電脳筆写『 心超臨界 』

幸せは外部の条件によって左右されるものではない
自分の心の持ちようによって決まるのである
( デール・カーネギー )

セレンディビティの予感 《 神道の真髄――ラフカディオ・ハーン 》

2024-09-03 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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  セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、
  予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探して
  いるものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、
  ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
  [ ウィキペディア ]


神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城(がじょう)でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕らえることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。実際に優秀な学者であれ、神道とは何たるかを、解きあかすことはできなかった。


◆神道の真髄

『新編 日本の面影』
( ラフカディオ・ハーン、角川書店 (2000/9/18)、p152 )

私たちは、再び霧と伝説の聖なる土地の静寂の中を旅してゆく。お守りの白羽の矢が点在する、実り豊かな稲田の間を、神々の名をもつ青と緑の峰々に囲まれながら、道を縫うようにして進む。杵築(きづき)はもうすっかり背後に姿を消してしまった。それでも、まだ夢の中にでもいるかのように、広大な参道、太い注連縄(しめなわ)の掛かった長い鳥居、威風堂々とした宮司の尊顔、佐々神官の優しい微笑、純白の装束をまとい、美しい幻のような巫女舞いを披露してくれた巫女たちの姿が、瞼に浮かんでくる。そして、耳にはまだ、流れ落ちる滝のような柏手(かしわで)の音が木霊(こだま)している。

それに、これまで外国人の目には一度も触れることのできなかった日本最古の本殿の内部、人類学者や進化論者の研究に大いに役立ちそうな、日本最古の神社の内部や興味深い原始宗教の聖なる器物や神事を、私だけが許されて拝観できたのだと思うと、胸の高まりを抑えることができない。

それにしても、杵築を拝観できたということは、ただ立派な神社を見学した以上の意義があった。杵築を見るということは、今も息づく中心地を見ることであり、19世紀になった今日でも、脈々と打ち続けている古代信仰の脈拍を肌身で感じ取ることである。神道の計り知れない悠久の歴史を考えれば、『古事記』などは、現代の言葉からはほど遠い古語で書かれているとはいえ、ごく最近の出来事の記録集にしかすぎないであろう。仏教は、何世紀もの時の流れに姿を変えつつ、あるいは徐々に衰退しつつ、ついには、元々、外来宗教として伝来してきたこの日本から、姿を消す運命にあるのではないかと思われる。

その一方で、神道は変わることなく、その勢いも衰えず、もともと誕生したこの国で、今なお優勢を誇り、時とともに、さらに力と威厳とを増してゆくかに思われる。仏教には、膨大な教理と深遠な哲学があり、海のように広大な文学がある。神道には、哲学もなければ、道徳律も、抽象理論もない。ところが、あまりにも実体がないことで、ほかの東洋の信仰ではありえなかったことであるが、西洋の宗教の侵入に抵抗することができたのである。

神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城(がじょう)でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕らえることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。実際に優秀な学者であれ、神道とは何たるかを、解きあかすことはできなかった。

神道を単なる先祖崇拝だとする者もいれば、それに自然崇拝が結びついたものだとする者もいる。神道とは、およそ宗教とは定義できないとか、無知な宣教師たちには、最悪の邪教だとか言われたりもした。神道を解明するのが難しいのは、つまるところ、西洋における東洋研究者が、その拠(よ)り所を文献にのみ頼るからである。つまり、神道の歴史を著した書物や『古事記』『日本書紀』、あるいは「祝詞(のりと)」、あるいは偉大な国学者である本居や平田の注釈本などに依拠しすぎたせいである。ところが、神道の真髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。

風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直観も、それと共にあるのである。したがって、神道をわかろうというのなら、その日本人の奥底に潜むその魂をこそ学ばなければならない。なにしろ日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。

自然や人生を楽しく謳歌するという点でいえば、日本人の魂は、不思議と古代ギリシャ人の精神によく似ていると思う。それは、誰しも認めることではないだろうか。私は、そんな日本人の魂を多少なりとも理解できればと思う。と同時に私は、いつの日か、古くは「神の道」と呼ばれたこの古代信仰の、今なお生きているその偉大な力について、語れる日が訪れることを信じてやまないのである。
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