電脳筆写『 心超臨界 』

真の発見の旅は新しい景色を求めることではなく
新しい視野を持つことにある
( マルセル・プルースト )

日本史 昭和編 《 「陸軍を抑(おさ)える自信はあるか」と問うた天皇——渡部昇一 》

2023-12-13 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■超拡散『安倍晋三総理の妄言』
■超拡散記事『ジャニーズ事務所等日本のタブーの芸能界や在日外国人の凶悪殺人事件を実名報道で斬り込むBBCへ情報提供』
■超拡散NEWSポストセブン記事『《壮観》三浦春馬さんの提灯が靖国神社「みたままつり」にズラリ並ぶ理由「毎年参拝」の意外な縁と今も続く「ファンの熱量」』
■超拡散記事『最高裁判事の「LGBT逆転判決」で反日極左の国家解体に加担』
超拡散宜しく《国益を守る論文20》■第149回『韓国国立博物館所蔵品等の文化財を護った日本の功績』【『日本製』普及Ch】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


陸軍の中央部が大臣を出さないということが明らかになると、宇垣は自分が陸軍大臣の頃に目をかけて軍務局長に登用した小磯国昭(くにあき)中将(大戦末期の首相)を朝鮮から呼ぼうとした。小磯はその時、朝鮮軍司令官であった。小磯は3月事件にも関与していたし、宇垣の頼みなら聞いてくれる可能性があると思われたのであろう。しかし、小磯は日露戦争に少尉として参加して以来、主として軍部官僚として来た人物で、ここ一番という時の発想の仕方にも官僚的なところがあった。小磯が宇垣に出した答えは「三長官が同意なら陸軍大臣になります」というのであった。


『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p108 )
1章 総理なき国家・大日本帝国の悲劇
――「昭和の悲劇」統帥(とうすい)権問題は、なぜ、起きたか
(3) 軍部が無能者集団と堕(だ)した真相

◆「陸軍を抑(おさ)える自信はあるか」と問うた天皇

広田内閣の犯した誤りは、その崩壊後に直ちに現われた。

この内閣を倒したのは明らかに陸軍である。陸軍を抑えることのできる人でなければ首相になれないことは明白であった。そこで、元老西園寺公望が後継内閣の首班として選んだのは宇垣一成(うがきかずしげ)であった。宇垣は加藤高明(たかあき)内閣の時に陸軍大臣として四個師団削減という空前絶後の陸軍の軍縮をやってみせた人である。陸軍内にそれに対する反感があったとしても、すでに12年も前のことであるから、もう大丈夫という感触が伝えられていた。ところが大丈夫でなかったのである。

宇垣は呼び出された昭和12年(1937)1月25日の夜中の1時40分、天皇陛下に拝謁した。

天皇陛下はこの時、御年(おんとし)36際の若さでいらっしゃったが、大正10年(1921)に摂政(せっしょう)になられてから、すでに15年以上経ち、日本の政治の上層部の問題については西園寺を別とすれば、誰より精通しておられたのである。在任期間の長い首相でも2年ぐらい、半歳ぐらいの首相もいたのに、ひとり天皇陛下だけは、高橋是清内閣以来、13代もの首相を任免するという体験をお持ちで、それぞれの内閣の総辞職の理由も、新内閣出現の理由もよくご存じであった。

それで、夜中に宇垣大将が参内(さんだい)して来た時、

「今度、新しい内閣を組織してもらいたいが、自信はどうか」

という趣旨の御下問(ごかもん)があったという。大命降下の際に相手に「陸軍を抑える自信はあるか」と尋ねられたことは、異例のことでもあり、まさにそれが問題の本質でもあったのである。

宇垣は即答せず、実情をよく調べたうえで、数日後にお答え申し上げることにして退出した。

ここでも問題になるのは、誰を陸軍大臣にするかである。かつて宇垣は、陸軍の王者の感があった。しかし、宇垣は昭和6年(1931)の3月、浜口内閣の末期に橋本欣五郎(きんごろう)らの青年将校や大川周明(しゅうめい)らの右翼が計画した3月事件に担(かつ)がれかかったことがあった。これは未発で終わったが、それは宇垣の変心のためだということが、関係者の間では信じられていた。

真相は不明の部分が多いが、宇垣は翌月に陸軍大臣を辞任、同年6月朝鮮総督になり予備役に入った。それから約5年あまりその職にあって、2・26事件の約半年後に日本に帰ってきたのである。

現役と予備役の差があるうえに、陸軍部内の5年間の人事の交替は激しいものがあって、すでに宇垣が影響力を揮(ふる)うことのできる工合(ぐあい)ではなかった。特に陸軍省の局長・課長級の将校や、参謀本部の石原莞爾らが宇垣に反対した。

満州国誕生で国民的英雄になり、かつ2・26事件では叛乱軍断乎討伐方針で陸軍部内で威信を高めた石原莞爾が、宇垣組閣反対の議論を引っぱって行った。そして今や、陸軍が現役の将官を大臣として出さなければ内閣は成立しないのだ。もし、これが1年前、否(いな)、8ヵ月前であったならば、まだ陸・海軍の大臣は現役将官でなくてもよかったから、宇垣が陸相を兼任しえたであろう。

宇垣は陸軍の中でも稀に見る剛愎(ごうふく)な人であったから、「陸軍が大臣を出さないなら俺がなってやる」と言ったかもしれぬ。しかし、彼は朝鮮総督になった時、予備役になり、もう現役の大将ではなかったのである。

だが、宇垣は簡単にはあきらめなかった。当時憲兵司令官だった中島今朝吾(けさご)(後の、いわゆる南京大虐殺事件の責任者であったという説もある)が、宮中に参内する宇垣の車を途中で停めて、陸軍の若い連中が反対している事情を述べて組閣を断念するよう勧めた時も、宇垣は暗殺を少しも恐れてないことを示した。2・26事件のような軍隊の反乱のおそれはないことだけ確かめると(中島は憲兵司令官という立場上、叛乱軍のおそれがあるなどとはいえなかったのであろう)、中島の忠告に感謝して、そのまま宮中に向かったという。

陸軍の中央部が大臣を出さないということが明らかになると、宇垣は自分が陸軍大臣の頃に目をかけて軍務局長に登用した小磯国昭(くにあき)中将(大戦末期の首相)を朝鮮から呼ぼうとした。小磯はその時、朝鮮軍司令官であった。小磯は3月事件にも関与していたし、宇垣の頼みなら聞いてくれる可能性があると思われたのであろう。しかし、小磯は日露戦争に少尉として参加して以来、主として軍部官僚として来た人物で、ここ一番という時の発想の仕方にも官僚的なところがあった。

小磯が宇垣に出した答えは「三長官が同意なら陸軍大臣になります」というのであった。三長官というのは参謀総長、教育総監、陸軍大臣のことである。陸軍大臣を出すのに三長官の同意が要るという慣習(内規)ができたのも、かつては宇垣がらみの話であった。

大正13年(1924)、清浦圭吾(きようらけいご)内閣が出来る時、陸軍大臣をめぐって長州閥の田中義一と九州閥(ただし薩摩は除く)の上原勇作の間に衝突があった。田中は宇垣一成を推し、上原は福田雅太郎(まさたろう)を推して、互いに譲らなかった。

この時、清浦内閣の前の山本権兵衛内閣の陸相であった田中は、陸軍士官学校の同期生として長州閥を作っていた大庭二郎教育総監(長州藩)と河合操(みさお)参謀総長(豊後杵築(ぶんごきづき)藩)と話し合って、前陸相・総長・総監の陸軍三長官がこぞって宇垣を推して、清浦内閣の陸軍大臣にすることに成功したのである。

三長官一致の推薦で陸軍大臣を決めるというのは、こうした陸軍内部の派閥争いの結果できたものであって、内規といっても不文律であり、いかなる法的根拠も有しないしろものである。

この真相は当事者の一人である宇垣はよく知っていた。だから、現役の陸軍中将である小磯国昭へ陸相就任を頼んだのである。しかし、小磯は「三長官が同意しているならなります」という官僚的答弁だったから、宇垣は怒りもし、失望もした。三長官同意の候補者があるぐらいなら、わざわざ朝鮮の軍司令官に頼みはしない。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« さびついてしまうよりボロボ... | トップ | マスメディアはスポンサーと... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事