて、またいつの間にか流れていきます。新幹線で旅をして、富士山の麓(ふもと)を過ぎるとき、車窓から富士山にかかる雲を見ていると“白雲去来(はくうんきょらい=白雲が往き来する)”という詩句を思います。白雲に限らず、ときには黒雲が富士山全体を覆いますが、富士山にはどうということもありません。いつの間にか雲が去れば、またもとの霊峰富士の居ずまいが見えます。このように、執われのないさまを白雲去来という語で象徴します。
『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p266 )
8章 無罣礙(むけいげ)――とらわれるな
(1) 執着を断ち切る
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
いむしょとくこ ぼだいさつた えはんにゃはらみつたこ しんむけいげ むけいげこ むうくふ
◆“白雲は去来す”
そして本章は、これを受けて「無所得であるから菩提薩埵(と名づく)」と、つなげます。つまり、大空のように“心にかかる雲もなし”というのが、菩薩の心の趣(おもむ)きといったらいいでしょうか。
もっとも、心にかかる雲もなしといっても「空(くう)がない」というのではありません。かかる雲はあるが、あってもどうということもない、というのが「空」の思想の考え方です。そして、心にかかる雲もないのは「般若波羅蜜多に依(よ)るが故に(依般若波羅蜜多故)」と畳みこみます。格調高い玄奘三蔵の訳のすばらしいところです。
雲は、どこからか湧くように生じて、またいつの間にか流れていきます。新幹線で旅をして、富士山の麓(ふもと)を過ぎるとき、車窓から富士山にかかる雲を見ていると“白雲去来(はくうんきょらい=白雲が往き来する)”という詩句を思います。白雲に限らず、ときには黒雲が富士山全体を覆いますが、富士山にはどうということもありません。いつの間にか雲が去れば、またもとの霊峰富士の居ずまいが見えます。
このように、執われのないさまを白雲去来という語で象徴します。心経が、「心に罣礙(けいげ)なし(心無罣礙)」と言い切るところです。
罣礙の罣(けい)も礙(げ)も、ともに〈さえぎる・さまたげる〉いわば妨害の意味で、それから転じて、仏道の修行を邪魔する煩悩を「罣礙」といいます。
したがって「無罣礙」とは、高次の意味で「煩悩や妄想は、けっして絶無になるものではない、ちょうど雲が大空から消え去るときがないようなものだ。たとい一点の雲のない快晴に見えても、ふと山の端(は)にいつの間にか雲がかかるのに似ている。雲はどこからか来て、どこかへ去っていくように、煩悩も妄想も、ともに根なし草で心中に漂うて去来するだけだ……」ということができます。
罣礙(煩悩)の現象をよく見きわめるなら(この智慧が般若)、煩悩はあってもないのに等しいというのが「心に罣礙なし」ということです。
執われるものがないのなら、世の中に怖いものは何もないでしょう。すなわち「恐怖(くふ)あることなし(無有恐怖)」です。財物に執われると盗まれるのが怖いのです。愛に執われると愛を失うのが悲しいのです。
しかし、執着がないという点に執着すると、今度は血も涙もない非人間に落ちてしまいます。無執着にもおちいることなく大らかな心を持てば、そこにはじめて思いやりが生まれます。すると人の喜びや悲しみにも、義理ではなく芯から、ともに喜び悲しめる、本当の人間性が開発されてまいります。