映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

のだめカンタービレ(後編)

2010年06月13日 | 邦画(10年)
 遅ればせながら『のだめカンタービレ 最終楽章 後篇』を、渋谷の渋東シネタワーで見てきました。
 勿論、本年1月にその『前篇』を見たからですが、それもかなり面白かったがために、今回作品も期待を込めてぜひ見てみようと思っていました。

(1)実際に見たところも、マズマズの出来栄えではないかと思いました。
 ところが、映画評論家の 前田有一氏は、「内容が薄すぎやしないか。123分の堂々長編だが、ストーリーも堂々巡り」、「どう見ても上映時間を埋めるためだけに作ったような、お定まりの恋の障害エピソードで、新味もなにもありゃしない」、「この後編で主人公二人がやっていることには、ドラマ1話分程度のボリュームしか感じない」、「これでは後編を20分に縮めて、前編にくっつけて1本にしたほうがよかったのではないかと、嫌味のひとつもいわれよう」と、この映画について言葉を尽くして酷評しています。

 ですが、前田氏が、「ドラマ1話分程度のボリュームしか感じない」とか、「後編を20分に縮めて、前編にくっつけて1本にしたほうがよかったのではないか」と言っているところからすると、この映画の大切な登場主体であるブラームス作曲の「ヴァイオリン協奏曲」とか、ラヴェル作曲及びショパン作曲の「ピアノ協奏曲」の演奏をまるで無視してしまっていることがよくわかります。
 そりゃあソーでしょう。これらの演奏を今回の映画の中から全部外してしまったら、「ドラマ1話分程度のボリューム」でしょうし、せいぜいのところで「20分」程度のシロモノになってしまうことは必至でしょう。

 しかしながら、私には、この映画の価値は、こうした曲の演奏をたっぷりと聞けたからこそのものではないかと思えて仕方がありません。
 特に、ラヴェルのピアノ協奏曲はクマネズミは初めて聴く曲で、この曲を、しかもたっぷりと聴けただけでも大きな収穫でした!
 それに、前日の記事で取り上げた『オーケストラ!』でも、ラストの12分のチャイコフスキーヴァイオリン協奏曲の演奏が、主役並みの位置づけを与えられていたではありませんか!
 なぜ、前田氏は、この映画を見て、登場人物の恋愛劇の方だけしか関心を払わないのか、音楽映画を見て、どうしてタップリと描かれている演奏場面のことを外してしまうのか、その理由がドーモよくわかりません。

 それに、もう一方の登場主体である「のだめ」と「千秋」は、前編と同様、扮している上野樹里玉木宏の熱演によって大層うまく仕上げられていて、ラストのセーヌ川に架かる橋の上での抱擁シーンまで間然とするところがなく、全体としてこの映画を随分と見ごたえのあるものにしていると思いました。

(2)ただ、この映画にも問題を感じないわけではありません。
 「のだめ」が、シュトレーゼマンの指揮の下で、ショパンの「ピアノ協奏曲第1番ホ短調」を演奏しますが、その冒頭に「千秋」の声で、「この曲は、音楽家としての飛躍のためウィーンに発つショパンが、故郷ワルシャワで開いた告別演奏会で自ら弾いた協奏曲で、故郷を発とうとするショパンがこの曲に込めた気概を感じる」とか、「ロマン的な静穏の中に、楽しい無数の追憶を感じさせる」などといった解説が入ります(これはおおよその感じで、映画で言われた内容から離れているかもしれません)。
 ラヴェルのピアノ協奏曲とか他の曲が映画で演奏される場合にも、似たり寄ったりの解説がつきます。
 むろん、そうした解説が間違っているわけではありません。むしろ、そうした導入的な解説がなされた方が、クラシックの曲の受入れが容易になるかもしれません。
 ただ、その曲自体をそのまま受け入れて先入観なしに味わおうとしている者にとっては、なくもがなの解説と言えるかもしれません。知った風な解説なしに、余計な知識なしに、黙って音楽が演奏される方が、音楽自体を十分に味わえるのではないかとも思われます(注)。

 ただ、京大准教授・岡田暁生氏の『音楽の聴き方』(中公新書、2009)では、次のように述べられています。
 「ドイツ・ロマン派によって音楽が一種の宗教体験にまで高められていくとともに、音楽における「沈黙」がどんどん聖化されていく。批評もまた、言葉の無力を雄弁に言い立てるというレトリックでもって、黙する聴衆の形成に加担する」のであって、「「音楽は語れない……」のレトリックには、多分に19世紀イデオロギー的な側面があった」。
 だがそうではなく、むしろ、「音楽は言語を超えていると同時に、徹頭徹尾、言語的な営為」なのであって、「音楽の少なからぬ部分は語ることが可能」なのである〔同書P.56~P.58〕。

 そうであれば、音楽を前にして語るべきか語らないでいるべきか、ではなくて、何をどのように語るべきなのかが問題となるのでしょう。

(注)似たようなことは、5月に「三岸節子展」を見た際にも思ってしまいました。

(3)映画評論家たちは、総じて大層辛目の評価をしているようです。
 冒頭で述べたように、前田有一氏はこの映画を“ダメダメ”として、わずか20点しか付けていません。
 福本次郎氏も、「音楽家を目指す若者の苦悩と葛藤も少しは描かれる。ところがその本質は「クラシックやってます」的な浅薄な選民意識に酔ってお祭り騒ぎを繰り返しているだけ。そこには音楽に対して真摯に向き合う姿勢は微塵もなく、ただ出演者とスタッフがバラエティ番組のノリではしゃいでいるとしか思えない」として30点です。
 さらに、渡まち子氏までも、「相変わらずのメンバーと相変わらずの展開で、安心感満載…と言えば聞こえはいいが、物語に新鮮味はまったくない」、「この後編のウリはいったい何なのか? と首をかしげたくなる」、「しかも本作にはコミカルな要素はほとんどなく、シリアス一点張りだ。本気モードは、本物の音楽があれば十分なのに。ついに実現した二人の“共演”は、グランドフィナーレにはあまりにも地味すぎやしないか。このために前・後編という長い時間を費やしてきたのかと思うと力が抜けた」として30点しか与えていません。

 クマネズミには、こうした論評は、映画で演奏されている音楽から感じられる楽しさを無視しているとしか思えないのですが。

 1月10日の記事では取り敢えずの評点を記しましたが、今回は後編をも合わせた『最終楽章』全体の評点ということです。それでもやっぱり、下記のところでしょうか。

★★★☆☆


象のロケット:のダメカンタービレ(後編)

オーケストラ!

2010年06月12日 | 洋画(10年)
 『オーケストラ!』を渋谷のル・シネマで見てきました。

 この映画は連日大入りで、ル・シネマで別の映画を見た時でも、ロビーはこちらを見ようとする人で溢れ返っていました。我々が行った時も、公開されてからかなりの日が経過していましたが、ほぼ満席でした。たぶん、PRというよりも口コミなどで、この映画の良さが浸透しているからでしょう!

 さて、この映画は決してミステリー作品ではなく、どこまでもファンタジックなお話ですが、重要な真相がズット隠されたままでストーリーは進行し、最後に至ってはじめて明らかとなります。ですから、その評価に当たっては、どうしてもタバレしないと難しいところがあるものはと思います。
 ただ、簡単にネタをバラしてしまうと、この映画に対する興味が半減してしまうかもしれません。そこで、以下では、節を改めてネタバレをした上で、評価(酷く個人的で偏っていますが)をしてみたいと思います。

(1)この映画(原題は、”Le Concert”)の大掴みなストーリーは単純です。
 主人公のアンドレイは、30年前までは、ボリショイ交響楽団の有名な指揮者でしたが、ブレジネフ政権の人種政策(非ユダヤ化)によってそのポストから仲間とともに追放され、今は同交響楽団の劇場清掃員として働いています。
 そうしたところ、ある日、パリのシャトレ劇場からFAXが同交響楽団の事務所に届いているのを偶然目にします。その文面は、急に出演できなくなった楽団の代わりに出演してくれないかとの依頼でした。
 FAXを目にしたアンドレイの頭に、ある計画が閃きます。すなわち、彼と同様に楽団を追放されて落ちぶれてしまった昔の仲間をかき集めて、偽のボリショイ交響楽団を結成し、パリに乗り込んで公演を実現させようという計画です。
 早速、親しい元チェロ奏者にその計画を話すと、それからはトントン拍子に事が運び、ついには実現に至ってジ・エンドです。

 こうした中心的なストーリーの脇に様々なエピソードが配置されます。
 なにしろ、30年前にユダヤ人の楽団追放を実際に指揮した元ボリショイ劇場支配人が、この計画実現に一肌脱いで、パリのシャトレ座支配人との話をまとめてしまうのです(無論、彼には彼なりの別の思惑もあるのですが)。
 また、アンドレイが競演を熱望した著名なアンヌ=マリー・ジャケ(『イングロリアス・バスターズ』で映画館の支配人役を演じたメラニー・ロランが扮します)が、コンサートの出演を了承してしまいます。
 さらには、ラストの公演の場面では、一度も事前練習をしたことがないのに(特にソリストと一度も一緒に練習をせずに)、満員の聴衆を沸かせる演奏をこの偽楽団が披露してしまうのです!

 こうした大きなエピソードのみならず、小さなユーモアのよく利いたエピソードもあちこちにちりばめられていて(アンドレイの奥さんが、集会等の人数確保のための代理出席者を斡旋するサービス業を営んでいるとか、パリへ行った楽団員の中に携帯電話機の行商を行う者が出てきたりするなど)、大層楽しくこの映画を見ることができました。

(2)この映画でなんといっても中心的なのは、ラストの12分間に及ぶチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏でしょう。
 というのも、その演奏もさることながら、演奏にかぶさって、なぜアンドレイがこの曲をアンヌ=マリーをソリストにして演奏したがったのか、その理由が明らかにされるからです。

 以下はネタバレになります。
 実は、30年前アンドレイたちが楽団を追われたときに演奏していたのがこの曲で、ソリストがアンヌ=マリーの母親だったのです。アンドレイたちは楽団追放で済みましたが、彼女の父親と母親はシベリア収容所送りとなり、そこで相次いで亡くなります。ただ、収容所に送られる前に、2人は自分たちの子供をアンドレイに託します。さらに、その子供をヴァイオリンのケースに入れてパリまで運んだ女性が、その後アンヌ=マリーのマネージャーをやっています。

 というのが真相ですが、ラストの演奏のシーンまではこのことは明らかにされません。むしろ、関係者はその真相を極力隠そうとします。マネージャーの女性は、アンヌ=マリーには、両親は飛行機の墜落事故でスイスの山中で亡くなったと話していたものですから、今度の話が持ち上がってくると、パリに到着したアンドレイに、「真実」を話さないように、わざわざ頼みに来ます。
 また、アンドレイの右腕とも言うべき元チェロ奏者も、あのことをパリに行ったらアンヌ=マリーに話すのか、と思わせぶりな発言をします。

 こうなると、映画を見ている方は、てっきりアンヌ=マリーがアンドレイの実の子供であって、だから誰も真相を話せないのでは(あるいはそれに近い話があるのでは)、と思ってしまうことでしょう!

 ですが、そうではありませんでした。
 としたら、どうして事の真相を誰もアンヌ=マリーに話せなかったのでしょうか?両親がすでに亡くなっていることは、彼女は前々から知っているのですから、今更亡くなった場所がスイスの山中ではなくシベリアだったとわかっても、それほど大きなショックを受けないのではないでしょうか?むしろ、共産党政権下において権力の犠牲になった、誇りに思うべき崇高な死と考えるのではないでしょうか?
 とすれば、どうしてそんなことを最後の最後までアンヌ=マリーにも映画の観客にも隠そうとするのでしょうか?

 映画の核心部分についてこうしたわだかまりがあるものですから、この映画に対しては、その大部分は大変面白いにもかかわらず結局のところ大した評価をすることができないでいます。
 むろん、親娘関係などは強制収容所にまつわる話に比べたらズッと下世話なことで、そんな真相が明かされたとしてもだからどうしたということになりかねませんが、逆に強制収容所での死は崇高であるが故に隠すべき事柄ではないと思われるのです(この点がうまく説明出来るのであれば、随分と面白いこの映画に対する評価ももう1ランク高くなるのですが!)。

(3)映画評論家は、まずまずの評点を与えています。
 佐々木貴之氏は、「寄せ集めオーケストラが公演に出場して演奏を完璧にやり遂げるというサクセスストーリーである本作。真面目な音楽ドラマかと思いきや、前半ではドタバタ風のコメディーが観られ、後半ではシリアスな雰囲気を漂わせたりといった見応えのある演出で楽しませてくれる」として70点を、
 渡まち子氏も、「アンドレイがなぜフランスの売れっ子女性バイオリニストと共演したがるのか。歴史の悲劇であるその理由が、クライマックスの演奏会と共に語られる場面がすばらしく感動的だ。ラストに演奏されるチャイコフスキーの名曲ヴァイオリン協奏曲のドラマチックなメロディで興奮が沸点に達してしまう」として70点を、
 福本次郎氏は、「予想通りの大団円に少し悲しい過去、30年前に始まった運命のいたずらがチャイコフスキーのダイナミックな旋律に乗って壮大な叙事詩のように紡ぎあわされ、清涼な後味を残す」として50点を、
それぞれつけています。



★★★☆☆


象のロケット:オーケストラ!

矢島美容室

2010年06月10日 | 邦画(10年)
 『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』を、丸の内ピカデリーで見てきました。
 TVで活躍するコメディアンの映画は普段あまり見る気にならないのですが、前田有一氏の映画評の評点が70点と高いうえに、「今週のオススメ」にもなっているので、マアそれならと思って出かけてみたわけです。

(1)何しろ、前田有一氏は、その映画評の中で次のように述べているのです。
 「木梨憲武や石橋貴明の女装顔のドアップを大スクリーンで見たときには、おそらく金を払ってなんでこんなモノを見なくてはならないのだろうと切ない気持ちになること請け合いだが、それを補って余りある楽しさが本作にはある」。
 「これは、日本国内専用ミュージカル作品。ターゲットが絞られているから、合致した観客にとっては下手に『NINE』なんぞの海外の大作を見るより遥かに面白いだろう。映画館の席に座っているのがもどかしいほどだ」。
 「楽曲の良さを唯一無二の武器とし、チームワークで乗り切ったスタッフキャストの皆さんには敬意を表したい。賞味期限の短い流行品ではあるが、日本人のためだけの楽しいミュージカルとして、気軽に見るにはオススメの一品である」。

 ですが、私には、こんなに退屈きわまる映画は最近見たことがないというほど駄目な出来の映画でした。
 まず、オペラと同様に、ミュージカルに目覚ましいストーリーを求めてもお門違いも甚だしいのかもしれませんが、それにしても、この映画は酷すぎます。
 なにしろ映画の中で展開されるのは、母マーガレット(木梨憲武)の長女ナオミ(DJ OZMA)が出場するビューティコンテストの話と、次女ストロベリー(石橋貴明)が主力選手となっているソフトボールとラズベリー(黒木メイサ)が率いるチームとの因縁試合の話ぐらいなのですから。
 それも、前者は、ラスベガスのマスコミ界を握る男(大杉漣)が審査委員長で、自分の娘の黒木メイサが第1位になることが分かっているという、どこにで見みかけるつまらないことこのうえないコンテストなのです。
 後者は、試合に遅れて登場したストロベリーが大活躍して、9回裏の大逆転によって勝利するという、これまた絵に描いたような展開〔スコアボードの数字をちらっと見るだけで、その後の進行ぶりが完全に予測できてしまうシロモノ〕(注)。

 それでも、普段、TVで見られるような「とんねるず」の面白さがこうした物語の展開の中で見られるのでしたら救いはあります。ですが、いくら見ていても、一向に面白いギャグも面白い話も何一つ出てこず、ただただ真面目にストーリーが進行するだけなのです。
 まさに、前田氏が言うように、「おそらく金を払ってなんでこんなモノを見なくてはならないのだろうと切ない気持ちになること請け合い」なのですが、それがどうして、「それを補って余りある楽しさが本作にはある」などという文章につながってしまうのでしょうか?

 加えて、こんな退屈な物語の合間に、「矢島美容室」のヒットナンバーが次々に歌われるという仕掛けです。
 あるいは、前田氏が言うように、「演じる3人の世代、アラフォーからアラフィフあたりの琴線に触れる曲調で統一された矢島美容室のヒットナンバーは、映画ならではのハイテンションでゴージャスなパフォーマンスで大いに盛り上がる」のかもしれません。
 ですが、私には、何の新鮮味もない、歌謡曲の延長線上にあるナンバーとしか思えませんでした(これまでにもTV番組などで何度も聴いていますし)。

 こうした曲を「日本人のためだけの楽しいミュージカル」とわざわざ前田氏が高く持ち上げるには、なにか魂胆があるのではと疑いたくもなってきます。
 ひねくれ者による見当外れの見方にすぎないでしょうが、映画の中で歌われる「ニホンノミカタ」には、「リョーマは泣いてやしませんか?」、「ニュースキャスターは今夜も沈みきってます暗い顔」、「ブシドウは首都高速ですか」、「それでもニホンが愛してます」などといった政治的な歌詞が含まれていますし、「ニホンジンニナリタイ」にも、「願いが叶うのならばここで夢を見ていたい/ニホンジンニナリタイ/刺身醤油 ポン酢醤油 モミジオロシ」といった歌詞が出てきます。
 こうした歌が、最近頓に政治的な立場を鮮明にしている前田氏等の「琴線に触れ」、「アラフォーからアラフィフ」あたりを大感激させたのではないかと思いたくもなってきます。
 といっても、平日のラストの入りは、有楽町の「丸の内ピカデリー」でも6人ほどにしかすぎませんでしたが!


(注)前田氏は、美人女優の野球シーンがお好きなのかも知れません。賛否両論で姦しかった『チーム・バチスタの栄光』(中村義洋監督、2008年)の映画評においても、「竹内の吸引力は強烈すぎる……白衣はもとより、ソフトボールの生足ユニホームなどコスプレ満載、意図したわけではなかろうが、まるで彼女のアイドル映画だ」などと述べているくらいですから!


(2)他の映画評論家の見解はどうでしょうか?
 いつもその論評を信頼している渡まち子氏は、「バラエティー番組という出自をマックスに利用して悪ふざけを正当化。その極みともいえる演出が最後の最後に仕込まれている」として50点も付けているのには驚きました。ただ、「劇場の大スクリーンでこれを見る価値があるかどうかはこの際別問題」と言ってみたり、「無駄に豪華なゲスト出演と確信犯的にユルい物語」と述べているところの裏をくみ取るべきなのかもしれませんが!

 むしろ今回は、30点しか付けない福本次郎氏の映画評に共感してしまいます。
 すなわち、福本氏は、「「矢島美容室」というユニットに対して何の予備知識もなく映画を見に行くと、おそらくスクリーンを見つめ続けているのが苦痛になってくるはず」で、「作り手が楽しんでいるのはよくわかるのだが、TVの人気キャラがふざけているだけの作品だった」と述べています。
 さらには、「宇宙の果てから飛んできた3人の顔をした隕石が地上に落ち、そのままリズムを刻んで「Miracle」を歌いだすプロローグは、愉快なミュージカルを予感させる。……だが、映像に集中できたのはそのあたりまで。肝心の物語があまりにも見る者をバカにした代物で、ギャグのレベルも非常に低くて笑えなかった」とまで述べています。
 
 福本氏が言うような「「矢島美容室」というユニットに対して何の予備知識もなく映画を見に行く」人などマズあり得ないとは思いますが、この映画の評価についてはまさにおっしゃるとおりではないでしょうか?


★☆☆☆☆



劇場版TRICK

2010年06月08日 | 邦画(10年)
 『劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル』を、渋東シネタワーで見ました。
 時間が空いたので、そのつなぎとして見たにすぎませんが、まずまずの出来栄えのように思います。

(1)ストーリーはいつもと変わりがありません。
 ある日、天才物理学者の上田次郎(阿部寛)の研究室に、一夜村というところから青年・西園寺誠一が訪ねてきます。
 その青年が言うところによれば、村には昔から「契り祭り」という祭りがあって、その中で願掛けが行われ、うまくいけば願った恋が成就するものの、人が死ぬ場合もあると言い伝えられているとのこと。
 彼は、そんな話は迷信だと証明してほしいと、上田に頼みに来たわけです。そこで上田は、山田奈緒子(仲間由紀恵)と一緒に一夜村に行くことになります。
 彼らが宿に着くと、彩乃(浅野ゆう子)という黒尽くめの女性に遭遇します。彼女は、人を呪い殺す霊能力を身につけていて、20年前に呪い殺された我が子と夫の復讐をすると言っています。他方で、呪い殺したとされる松子(手塚理美)も、また霊能者を使って呪い返しで彩乃に対抗しようとします。
 その間に、誠一に関係する女性が、次々と、彩乃が口ずさむ子守唄の歌詞とそっくりの方法で殺されていきます。
 そこで、上田と奈緒子が事件のことを調べることになって、……。

 めでたく事件が解決して、上田と奈緒子が一夜村を後にするラストシーンがありますが、そこで上田は、自分には予知能力があって、今度は“まんねりといわれる場所に導かれるだろう。そこでは……”などと奈緒子に話しかけ、二人の後ろ姿が次第に小さくなってジ・エンドとなります。

(2)アレッ、今度の映画の現場がまさに「万練村」なのでは?
 そうです、上で書きました簡単な粗筋は、5月15日にテレビ朝日で放映されたTVドラマ『トリック 新作スペシャル2』の方なのです!



 なにしろ、上記のストーリーに出てくる「一夜村」を「万練村」に、「契り契りの祭り」を「カミハエーリ選び(霊能力者バトルロイヤル)」に、上田のところに相談に来る青年を「西園寺誠一」から「中森翔平」にという具合に次々に入れ換えていくと、そのまま今回の映画の大体のストーリーと相成ります!
 むろん、大きな事件を引き起こす張本人が、「彩乃(浅野ゆう子)」から「鈴木玲一郎(松平健)」へと変わることで、事件の中身そのものは違ってきますが、この2人はどちらもラストで同じような死に方をしますし、村の青年が思っている女性もどちらの作品でも青年と結ばれることなく死んでしまいます。
 また、最後の方で、山田奈緒子の母親(野際陽子)が登場し、書道家という観点から全体をまとめあげるという構図も類似しているといえるでしょう。

 こんなフザケタことをするのも、下記の前田有一氏が、その映画評で、「どこから見てもいつものTRICKで、劇場版ならではの特徴を感じない。昨日までやっていた連続ドラマの新しい回をみているような気になる」と述べていますが、むしろ、製作者側としては、意図的に「いつものTRICK」を作ろうとしているわけで、そんな点を非難してみても仕方がないのでは、と思ったからです。
 なにしろ、これではマンネリではないか、と非難してみても、設定される場所の名称が「まんねりむら」ではどうしようもありません。ここは、堤幸彦監督に脱帽し、「じゃぐち」を「へびくち」と言ったり、「魔のもの」を「酢の物」と取り違えたりするなどのギャグに笑ったりして、そのマンネリ振りを“いつものように”味わうべきではないでしょうか?

(3)映画評論家の間では評価が分かれるようです。
 前田有一氏は、「本格作品じゃないし、だからどうこうという話でもないのだが、全体的に早熟感というか即興演奏のような印象を受ける点が気になる。久々の劇場版、もう少し練りこんだ話、トリックを見てみたかった」として、30点をつけて、「今週のダメダメ」としています。
 福本次郎氏も、「全編ユル~い展開に、見る者のテンションは下がりっぱなし。ツッコミを入れられることを目的としたとしか思えない瞬間芸のような小ネタからあまりにも幼稚な手品の種まで、脱力感あふれるエピソードの数々は、ストレートに観客の心をくすぐるのではなく、あえて寒さを感じさせるのが狙いなのか」として、同じ30点をつけています。

 ただ、他方で小梶勝男氏は、「これまでのシリーズの集大成でもあるし、単なる繰り返しでもある。本作の場合は、それでいいのだ」として72点をつけていますし、また、渡まち子氏は、評点は45点と低いものの、「わざわざ映画館で見るものか? とも思うが、奈緒子がこよなく愛する時代劇「暴れん坊将軍」の出演が何よりのプレゼントかもしれない」と述べています。


★★★☆☆



象のロケット:劇場版TRICK

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を

2010年06月06日 | 洋画(10年)
 『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』を、新宿武蔵野館で見てきました。

 長すぎる邦題が思わせぶりであり〔原題は「vengeance (復讐)」〕、上映館が都内でわずか1館だけなのが何となく気になったものの、予告編で見た時にマズマズだなと思い、また映画評論家の評価もかなり高いので、映画館に足を運びました。

(1)ですが、何となくの予感が当たりました。
 予告編で見ると銃弾が飛び交うアクション映画のようだからうるさいことは言わず楽しめばいいのだと、見る前に自分に言い聞かせましたし、それどころか、『サガン―悲しみよこんにちは』で主役のサガンを演じたシルヴィー・テステューとか、『Plastic City』でオダギリジョーと共演したアンソニー・ウォンとかが出演しているので、それだけでもいい映画のはずだと思ったりもしました。
 とはいえ、私にはこの映画は駄目でした。

 冒頭、マカオで幸せそうに暮らしている一家が、突然殺し屋の集団に襲撃され、夫と二人の息子が殺され、フランス人の妻(シルヴィー・テステュー)が半身不随ながら辛うじて助かります。
 この事件を知ったフランスでレストラン経営をしている彼女の兄・コステロ(ジョニー・アリディ)が、マカオの病院にやってきて、復讐を妹に誓います。
 コステロは、宿泊していたホテルで、ある殺し屋グループと偶然に遭遇したことから、彼らを復讐のために雇い入れます(そのリーダー格の男クワイがアンソニー・ウォン)。彼らのようにマカオの裏社会を知る者からすれば、コステロの妹の家族を襲った殺し屋たちを見つけるのはいとも簡単です。そこで早速、殺し屋同士の対決と相成ります〔中国人としては3対3ですが、一方のグループにはコステロが加わります〕。
 冒頭のシーンからここまでは、かなり手際よく話が進行します。特に、冒頭のシーンは、いかにも幸福な家族の食事風景が、突然の銃撃で地獄に様変わりするのですから、かなりショッキングでした。コステロたちは、悲劇が引き起こされた妹の家に行きますが、現在とその時の殺戮の場面が入れ替わり描き出されるところは、さすがに凄いなと思いました(注)。

 ですが、この殺し屋グループ同士の銃撃戦はいただけません。相手のグループは家族を連れてピクニックにきていたところから、その家族が先に全員引き揚げるまで、コステロのグループはじっと見守るだけです。これはまあ、その後の銃撃戦との対比ということで許せるでしょう〔やや間延びした感じはあるものの、動の前の静でしょうか〕。
 ところが、さあ銃撃戦だと思ったら、夜になったせいもあって、双方の銃弾は激しく飛び交うものの全く当たらないのです!お互い闇雲にブッ放すだけで、時折月明かりによって位置関係がわかり、それによって撃たれる者はいるものの致命傷にはならず、ピストルの音が空しく響き渡るばかりです。
 これでは見ている方は酷く退屈してしまいます。

 それに、主人公のコステロに問題があります。現在はパリでレストラン経営を行っていますが、以前はやはり闇の世界の人間、その時に頭部に銃撃を受け、まだ銃弾が入ったままで、その影響で次第に記憶がなくなってしまうだろうと医者に言われているというのです。
 それで、コステロは、自分が雇い入れた殺し屋グループを見間違えないように、普段から持ち歩いているとおぼしきポラロイドカメラで写真を撮って、一人一人の名前を、出てきた写真に書きつけます。
 ですが、そうなると、肝心の復讐のことはどうなるのでしょうか?そうなのです、そのことも殺し屋グループの顔と同じように次第に忘れてしまうのです。その点は、雇われた殺し屋グループも気がついて、どうしようかとなるものの、一度約束したものはどんな事情があろうともやり遂げるのが俺たちなのだ、ということで復讐は継続されます。
 とはいえ、自分がやっていることが何なのかしっかり把握できない中心人物による復讐とは一体何なのでしょうか?元々、復讐とは敵についての「記憶」が要でしょう。その記憶がなくなってしまったら復讐など無意味ではないでしょうか?単に社会的制裁が行われるだけのことではないでしょうか?

 加えて、最後に事件の張本人(妹たちの殺害を指令したマフィアのボス)を倒しに行く時に、コステロは神に祈りを捧げます。海岸で「神様、私をお助けください」と祈ると、今回の事件で犠牲になった者たちのシルエットが海面に浮かびあがってくるのです。こうなると、もうマッタクこの映画についていけなくなってしまいます。

 というような具合で、アンソニー・ウォンは相変わらず格好がよく、またジョニー・アリディが単身、敵のボスがいるところに乗り込んでいく様子は、あるいは日本のヤクザ映画と見紛うばかりの感じさえします。
 そうです、高倉健とか鶴田浩二が刀とか短刀を振りかざして敵の親分のところに乗り込んでいくのと同じことだと思えばいいのでしょう。ですが、ある種の美学に裏打ちされた日本のヤクザ映画とは全然違う印象を受けてしまいます。

 とはいえ、以上のようにこの映画がダメに思えてしまうのは、ジョニー・アリディの若い時分の活躍を知らず、またこれまでこうした種類の映画をあまり見たことがないせいだからでしょう。もっと同種の映画をいろいろ見て勉強した上で見るか、あるいはそんなに嫌なら自分の世界とは違うと割り切って見に行かなければよかったのですが!


(注)この映画に対して星4つをつけている粉川哲夫氏も、「契約が成立したクワイたちとコステロとが、惨劇のあった家に「現場検証」に行くシーンが実にいい」。「妹が夫と子供のために料理をしていた台所を片付け、冷蔵庫に残された食材を使って、コステロがもくもくとパスタ料理を作り、クワイたちに食べさせるシーンは、ほかでは見たことがない。いっしょに食べながら、コステロの過去、3人の殺し屋たちの性格もあらわになる。実にいい。ここにこの映画のすべてがある」と絶賛しています。


(2)この映画で、コステロが、自分の記憶がなくなっていくのに対処しようとポラロイドカメラを使っているところを見れば、誰しも『メメント』(クリストファー・ノーラン監督、2000年)を思い浮かべることでしょう。
 同作品では、主人公は、妻を強盗犯によって殺害されたショックから記憶障害(事件の前までの記憶はありますが、それ以降は10分間しか記憶が続きません)に陥ってしまいます。そこで彼は、ポラロイドカメラで撮った写真にメモを書き、さらには体中に刺青を彫って、忘れても何とかなるようにしながら、妻殺しの犯人を追っていきます。

 同じようなシチュエーションは、『博士の愛した数式』(小泉堯史監督、2006年)でも見られます。ただ、こちらでは、記憶が続くのは80分間と、幾分長くなっており、またポラロイドカメラは使われず、メモ書きを着ている洋服のあちこちにくっつけるというやり方がとられています。

 この両作品とも、ある時点までの記憶は鮮明だという点では、今回の作品とは異なっているといえましょう。なにしろ、コステロの記憶は、何から何まで次第に薄れていくののですから。
 そうなると、『明日の記憶』(堤幸彦監督、2006年)における渡辺謙のような、介護してくれる妻のことも分からなくなってしまう「認知症」に近い事態になっているといえるかもしれません。

(3)冒頭に書きましたように、映画評論家の評価はかなり高いので驚いてしまいます。
 まず、小梶勝男氏は、「ストーリーはよく出来ているとは言えない」が、「なにせ、「間合い」の映画なのである。男同士が敵になるのか、味方になるのか。撃ちあうのか、撃ちあわないのか。どのタイミングで銃撃戦が始まるのか。全ては相手と向き合い、「間合い」を計ることで決まる。映画はその「間合い」をじっくりと見せる。男たちが黙って顔を見つめ合う緊張感。それが一気に凄まじい銃撃戦へと転じる瞬間のエクスタシー。脚本では絶対に分からないトー作品の醍醐味だ」などとして83点もの高得点をつけます。
 また、渡まち子氏も、「フィルム・ノワールの本家フランスの香りと、香港ノワールの雄ジョニー・トーの独自の美学の出会いは、芸術的なハードボイルド映画を生んだ」のであり、「ジョニー・アリディが漂わす乾いたムードと哀愁、トー作品常連の俳優たちの不敵な面構えこそが、この映画最大の魅力と言えよう」として75点も付けています。

 そこまで、皆さんがおっしゃるのであればそうかもしれませんが!



★★☆☆☆


象のロケット:冷たい雨に撃て、約束の銃弾を

「マネとモダン・パリ」展

2010年06月05日 | 美術(10年)
 東京及びその周辺では、今、なぜか「印象派」の展覧会が花盛りです。
 順不同ながら、主なものをザッと挙げれば次のようです(注1)。

・ブリジストン美術館「印象派はお好きですか?」(~7月25日)
・三菱一号館美術館「マネとモダン・パリ」(~7月25日)
・国立新美術館「オルセー美術館展2010「ポスト印象派」」(~8月16日)
・松岡美術館「モネ・ルノワールと印象派・新印象派展」(~9月26日)
・森アーツセンターギャラリー「ボストン美術館展」(~6月20日)(注2)
・文化村ザ・ミュージアム「語りかける風景―コロー、モネ、シスレーからピカソまで」(~7月11日)
・横浜美術館「ポーラ美術館コレクション展―印象派とエコール・ド・パリ」(7月2日~)

 まるでフランスの美術館が皆東京に引っ越してきたかのような趣きを呈しています。
 昔、芝居小屋の経営が苦しくなると〔近いところでは、映画産業が不況になったりすると〕、「忠臣蔵」にお出ましを願って事態の改善を図ったといわれていますが、あるいは東京の美術館経営も厳しい状況に陥っているがために、猫も杓子も「印象派」詣でということになっているのかもしれません!

 ですから、生来ひねくれ者のクマネズミとしては、こうした展覧会にはどれも絶対行くものか、と決めておりました。

 としたところ、最近『印象派の誕生』(吉川節子著、中公新書、2010.4)を読んでいましたら、マネの『エミール・ゾラ(の肖像)』について、「この肖像画で、右上隅の枠の中に貼られた3点の作品が『バティニョル街のアトリエ』の静物と同じ「トリロジー」を構成していることが解明された」と述べられています(P.40)。

 それなら何か面白いのではと思って、専らその点だけを見ようと、新しく設置された三菱一号館美術館に行ってきました。

 この美術館のある建物は、丸の内最初のオフィスビルとして戦前に建てられた三菱一号館(ジョサイア・コンドルの設計により1894年に竣工)を忠実に復元したものとのこと。道理で中に入ると、1階から3階まで小さな展示室がいくつも並んでいるのだとわかります。ただ、展示室があまり狭いと、このような著名な画家の展覧会の場合入場者が大勢となりますから、よく知られている名画の前では身動きが取れなくなってしまいます。

 お目当ての『エミール・ゾラ(の肖像)』(1868年、オルセー美術館)は、エレベーターで上がった3階にある比較的大きな部屋に陳列されています。両サイドは、窓を覆う白地の遮光カーテンが垂らされていて、この絵だけがよく目立っています。





 さて、上記の引用の中にある『バティニョル街のアトリエ』は、次のような絵です(ファンタン=ラトゥール作、1870年)。



 この絵の左側にある赤いクロスのかかったテーブルの上に3点の静物が置かれています。



 上記の中公新書の著者によれば、これらについて、C・P・ワイスバーグが1977年に、次のように喝破したとのことです(P.37)。
 「ミネルヴァは古代ギリシア・ローマ神話では技術・学芸の守護神であるから、画中の小像は、西洋美術の伝統を象徴し、多角形の日本の皿は、マネら一群の画家が日本の文物に示していた熱い関心を表わし、ブヴィエの壺は両者が象徴する「西洋の伝統」と「日本の影響」を統合した「新しい芸術」を具現するものだ」。

 そして、今回の展覧会で展示されている『エミール・ゾラ(の肖像)』の「右上隅の枠の中に貼られた3点の作品」についても、吉川氏によれば、セオドア・レフが1975年に次のように解明したとのことです(P.40)。
 「ベラスケスの『バッカスたち』の版画は、「西洋の伝統」を表す。一方、相撲絵『大鳴門灘右ヱ門』は「日本の影響」を示す」。マネの『オランピア』は、「あたかもそれらを統合するかのように2点の作品の上に貼られ、マネが目指した「新しい芸術」を象徴している」。



 なるほど。実際に現物を見てみますと、「3点の作品の主人公が眺める方向は原画から変更され」、「マネ擁護に立ち上がったゾラにオマージュを捧げるかのように視線をゾラに集中させ」ていることもよくわかります(P.41)(注3)。

 専ら外の風景を明るい色調で描いたのが印象派ではないか、などと漠然と思っていましたが、こうした隠された意味を持つ作品もあるのだとわかり、印象派に対する失われた興味が幾分戻ってきたところです。



(注1)セザンヌヤゴッホなどがいわゆる「印象派」に属するのかどうか議論があるところでしょうが、ここでは最も広い意味で使うことにします。
(注2)展示品の中心が、マネ、モネ、ドガ、セザンヌ、ルノワール、ゴッホの作品なのです。
(注3)この絵については、安藤智子氏の「絵の中の絵が語るもの―アルフォンス・ルグロ作《エドゥアール・マネの肖像》」の「4「絵の中の絵」の造形性」も参考になると思います(雑誌『Resonance』第4号〔2007年〕掲載)。



追補〕『エミール・ゾラ(の肖像)』の「右上隅の枠の中に貼られた3点の作品」のうち、相撲絵は、二代目歌川国明によるもので、展覧会カタログの説明には「マネの「笛を吹く少年」の日本版」とありますが、だから何だというのでしょうか?

 そんなつまらないことはサテ置き、この絵の場所はゾラの書斎で、「オランピア」は写真版とのことです。あるいは、右上隅の「トリロジー」は、マネがそのように意識して描いたというよりも、単に実際のゾラの書斎がそうなっているだけのことなのかもしれません。

 なにより、下にそれぞれやや拡大して掲載しましたが、左側にある日本の屏風は何の意味もないのでしょうか?ゾラが手にしている本に描かれているのはゴヤの版画であり、また机の上に斜めになっている本には「MANET」とあって、マネを擁護するゾラの本の表紙です。
 とすれば、素人の全くの思いつきにすぎませんが、むしろこの3点の方が、ひょっとしたら「トリロジー」を形成するのではないかと思えてきますが?







 

運命のボタン

2010年06月02日 | 洋画(10年)
 『私の中のあなた』で好演したキャメロン・ディアスが出演するというので、『運命のボタン』を日比谷のTOHOシネマズ・スカラ座で見てきました。

(1)映画は、1976年12月 のある日、ルイス家のノーマ(キャメロン・ディアス)が呼び鈴に応じて入口のドアを開けると、玄関先には奇妙な箱が置かれていた(このことから、映画の原題は「The Box」となっています)、というところから始まります。
 その箱の中には、「Mr.Steward will call upon you at 5:00p.m.」と書かれている手紙が入っていて、実際にその時間に、顔の半分が焼けただれて失われているスチュワードと名乗る男性が現れ、「この箱についているボタンを押せば、あなたの知らない人がどこかで死ぬが、あなたは100万ドルを手にすることができる。ただし、ご主人以外の人にはしゃべってはならず、また猶予の時間は24時間だけ」と言って立ち去ります。
 さあ、そんな事態に追い込まれたらあなたはどうするでしょうか、というわけです。

 なかなか面白い導入の仕方であり、その後のキャメロン・ディアスの好演もあって、最後まで映画にひきつけられます。

 ですが、この映画には、様々な問題があるのでは、と思われます。
イ)映画全体からは近未来の雰囲気が濃厚に漂っているものの、実際は、その時代設定を30年以上も前の「1976年」としているのです。
 これは、1976年に、アメリカの火星探査機バイキング1号から切り離された着陸機が、世界で初めて火星に着陸して地表の写真を撮影した、という事実を踏まえてのことなのでしょう。
 そして、スチュワードの顔が変形しているのは、そのバイキングから最初の送信があった直後に雷に打たれたせいだとされています。

 加えて、被雷した際に、エイリアンが彼の体に入り込んだようなのですが、そのエイリアンは、箱の装置を使って、人類が生存させておく価値のある生物なのかどうか判定しようとしているのです。

 ですが、その判定の基準がいわゆる道徳律めいていて、その馬鹿馬鹿しさにすっかり白けてしまいます。要すれば、人類は、利他的な行動をする生き物なのか、利己的な行動しかできない生き物なのかというわけなのでしょう。
 しかし、そんな詰らない基準による判定など、エイリアンごときにしてもらいたくないものです!まさに人類の勝手でしょう!

 また、エイリアン自体は実際には登場しませんが、この話がとても30年前のものだとは思えないのも、背後にその存在が前提とされていることにもよっています。

ロ)そもそも、ギリギリの窮地に追い詰められてもいない一般の人が、高額のお金が得られるからと言って、簡単に殺人に手を貸すようなことをするものでしょうか?
 まして、夫はNASAで働いており、また妻も高校教師というルイス家のような健全な一家で、それも小奇麗な家に住んでいながら、同じ高校に通う息子に対する授業料優遇措置の適用が受けられなくなると、途端にお金が必要だとして、ノーマや夫が箱を前にアレコレ悩んでしまうものでしょうか?

ハ)その上、そうした選択をしてしまうと、更なる選択が迫ってくるのです。突然、息子に異変が起こり、目が見えず耳も聞こえなくなってしまいます。その時に、スチュワードが再び現れて、別のより厳しい選択肢を提示します。すなわち、100万ドルが得られるものの息子の異変は治らない道か、息子の異変は治るがある重大事を敢行しなくてはならない道か、そのいずれかを選べと迫ります。
 しかし、そんな羽目に追い込まれるとは当初の条件では何も言われておらず、後出しジャンケンのような実にアンフェアーな感じがしてしまいます。

 単なるファンタジックなお話なのですから、いろいろと難癖をつけずにそのまま楽しめばいいのでしょうが、全体を道徳的な雰囲気に包みこもうとしている点が、この映画の一番いやらしいところではないかと思いました。

(2)この映画には原作があります。リチャード・マシスン著『運命のボタン』(尾之上浩司編、伊藤典夫・尾之上浩司訳、早川書房、2010.3)に収められている短編「運命のボタン」です。
 とはいえ、その短編で死ぬのは、「本当にはよく知らなかった」夫であって、今回の映画とは意味合いが全く違っています。
 ですから、下記の前田有一氏のように、「このエンディングを(非常にミニマムな)原作と比較すると、この短編をふくらませて映画化するならこうすべきだよねと合点がいく」などと考えずに、ぜんぜん別物だと考えるべきではないでしょうか?
 というのも、肝心要の点、“一番身近だからよく知っていたと思っていたにもかかわらず、本当はよく知らなかった”という恐ろしい事実が、映画ではサッパリ描かれてはいないのですから!
 そして、かわりにいかさま道徳哲学じみた雰囲気が全体に漂うわけで、「こうすべきだよねと合点がいく」どころではありません。元の短編の持っている切れ味を、錆だらけにしてしまったというべきではないでしょうか?

 なお、このハヤカワ文庫の書評が、5月23日の朝日新聞に掲載されました。評者の横尾忠則氏は、「僕はホラー文学なんて一度も読んだことがなかったけれど、これが実に面白い!テンポの速い会話と、視覚表現はまるで映画だ。特に人間の五感や自然現象への眼差(まなざ)しが鋭く、ぐいぐいと肉体感覚に攻 撃を加えてくる。だから冒険小説でもないのに血が湧(わ)き肉が躍り出す。さらに体の奥で惰眠をむさぼっていたアンファンテリズム(幼児性)がにわかに目 を覚まし原初的な死の恐怖と快感がギシギシ音を立てながら開扉するその感覚がたまんない」と述べています。

(3)映画評論家は、総じて好意的にこの映画を見ているようで、
 前田有一氏は、「この映画が抜群に面白いことには、おそらく誰も異論はなかろうが、私が高く評価するのはそのメッセージの普遍性の高さ」であり、「いろいろな解釈が乱れ飛ぶと思うが、私がうまいなと感じたのはこの作品が人間の身勝手な本質をこの上なくシニカルに描いている点」だとして80点もの高得点を、
 渡まち子氏は、「人類滅亡さえ思わせる大掛かりな展開はアブノーマルなのだが、人間の本質と、倫理観を問うテーマは、意外にも古典的だったりする。何かをあきらめているよ うな、それでいて懸命に幸福を求めてもがくノーマを演じるキャメロン・ディアスが、いつもの明るいキャクターとは違って本格的な演技をみせて素晴らしい」として65点を、
 ただ、福本次郎氏は、「無表情な視線、突然の鼻血、諜報機関の関与。追い詰められていく主人公夫婦が体験するじわじわと真綿で首を絞められるような感覚が、思わせぶりな映像の連続で再現される。ところが、彼らに“運命のボタン”を贈った謎の男の過去が明らかになるにつれ、怖さよりもばかばかしさが先に立つ」として40点を、
それぞれつけています。

 このお三方の論評では、私は福本氏のものを評価したいと思います。


★★☆☆☆


象のロケット:運命のボタン