電脳筆写『 心超臨界 』

才能ある者はだれも射ることのできない的を射抜く
天才はだれにも見えない的を射抜く
( ショーペンハウアー )

真理のひびき 《 安定打坐法は正当なる思慮と断定とを生み出す――中村天風 》

2024-09-08 | 03-自己・信念・努力
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[箴言九]

安定打坐法は正当なる思慮と断定とを生み出す
絶対的密法であるから其心して践行に努力すべし
As the “ANJO-DAZA-HO” is the absolute and esoteric means to
draw a right consideration, you must make efforts to practice it for
such a purpose, on every occasion.


『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p84 )

われらの天風会が、的確にかつ急速に心身の改造を現実にするべく、われらの人生教養とする心身統一法の要点をきわめて短時日の間に会得させることを目的として、毎年夏期に本部および各支部において必ず開催する夏期修練会の必須的行修課目として、参加会員一同に実修践行させる安定打坐法(あんじょうだざほう=別名天風式坐禅法)が、この箴言表示の通り、正当なる思慮と断定とを生み出す絶対的な密法であることは、一度でも修練会に参加した会員は一様に、きわめて現実に、しかも簡単にその妙諦を味得して充分にその真価を認識され、修練会で収受された各種の貴重な価値高い効果ある方法の中でも、真理瞑想行から享受する真悟の妙諦と、この安定打坐法の実際効果が、特に特に出色した顕著なものがあると心から礼賛されるのは、毎度修練会の納会の際のいい合わしたような感謝の辞で感得される尊い事実である。

したがってこの理由は、安定打坐法という密法が即座に妄想念を制御静止して立ちどころに心鏡を払拭することによって、世人の多くが容易にできがたいと思い込んでいる無念無想=最高心境=三昧境(さんまいきょう)=Samadhiにきわめて簡単容易に到入することができるからである。

いいかえれば、われわれの心境が無念無想という最高心境に到入すると、科学的にいえば宇宙創造の根本要素=PC・H(プランク常数H)と人間の生命とが融合一体化するからで、これをさらに哲学的に表現すれば、神人冥合(しんじんめいごう)の現実化が具顕して、神=大自然のもつ叡智(えいち)が無条件にその心の中に流入するからである。すなわちかのヘーゲルのいった、宇宙に偏在する妥当性という目に視えない、しかも絶対的に貴重なる実在と、完全に心が合一状態になるがためである(このことに関してのもっと詳しい学術的説明は、修練会に参加した人々に領布した『安定打坐考妙』という天風の著書をもう一度熟読して思い起こすがよい)。

ところが安定打坐密法が顕著な現実的効果のあることを修練会で知得した人の中で、修練会が終わった後も、修練会期に実行したときのような情熱を燃やして常にこれを励行し、人生に甚大な効果と幸福を実際的に享受している人ももちろん多数おられるが、ときにたまたまこれを心ならずも怠るともなく怠る人がいるのをわずかな数であるが見聞することがある。

天風が新箴言の第九項にこの箴言を作為したのも、やはりそうした遺憾な人がときどきいるためにほかならない。

要するに、その種の人々は、宝の山に入りながら手を空しくして帰る人と同様だといってよいと思う。

であるから、万一この記述を読んで、ハッと自己の心に強い反省を感じることがあったら、その刹那(せつな)から初心に還ったつもりになって、あらためて情熱をかきたてて践行に努力されるがよい。

現に往年、禅家の名僧で活き仏とまでいわれた一代の善知識、石川素童(いしかわそどう)師が、東郷元帥や杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)先輩等とともども、初期時代の修練会に参加され、この密法を践行された際、感慨深くいわれた言葉を特に皆さんの行修に対する貴重な拠(よ)りどころとして書き添えることとする。

禅師はこういわれた。「こんな訳なく接心のできる近道のあることも知らず、何と何と、永い永い間、深山幽谷(しんざんゆうこく)の中や険しい山坂を苦しい思いをして歩いていたと同じ苦行で行修して、さてさて接心把握の至難のことよとつくづく坐禅行の味得徹底の難しさを痛感していたものであった。“どの道を行くも一つの花野かな”ではあるが……しかしこのたびこの優れた真理を授かりしこと、何ともいえぬ仏恩でした……しかしこの密法は、一般の苦行僧には、容易に授戒(じゅかい)すべきでないと思うというのは、こんな安易な方法で簡単に接心せしめると、宗教の真諦(しんてい)を往々蔑ろにする者ができるおそれがあるゆえ云々(うんぬん)」と。

たしかに禅師のこの言葉はそれが僧門の人であろうと、普通の人間であろうと、まことに貴重な反省を与えられた誡語であると思う。要は私が常々口ぐせのようにいっている“lightly come, lightly gone.”(得やすければ失いやすし)を厳戒された一大偈辞(げじ)だからである。

多くいうまでもなく、反省は価値ある更生への動機となる。

なお、厳かに内省検討してみよう!

今自分は、日々の人生生活の際、しばしば与えられるであろう「接心」(無念無想への一貫道程)への貴重な機会を、安定打坐の践行をおろそかにすることによってあたら逃していやしないか……それがあまりにも安易な方法であるだけに……。

そして万一そうであったならば、もっともっと生命存在の瞬間瞬間を重大視して、常によりもっと活きがいのある人生を作為することに心を真剣にふり向けることに心から努力しようと厳かに反省するがよい。古歌に、

「今いまと今という間に今ぞなく、今という間に今ぞ過ぎ行く」

というのがある。

まことに虔(つつまし)やかに心すべきことである。
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