電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスとしてではなく
一方が降伏するからである
D・パイプス

生きるための杖ことば 《 平常心是道――松原泰道 》

2024-08-24 | 03-自己・信念・努力
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
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■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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武道・華道・スポーツの道でもみな同じ。「うまく見せよう」などと自分に取りつくと、とかくあがったり、つまらないミスを犯すであろう。稽古や練習のときのように、本番でも無心に振る舞えるのが平常心是道である。この域に達するには、どの世界でも練習と稽古の積みあげによる、稽古の習慣化が大切だ。


◆平常心是道(びょうじょうしんこれどう)――南泉普願(なんせんふがん)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p98 )

9世紀末の中国唐代の禅の高僧として知られた趙州(じょうしゅう)がまだ修行中のころ、師の南泉和尚(なんせんおしょう)に「道(どう)とはなんでしょうか」と問う。そのとき南泉が趙州に答えた語が「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」である。

「「平常心(びょうじょうしん=へいじょうしん、とも読む)」の「平」は、平等・共通。「常」は、変わりのないコンスタント。「道」は真髄・真理の意味である。よって平常心とは、何ものにも動かされない、執着しない心をいう。この心が真理や真実そのものであるから、平常心是道との答えとなる。「道」というと、何か特別の存在や意味があるように考える必要はない。私たちの立ち居振る舞いに、身びいきや身勝手なエゴイズムの思いがないのが平常心。この平常心で行動するのが、そのまま真理の道であるからだ。

平常(びょうじょう)と平生(へいぜい)とは似ても非なるものである。平生は〈ふだん・そのまま〉だが、平常にはこのほかに「自然(じねん)」の意味を持つ。自然(じねん)と自然(しぜん)ともまた異なる。山川草木などのたたずまいに手を加えずにそのままにしておくのが自然(しぜん)であろう。

自然(じねん)は真理そのままにある状態をいう。真理のままに自然(しぜん)があるのを「自然法爾(じねんほうじ)」とも「法爾自然(ほうじじねん)」ともいう。天然自然そのままに真理が示されているということ。法然上人の名もここに由るという。リンゴが枝から下に落ちる自然そのままに宇宙引力が現われているのが、その一例だ。

リンゴは地に落ちるのを嫌って樹枝にしがみつくようなことはしない。熟して枝から離れるときがくれば、無心にポトリと落ちる。それが真理の道だ。執着心のないところに、おのずから人の踏むべき真理の道が開ける。

武道・華道・スポーツの道でもみな同じ。「うまく見せよう」などと自分に取りつくと、とかくあがったり、つまらないミスを犯すであろう。稽古や練習のときのように、本番でも無心に振る舞えるのが平常心是道である。この域に達するには、どの世界でも練習と稽古の積みあげによる、稽古の習慣化が大切だ。
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