電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

身体機能のすべてのはたらきは心が司(つかさど)っている――アルボムッレ・スマナサーラ

2011-03-24 | 03-自己・信念・努力
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『人生を100%活かす』
【 アルボムッレ・スマナサーラ、サンマーク出版 (2000/05)、p202 】

これまで人間の幸福はすべて心のはたらきであり、自分の意のままにならない刺激を喜ぶ心のわがままからどう抜け出すかという点に、幸福を得るポイントがあるという話をしてきました。

では最後に、その心の奴隷である自分からどう抜け出し、心をどう育てていけばいいのかという仏教の核心部分の話をしたいと思うのですが、その前にまず我々は心という存在をどこまで把握し、どう認識しているのかを確認しておかなければなりません。

心とは、いったい何でしょう? 私たちは生きている毎日のなかで、さまざまな現象、さまざまな事柄に出会い、それらをそれぞれに認識しています。何かを考える、何かを感じる、何かを知る、それらを総合して生きているという実感を得ているのですが、ではこの生きているという実感は果たしてどの部分で認識しているのでしょうか。

我々の体には目で見、耳で聞き、鼻で臭いをかぎ、舌で味わい、皮膚で感触を得る、五感という感覚器官があり、そこで得た外界の事象を心で認識します。また「考える、喜ぶ、悩む」などというのも心のはたらきです。心にはこの六つのはたらき(目・耳・鼻・舌・身・意)があるのです。

ここで強調しておきたいのは、さまざまな宗教や我々の概念でとらえられる、いわゆる心とは魂とか霊魂というものを象徴するような存在ではないという点であり、この厳然たる事実を知っておくことです。例えば果物(くだもの)にはリンゴとかミカン、バナナという名前がありますが、果物という名前のものがあるわけではないのです。それと同様のことが心にもいえるのです。心というものがあるわけではないのです。我々はその心に伝達された五つの感覚や感情、思考のはたらきを統合して認識し、「生きている」という実感を得ているのです。ですからこの心による認識作用がなければ、我々は「生きている」とはいえないことになります。

「心とは、認識そのものである」というべきでしょう。心にさまざまな現象を伝達するのは身体の諸器官ですが、心なくして身体はその諸器官を機能させることができません。ということは、身体を構成する何兆という細胞のすべてに心という機能が作用している、いい換えれば身体機能のすべてのはたらきは心が司(つかさど)っているといえるでしょう。

生きているとはどういうことかと聞かれたら、皆さんはどう答えますか。この定義の難しかった概念も、こうして考えてみると単に心と名づけられた部位のはたらきであるという事実が明確になってきます。

ところで、心はそれ自身の作用によって活発にもなり、弱くなったりもします。また、汚れたり清らかになったりするものです。「弱い」と決めれば弱くなり、「強い」と決めれば実に強くなっていくという、そういう性質があります。汚れの心は悪い思考によってどんどん汚れ、清らかな心はよい思考によってこれもまたどんどん育っていくのです。

こう考えると、心というものはそのはたらきが非常に自由で柔軟性に富んでいるといえるのではないでしょうか。ところが一見、自由に見えるこの心のはたらきは、実は人間の過去の思考や体験、それから身体の環境や状態という二つの条件によってその自由を制御されているのです。

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