電脳筆写『 心超臨界 』

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D・パイプス

日本史 鎌倉編 《 源氏の亡び方には「美しさ」がない――渡部昇一 》

2024-09-20 | 04-歴史・文化・社会
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『平家物語』は、平家一族が興隆し、やがて西海(さいかい)に沈むまでの平家史である。どこを採っても美しいのだが、特に没落にさしかかってからの美しさは、文字どおり落日の美である。一ノ谷、屋島、壇の浦の諸合戦は、義経の登場もあって、ひとしお華麗であって、絵巻物になる。ところが勝ったほうの源氏には、これに匹敵する物語があるであろうか。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p22 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(1) 「善政」は万能ならず――北条一門の破滅

◆源氏の亡(ほろ)び方には「美しさ」がない

『平家物語』という一種の戦記文学がある。歴史としても重要であるし、文学としても最高のものの一つである。

私はドナルド・キーン氏が文学としての『平家物語』を絶賛するのを聞いて、その評価の仕方が的確なのに舌を捲(ま)いたことがある。

誰でも知っている書き出しの名文――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす――から始まって、ほとんどどこを採っても暗誦するに足る、といってもよい。

その昔、高山樗牛(ちょぎゅう)は暇さえあれば、木の下にすわって『平家物語』を暗誦していたという。そして一学生のときに、読売新聞の懸賞に応じて『滝口入道(たきぐちにゅうどう)』を3週間で書き上げ、見事、一等に入賞し、その後、32歳で死ぬまで、日本の論壇に文字どおり君臨したのであった。

その『滝口入道』も、

「やがて来(こ)ん、寿永(じゅえい)の秋の哀れ、治承(じしょう)の春の楽しみに知る由もなく……」

といった名文で、平家滅亡の一齣(ひとこま)を見事に書きあらわしている。

樗牛は、のちに歴史評論の中で、平清盛の評伝を書くが、これもまたすばらしい名文で、中学の国語の時間に、朗読の上手な菅原五八(すがわらごはち)先生がその書き出しの部分を読んでくださったときの恍惚感の記憶は、その後30年近く経ってもまだ残っていて、今でも時々は、樗牛全集の第三巻を取り出すのである。

ところがたまたま、うちの中学生が一所懸命に暗誦しているので、何だろうと思ったら、教科書にある平家の一節だった。なるほど『平家物語』は古典だな、と思った次第である。

もちろん『平家物語』は、平家一族が興隆し、やがて西海(さいかい)に沈むまでの平家史である。どこを採っても美しいのだが、特に没落にさしかかってからの美しさは、文字どおり落日の美である。一ノ谷、屋島、壇の浦の諸合戦は、義経の登場もあって、ひとしお華麗であって、絵巻物になる。ところが勝ったほうの源氏には、これに匹敵する物語があるであろうか。

源氏は源氏でも『源氏物語』は、紫式部が書いた平安貴族の生活を種にしたロマンであって、源氏と平家にはまったく関係がない。

『源平盛衰記』もあるが、これは『平家物語』をさまざまな資料や記録で増補したものであって、『平家物語』の異本の一つと言っても差支えないのである。したがって内容も『平家物語』とほぼ同じであり、『源平盛衰記』とは言うけれども、源氏の興隆は書いてあっても、源氏の衰亡については触れるところがない。内容に即していえば、それは『平家盛衰記』なのである。

平家があれほど美しく亡びたのに、源氏の亡び方には、まったく絵巻物的な美しさがない。そこには陰惨な権力闘争と粛清があるのみである。

建武の中興(1334年)まで鎌倉幕府の将軍は九代あるのだが、たいていの人は、将軍は三代の実朝(さねとも)で終わったぐらいに思っている。まことに将軍の影が薄いのである。私はここに、清盛と頼朝の性格の差を見るような気がするのだ。
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