電脳筆写『 心超臨界 』

良い話し手になるゆいつの法則がある
それは聞くことを身につけること
( クリストファー・モーレー )

人間通 《 正書法――谷沢永一 》

2024-07-11 | 05-真相・背景・経緯
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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現代の我が国民は一行書くにも辞書と首っ引きで、ひたすら誤(あやま)たざらんことを怖れている。辞書の統制に戦(おのの)いている。正書法という権威に叩頭(こうとう)している。しかし言語は時々刻々に動き変わってゆく活發(かっぱつ)な生き物なのだ。それを或(あ)る時点で固定的に写しとった瞬間(スナップ)写真が辞書である。ゆえに辞書は刊行した途端に改訂作業を始めねばならぬ。それほど過渡的な産物である辞書に服従するのは卑屈である。


◆正書法

『人間通』
( 谷沢永一、新潮社 (2002/05)、p91 )

言葉は他人に意味を伝えるための手段である。相手に理解されたら用は済む。文字と書法は多種多様であり、言い方と書き方にはいくらでも変化が生まれる。殊(こと)に漢字は同義語の宝庫であるから異なる表現を駆使できる。平安朝の昔から仮名遣いと送り仮名は、表記の文字面(もじづら)を整える美感を旨(むね)とし、その時の気分で如何様(いかよう)にも使いわけてきた。書道を学ぶ者の常識である。時に正式な語法を定めようと努める御節介も現われたが、決定版と目される動かしがたい範例を作り得た者はいない。しかるに戦後の我が国では日本語の表記方法を一律に決定しようという動きが生まれた。この世に正書法なるものがありうると言う幻想である。それなら滑稽(こっけい)だけれど国定正書法の一覧表を発布すればよいのだが、さすがにそこまで突進するのは躊(ためら)われる。そこで何種類かの辞書を選び、それを基準とすべきであると勝手に決める。どんな辞書だって何人かの寄合いが間に合わせに作った試作品であるという実態が忘れられている。

現代の我が国民は一行書くにも辞書と首っ引きで、ひたすら誤(あやま)たざらんことを怖れている。辞書の統制に戦(おのの)いている。正書法という権威に叩頭(こうとう)している。しかし言語は時々刻々に動き変わってゆく活發(かっぱつ)な生き物なのだ。それを或(あ)る時点で固定的に写しとった瞬間(スナップ)写真が辞書である。ゆえに辞書は刊行した途端に改訂作業を始めねばならぬ。それほど過渡的な産物である辞書に服従するのは卑屈である。文章は意味が通じさえすればよいのだ。どうでもよい送り仮名に戦々恐々と拘泥(こうでい)するのは弱気な神経の浪費にすぎない。
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