映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

のだめカンタービレ(後編)

2010年06月13日 | 邦画(10年)
 遅ればせながら『のだめカンタービレ 最終楽章 後篇』を、渋谷の渋東シネタワーで見てきました。
 勿論、本年1月にその『前篇』を見たからですが、それもかなり面白かったがために、今回作品も期待を込めてぜひ見てみようと思っていました。

(1)実際に見たところも、マズマズの出来栄えではないかと思いました。
 ところが、映画評論家の 前田有一氏は、「内容が薄すぎやしないか。123分の堂々長編だが、ストーリーも堂々巡り」、「どう見ても上映時間を埋めるためだけに作ったような、お定まりの恋の障害エピソードで、新味もなにもありゃしない」、「この後編で主人公二人がやっていることには、ドラマ1話分程度のボリュームしか感じない」、「これでは後編を20分に縮めて、前編にくっつけて1本にしたほうがよかったのではないかと、嫌味のひとつもいわれよう」と、この映画について言葉を尽くして酷評しています。

 ですが、前田氏が、「ドラマ1話分程度のボリュームしか感じない」とか、「後編を20分に縮めて、前編にくっつけて1本にしたほうがよかったのではないか」と言っているところからすると、この映画の大切な登場主体であるブラームス作曲の「ヴァイオリン協奏曲」とか、ラヴェル作曲及びショパン作曲の「ピアノ協奏曲」の演奏をまるで無視してしまっていることがよくわかります。
 そりゃあソーでしょう。これらの演奏を今回の映画の中から全部外してしまったら、「ドラマ1話分程度のボリューム」でしょうし、せいぜいのところで「20分」程度のシロモノになってしまうことは必至でしょう。

 しかしながら、私には、この映画の価値は、こうした曲の演奏をたっぷりと聞けたからこそのものではないかと思えて仕方がありません。
 特に、ラヴェルのピアノ協奏曲はクマネズミは初めて聴く曲で、この曲を、しかもたっぷりと聴けただけでも大きな収穫でした!
 それに、前日の記事で取り上げた『オーケストラ!』でも、ラストの12分のチャイコフスキーヴァイオリン協奏曲の演奏が、主役並みの位置づけを与えられていたではありませんか!
 なぜ、前田氏は、この映画を見て、登場人物の恋愛劇の方だけしか関心を払わないのか、音楽映画を見て、どうしてタップリと描かれている演奏場面のことを外してしまうのか、その理由がドーモよくわかりません。

 それに、もう一方の登場主体である「のだめ」と「千秋」は、前編と同様、扮している上野樹里玉木宏の熱演によって大層うまく仕上げられていて、ラストのセーヌ川に架かる橋の上での抱擁シーンまで間然とするところがなく、全体としてこの映画を随分と見ごたえのあるものにしていると思いました。

(2)ただ、この映画にも問題を感じないわけではありません。
 「のだめ」が、シュトレーゼマンの指揮の下で、ショパンの「ピアノ協奏曲第1番ホ短調」を演奏しますが、その冒頭に「千秋」の声で、「この曲は、音楽家としての飛躍のためウィーンに発つショパンが、故郷ワルシャワで開いた告別演奏会で自ら弾いた協奏曲で、故郷を発とうとするショパンがこの曲に込めた気概を感じる」とか、「ロマン的な静穏の中に、楽しい無数の追憶を感じさせる」などといった解説が入ります(これはおおよその感じで、映画で言われた内容から離れているかもしれません)。
 ラヴェルのピアノ協奏曲とか他の曲が映画で演奏される場合にも、似たり寄ったりの解説がつきます。
 むろん、そうした解説が間違っているわけではありません。むしろ、そうした導入的な解説がなされた方が、クラシックの曲の受入れが容易になるかもしれません。
 ただ、その曲自体をそのまま受け入れて先入観なしに味わおうとしている者にとっては、なくもがなの解説と言えるかもしれません。知った風な解説なしに、余計な知識なしに、黙って音楽が演奏される方が、音楽自体を十分に味わえるのではないかとも思われます(注)。

 ただ、京大准教授・岡田暁生氏の『音楽の聴き方』(中公新書、2009)では、次のように述べられています。
 「ドイツ・ロマン派によって音楽が一種の宗教体験にまで高められていくとともに、音楽における「沈黙」がどんどん聖化されていく。批評もまた、言葉の無力を雄弁に言い立てるというレトリックでもって、黙する聴衆の形成に加担する」のであって、「「音楽は語れない……」のレトリックには、多分に19世紀イデオロギー的な側面があった」。
 だがそうではなく、むしろ、「音楽は言語を超えていると同時に、徹頭徹尾、言語的な営為」なのであって、「音楽の少なからぬ部分は語ることが可能」なのである〔同書P.56~P.58〕。

 そうであれば、音楽を前にして語るべきか語らないでいるべきか、ではなくて、何をどのように語るべきなのかが問題となるのでしょう。

(注)似たようなことは、5月に「三岸節子展」を見た際にも思ってしまいました。

(3)映画評論家たちは、総じて大層辛目の評価をしているようです。
 冒頭で述べたように、前田有一氏はこの映画を“ダメダメ”として、わずか20点しか付けていません。
 福本次郎氏も、「音楽家を目指す若者の苦悩と葛藤も少しは描かれる。ところがその本質は「クラシックやってます」的な浅薄な選民意識に酔ってお祭り騒ぎを繰り返しているだけ。そこには音楽に対して真摯に向き合う姿勢は微塵もなく、ただ出演者とスタッフがバラエティ番組のノリではしゃいでいるとしか思えない」として30点です。
 さらに、渡まち子氏までも、「相変わらずのメンバーと相変わらずの展開で、安心感満載…と言えば聞こえはいいが、物語に新鮮味はまったくない」、「この後編のウリはいったい何なのか? と首をかしげたくなる」、「しかも本作にはコミカルな要素はほとんどなく、シリアス一点張りだ。本気モードは、本物の音楽があれば十分なのに。ついに実現した二人の“共演”は、グランドフィナーレにはあまりにも地味すぎやしないか。このために前・後編という長い時間を費やしてきたのかと思うと力が抜けた」として30点しか与えていません。

 クマネズミには、こうした論評は、映画で演奏されている音楽から感じられる楽しさを無視しているとしか思えないのですが。

 1月10日の記事では取り敢えずの評点を記しましたが、今回は後編をも合わせた『最終楽章』全体の評点ということです。それでもやっぱり、下記のところでしょうか。

★★★☆☆


象のロケット:のダメカンタービレ(後編)