電脳筆写『 心超臨界 』

何もかもが逆境に思えるとき思い出すがいい
飛行機は順風ではなく逆風に向かって離陸することを
ヘンリー・フォード

アルチュール・ランボーが詩を捨てたというのは本当か――木田元さん

2008-10-22 | 03-自己・信念・努力
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砂漠を行くランボー――哲学者・木田元
【「あすへの話題」08.10.20日経新聞(夕刊)】

今日は、私の好きなフランスの詩人アルチュール・ランボーの誕生日だ。こんなに烈しく生きた詩人もほかにいない。

彼は16歳の秋に、長篇詩『酩酊船(よいどれぶね)』を携えてパリに出奔し、詩人のヴェルレーヌに認められ、おまけに愛されて、二人で放浪の旅に出る。2年後にブリュッセルで、別れようとするランボーをヴェルレーヌがピストルで撃ち、二人の旅は終わる。

その後のランボーは、文学に革命を惹き起こす2冊の詩集『地獄の季節』と『イリュミナシオン』を残し、20歳で詩と母国を捨てる。しばらくジャワやキプロスをさすらったあと彼は、アラビアのアデンとエチオピアのハラルを拠点に、コーヒーや象牙や武器を扱う商人として、ひたすら砂漠を歩きつづけた。

そして、砂漠に入って11年後、骨肉種を患ったランボーは、マルセイユに帰って右脚を切断し、半年後妹に見とられながら、37歳の生涯を閉じた。残されたのは、「砂漠のように無味乾燥な」商用書簡だけ――と、私たちは教えられてきた。

あまりにも荒涼としたその後半生に思わず息をのんでいたが、10年近く前にフランス文学者の鈴村和成さんが『ランボー、砂漠を行く』(岩波書店)で、この「アフリカ書簡」を解読し、そこにまったく新しい光を当ててみせてくれた。

ランボーが詩を捨てたというのは本当か。無味乾燥と言われるその書簡は、イメージの虚飾を洗い落して、「裸の眼に映ったもの」だけを伝えようとする新しい詩ではないのか、と鈴村さんは問いかけるのだ。

それを聞いて、砂漠を行くランボーにも、幾分表情や肌のぬくもりが甦(よみがえ)ってくるように思われ、とても救われる気がした。

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