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映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

終着駅

2010年10月23日 | 洋画(10年)
 こうした伝記物はあまり好みではないとはいえ、タイトルに惹かれたこともあって、少し前のことになりますが、『終着駅―トルストイ最後の旅』を見に日比谷のTOHOシネマズシャンテに行ってきました。

(1)伝記物が好みでないというのは、大体が偉大な人物の立派な生涯が描かれているだけで、そこには製作者らの創意工夫の入る余地が少ないように思われるからです。それに、偉大な人物の素晴らしい一生などというものは、人間味に乏しく到底凡人の真似のできるものではなく、一方的に観客側に流れ込んできておしまいになってしまいがちです(別に、映画で何かを教えてもらう必要もありませんし)。
 そんなものを見るよりも、駄目な人間のダメさ加減を描き出した映画の方が、もっとずっと身近な感じがして、共感が伴いやすいと思われます。
 と思いながらこの映画を見ますと、名声を得るまでの艱難辛苦を描き出すありきたりの伝記物とは違って、トルストイが功成り名を遂げた後の、死の間際の様子を描きだすものでした。
 ならば、食わず嫌いはやめて、映画に専念することといたしましょう。
 ちなみに、本年は、トルストイが亡くなってちょうど100年目ということで、ある意味で時宜にかなった映画公開と言えるのかもしれません。

 さて、この映画は、トルストイが亡くなる1910年のロシアという設定。まだ帝政ロシアの時代で、主な舞台は、ヤースナヤ・ポリャーナ駅(モスクワの南方160km)近くのトルストイの屋敷。そうした枠組みの中で、2組の愛の物語が展開されます。
 一つは、トルストイ(クリストファー・プラマー)とその妻ソフィア(ヘレン・ミレン)との関係(16歳違い)、もう一つは、トルストイの秘書になったワレンチン(ジェームズ・マカヴォイ)とマーシャ(屋敷内で展開されるコミューン運動に所属)との関係。

 前者については、自分の著作物に対する権利を民衆のために放棄しようとするトルストイと、そんなことはさせじと家族の生活を守るのに必死な妻ソフィアとの確執が描かれます。とはいえ、トルストイも、ソフィアと2人きりになると以前の愛情が蘇るのです。
 ついにトルストイは、妻の取り乱した姿に憤って家を出て南に向かいますが、その途中のアスターポヴォ駅(ヤースナヤ・ポリャーナ駅から南東150kmあたり)で死の床についてしまいます。死の間際につぶやいた言葉は、やはり「ソフィア」でした。屋敷にいたソフィアが呼ばれ、夫の最期を看取ります。



 トルストイの秘書をやっていたワレンチンは、当初はトルストイ主義を奉じていましたが、トルストイ自身が、ゴリゴリのトルストイ主義者ではなく人間味あふれる人物だということがわかってくるにつれて、奔放なマーシャに惹かれていきます。



 コミューン内では性欲は否定されるとして、マーシャはモスクワに返されてしまい2人は別れ別れになるものの、アスターポヴォ駅でトルストイの死を看取ったワレンチンは、自分の下にマーシャを呼び戻します。おそらく、トルストイとソフィアの愛情の深さから何かを感じ取ったからなのでしょう。



 映画では、こうした物語が、ワレンチンを狂言回しとして綴られています。
 結局のところ、タイトルには“トルストイ”とありますが、別にそんなことはどうでもよく、莫大な財産を自分の主義のために手放そうとする夫と、それを止めさせようとする妻との葛藤、しかしやはりお互いに惹かれあっていたという物語を、もう一つの若い二人の恋愛物語を絡ませて描き出した作品と捉えてしまえばいいのでしょう〔元々、この映画の原作の小説(映画と同タイトル)にある「著者あとがき」の冒頭でも、この本は「フィクションである」と著者ジェイ・パリーニは宣言しているくらいなのですから(新潮文庫版P.471)〕!

 この作品では、なんといっても存在感があるのは妻ソフィアです。トルストイの方は、著作権を手放すことなどにつきあれこれ迷ったりするのですが、ソフィアは家の生活を守ること一筋で頑張るのですから、誰も太刀打ちなどできません。それを、『クィーン』で著名なヘレン・ミレンが演じています。同作品でもうかがわれるように気品のある雰囲気を醸し出していますが、そればかりか、遺書の書き換えを知った時の錯乱状態の演技も見事なものです。

 なお、トルストイに扮したのは、クリストファー・プラマーで、『Dr.パルナサスの鏡』でパルナサス博士を演じていましたが、今回の映画では、トルストイもかくありなんといった苦悩する姿をうまく演じていると思いました。

 この映画はトルストイの死でエンドとなりますが、恋愛物ではなく“true story”に重点を置くというのであれば、むしろトルストイが亡くなった後、ソフィアや他の関係者がどうなったのかの方により興味があるところです。というのも、その7年後にロシア革命が起きるわけで、社会主義体制の中であのコミューンの活動はいったいどうなっていったのでしょうか?
〔ラストで、ソフィアにはトルストイの著作権が移譲されたなどと字幕で表示されますが、そこに至る経緯に興味が惹かれるところです〕

(2)この映画を見るに当たってトルストイ自身のことはドウでもよいと上で言っておきながら、その舌の根も乾かない内にトルストイに少し拘ってみましょう。
 特に、トルストイの屋敷で営まれているコミューンの活動については、この映画ではあまり突っ込んだ描写がされていないものの、興味をひかれる点です。
 というのも、トルストイ主義とは、原理的には、「自分の生活に必要な労働は、自分でできるような簡素な生活を目指」し、「近代文明や国家、教会、私有財産を否定し、原始キリスト教こそ理想であり、悪に対して神に忠実に非暴力の姿勢をとる」(注)といった内容と思われますが、そういった考え方を基盤に運営されているトルストイのコミューンは、ある面では、現代にも通じるところがあるように考えられるからです。

 たとえば、その「公式ブログ」の昨年8月19日の記事「村上春樹の「1Q84」を読んで」において、評論家の田原総一朗氏は、村上春樹氏の最新小説の「「1Q84」の骨子になっているのは学生運動、連合赤軍事件、そして山岸会、それがオウム真理教に至るのである。つまり村上春樹は、若者達が全共闘として戦い、やがて様々のコミューンを作りそして宗教団体へと転じていく、この流れを描きたかったのであろう」と述べています。



 さらに、社会学者・大澤真幸氏が主宰する雑誌『O』の本年7月号は、「特集 もうひとつの1Q84」と題され、『1Q84』(新潮社)が同氏によって分析されているところ、その末尾の「参考資料」の「『1Q84』―大澤真幸によるあらすじ」には、概略次のように述べられています(関連する部分だけですが)。

 この小説の主人公の一人である天吾(30歳の男性で予備校講師)は、「ふかえり」(深田絵里子)という17歳の少女が文学賞に応募してきた小説「空気さなぎ」を、ゴーストライターとして書き直します(その結果、同作品は、文学賞を受賞し、単行本はベストセラーになります)。
 ところで、この「ふかえり」は、宗教法人「さきがけ」のリーダー(一種の教祖)である深田保の娘なのです。
 その深田保は、1960年代に学生運動の指導者でもあり、学生運動の挫折の後、配下の学生を連れて、農業で生計を立てているコミューン「タカシマ塾」に入ります(この「タカシマ塾」のモデルは、おそらくヤマギシ会でしょう)。 その後、彼は、「タカシマ塾」から離れ、仲間とともに、山梨県の過疎の村に、農業的なコミューン「さきがけ」を建設します。
 「さきがけ」の中で、現実の革命を求めるラディカルなグループが、「あけぼの」という別のコミューンを作ります(このグループは、警察との銃撃戦の末壊滅しますが、モデルは連合赤軍でしょう)。
 「さきがけ」の残りのグループは穏健ですが、いつの間にか非常に閉鎖的な宗教法人になってしまいます(「さきがけ」のモデルはオウム真理教でしょうし、リーダーの深田保は麻原彰晃に対応しているのでしょう)。

 以上の物語は、小説『1Q84』の「BOOK1」第10章及び第12章に書かれているところ、コミューン「タカシマ塾」については、「完全な共同生活を営み、農業で生計を立てている。酪農にも力を入れ、規模は全国的です。私有財産は一切認められず、持ち物はすべて共有になる」と天吾は説明しています(P.222)。
 こうした側面を見ると、この「タカシマ塾」は、遠くトルストイの理想としたコミューンにも通じていると言えるのではないでしょうか?

(注)このサイト記事からの引用です。


(3)映画評論家はこの作品に好意的のようです。
 山口拓朗氏は、「トルストイが掲げる「理想の愛」と、トルストイの実生活が写し出す「現実の愛」。その狭間で悶々としながらも、最後にはワレンチン自身が実体験を通じて、愛の本質を見極めていく姿勢がいい。「愛」は教えられるものではなく、自分自身の体感として創造されるべきもの――。映画のテーマはここに集約されているのかもしれない」として70点を、
 渡まち子氏は、「単純な理想主義だけでは人は幸せにはなれないものだ。まして夫婦の間には苦楽を共にした歴史があった。そのことを若いワレンチンが汲み取って人間的に成長するという設定が意義深い」し、「ヘレン・ミレンとクリストファー・ブラマーという名優二人がこの困った夫婦を格調高く、それでいて少しコミカルに、愛情深く演じていて、素晴らしい」として70点を、
 福本次郎氏は、「トルストイのアイデアを極めようとするチェルコトフと家族を守ろうとするソフィヤ、トルストイはその板挟みになりながらも苦悩を顔に出さず飄々としている。このあたりの微妙な三角関係のバランスに、ワレンチンの恋を絡める展開は口当たりがよい」として60点を、
それぞれ与えています。


★★★☆☆


象のロケット:終着駅

トラブル・イン・ハリウッド

2010年10月06日 | 洋画(10年)
 ロバート・デ・ニーロの映画をこのところ見ていないこともあって、『トラブル・イン・ハリウッド』を渋谷のシネマアンジェリカで見てきました。

(1)この映画は、「ハリウッド内幕シニカル・コメディの決定版」とか「映画業界の裏側、暴露します」という触れ込みで、それもロバート・デ・ニーロの主演作ということで期待しましたが、別にそれほど常識外れのことは起こらず、これならば何も彼が、主演するだけでなく、わざわざプロデューサーを買って出てまで制作するほどのこともないのではと思いました(映画館シネマアンジェリカでは、『しかし、それだけではない』を見たことがありますが、良質ながら他の映画館では取り上げない作品を上映するので、この映画もと期待したのですが)。

 映画は、ハリウッドの大物映画プロデューサーであるベン(ロバート・デ・ニーロ)のとてつもなく忙しい2週間を描いています(注1)。
 まず、ある映画のプロデュースに携わり、ようやく試写会まで漕ぎ着けたものの、あまりにも衝撃的なラストシーンを見た映画会社社長(キャサリン・キーナー)から再編集を命じられてしまいます。この作品は、2週間後にカンヌ国際映画祭でオープニング上映されることになっていたため、製作した監督の入れ込みが激しく、ベンの説得もなかなか功を奏さず時間ばかりが過ぎていきます。無事にカンヌのオープニングに出席出来るでしょうか、……。
 また、別の俳優が、その主演する映画のクランク・インが間近に迫っているにもかかわらず、役柄にあった姿形になろうとしません。そのままだったら映画の製作は中止し訴訟に持ち込むと出資者から言われてしまいます。うまくクランクインに漕ぎ着けるでしょうか、……。
 加えて、ベンは2度結婚していて、それぞれの結婚でもうけた子供たちの送り迎えまでこなしているのです。
 そればかりか、1年前に離婚が成立しているケリー(ロビン・ライト)ととは縒りを戻そうとして、何度もアプローチしますが、そのたびに携帯電話の邪魔が入ったりしてうまくいきません(どうやら、携帯電話が、離婚の原因の一つになっているようです)。

 この映画では、『ミルク』でアカデミー賞の主演男優賞を獲得したショーン・ペンが、ベンのプロデュースする映画に実名で出演するばかりか、その出演シーンが映画の中で映し出されたり、カンヌ映画祭にも登場したりします。


 さらにまた、これも実名で出演しているブルース・ウィリスの髭面が映し出されたりと、面白い場面はことかきません(注2)。



 ですが、この映画で描き出されるトラブルは、昔から使い古されている類いのものであって、今更映画に描き出されても、という感じです(『脳内ニューヨーク』でケイデンの最初の妻を演じたキャサリン・キーナー扮する映画会社社長が、自家用ジェット機でカンヌに乗りつけているのは、さすがにハリウッドという感じではありますが)。
 それに、ベンの私生活のトラブルでは、離婚した妻が2人登場する上、それぞれに設けた子供たちも登場しますが、数を増やしてベンを忙しくしても、相も変わらずといったところです。
 ただ、『50歳の恋愛白書』のロビン・ライト扮する2番目の妻との離婚をスムースに行うために、2人してセラピーを受けている様子は、こんなことまでアメリカでは行っているのかと興味をひかれましたが。


(注1)映画プロデューサーのアート・リンソンが、自分の回想録をもとに脚本を書いています〔2008年制作〕。
(注2)自殺したエージェントの葬儀の場面がありますが、ロバート・デ・ニーロもブルース・ウィルスもキッパを頭にかぶっているところを見ると、2人はユダヤ人なのでしょうか?

(2)映画制作におけるプロデューサーについては、その役割が明確に定まっていないこともあって、なかなか理解することが難しそうです。
 たとえば、このブログの8月14日の記事の(2)で触れましたように、映画『トラ トラ トラ』の制作が頓挫してしまった背景の一つとして、映画の編集権を巡って、黒澤明監督とアメリカの20世紀フォックス社との間で大きな齟齬があったことが挙げられています。すなわち、黒澤監督の方は、映画全体の編集は自分がすると思っていたのに、アメリカ側では、当然のこととして、編集権はプロデューサーのエルモ・ウィリアムズが持つとされていたようなのです。
 他方、今回の『トラブル・イン・ハリウッド』でロバート・デ・ニーロが演ずるプロデューサー・ベンは、単に、出資者とキャスト&スタッフとの間の取り持ち役に過ぎないように見えます。カンヌ映画祭に出品する映画について、最終的な編集権は、出資者である映画会社の社長が持っているのだと明言されています。

 いずれにしても、その忙しさは何処でも変わりがないようで、同じ記事で取り上げたフランス映画『あの夏の子供たち』で描かれる父親グレゴワールは、プロデュースの仕事をする会社を立ち上げていますが、今回の映画のベンと同じように、片時も携帯電話を手放しません。何処へ行っても何をやっていても、ドンドン電話がかかってきますし、彼自身もアチコチに電話をかけまくります。 
 その結果、グレゴワールも、ベンと同じように妻に飽きれ果てられてしまいます(とはいえ、ベンのように離婚するまでには至りませんでしたが)。

(3)映画評論家はこの作品を余り取り上げてはいませんが、前田有一氏は、「プロデューサーに代わりはいても、優れた監督や俳優にはいない。たとえ立場が弱くても、彼らは唯一無二の存在であり、自信たっぷりだ。この対照的な立場の者との絡みを描くことで、プロデューサーの悲哀がよりいっそう感じられる。そうした人間ドラマとしてはなかなかだが、映画業界の雑学的なものがあまり見られないのは物足りないところ。業界ドラマのコンセプトからすれば、この点を不満に思う人は少なくあるまい」として55点をつけています。




★★★☆☆


象のロケット:トラブル・イン・ハリウッド

彼女が消えた浜辺

2010年10月02日 | 洋画(10年)
 『ペルシャ猫を誰も知らない』を見たばかりであり、もう一つ公開されたイラン映画もと思って、『彼女が消えた浜辺』をヒューマントラストシネマ有楽町で見てきました。

(1)物語は、カスピ海沿岸のリゾート地で起きた出来事を巡って展開されます。
 主人公の女性(セピデー)は、ロースクール時代の友人であるアーマドらに声をかけて、彼らの家族らとともに車でリゾート地に向かいます。
 その際に、離婚したアーマドに紹介しようとエリという女性も誘います。予約したはずのヴィラは満室で、やむを得ず、使われておらず放置されていた別荘に宿泊する羽目になるものの、まずまず初日は皆で楽しく過ごします。
 ところが、2日目に、連れてきた子供の一人が海で溺れ、その子は何とか助かるものの、子供たちを見守っていたはずのエリの姿が見えません。エリは、1泊の予定で来たので帰りたいとセピデーに言っていたことから、皆には無断で帰宅してしまったのでは、とも思われましたが、もしかしたら溺れた子供を救おうと海に飛び込んだのかもしれません、さあどこにエリは行ってしまったのでしょうか、……。

 この映画はことさらミステリーと言っていませんから、エリがどうなったのかの謎解き自体にそれほど意味がないかもしれません。映画のラストでは、エリの失踪に関して一応の結論は提示されるものの、その解釈にも異議を差し挟めるような仕立てにはなっています(もしかしたら……ではないか、という感じがわずかながら残るのです)。
 ですが、全体としては日常的な出来事を綴っているに過ぎない映画なので、エリはどうなってしまったのだろう、というミステリー的な要素は、この映画に観客の関心をつなぎ止めておくための大きな要素ではないかと思われます。
 それに、エリを巡る謎については、失踪に関するものばかりではありません。
 通報でやってきた警察が皆から話を聞いていく内に、そもそも本名は何というのか、家族はどうなっているのか、など基本的な事柄について誰も知らないことがわかってきます。
 特に、エリを誘ったセピデーは、自分の娘が通う保育園の保母さんという以外によく知らないと言い出すのです。それでいて、離婚したばかりのアーマドの相手として格好なのではと考えているのですから不思議な感じになります。
 そのうちに、セピデーが、エリの鞄を隠していたことや、エリに婚約者がいることを秘密にしていたことなども分かってきます。
 なぜわざわざセピデーはそんなことをするのでしょうか、新たな謎が付け加わります。

 この映画では、まず別荘内でのごく日常的な細々した出来事が丁寧に描かれます。なにしろ、長年使っていない家のため、荒れ放題で、ガラス窓が割れていたり汚い物が散らばったりしています。それを皆で片付けて、ようやっと夜にはテレビの前で皆が集まってジェスチャーゲームをして楽しい時間を過ごすところまで漕ぎ着けます。テレビの前の座り方などを見ると、いかにも男性中心社会なのだなと思ってしまいます。
 他方で、冒頭の皆で大騒ぎしながら車に乗ってリゾート地に出かけるシーンから、ラストの砂浜に車輪が埋まってしまってナントしても抜け出せない車の姿まで、移動手段である車がかなり中心的な役割を果たしているように思われます。
 途中では、アーマドとエリとが一緒に車に乗って近くの町まで出かけますし、外部との連絡を取るためには、車に乗って移動しないと携帯電話の圏内に入れないのです(その結果、エリが母親らしき人と連絡をとったり、また婚約者が事件のあった別荘に現れたりするのですが)。

 こうした、別荘の内部と車という大きな枠組み(いってみれば、静と動、さらにいえば伝統文化と近代文明という枠組み)の中で、上記のように次々と謎が生まれてくるという描き方になっている様に思われます。
 加えて、興味を惹かれるのが、溺れた子供を救おうとする場面です。皆が海に飛び込んで必死になって子供を捜すのですが、映像は突然手持ちカメラのものに切り替わって、水面下の様子まで映し出すのですから、臨場感溢れるシーンになります。

 いろいろな工夫を施しながら、アスガー・ファルハディー監督は、人は他人について随分と曖昧な情報しか持っていないのではといった普遍的な事柄から、婚約者に対するイランの伝統的な見方といった特殊な事柄に至るまで、実に様々なレベルの視点をこの映画の中に注ぎ込んでいて、全体的になかなか優れた映画になっているのでは、と思いました。

 出演した俳優では、エリを演じたタラネ・アリシュスティの美しさが光りますが、やはりセピデーに扮したゴルシフテェ・ファラハニーも素晴らしい女優だと思いました。

 

(2)この映画については、映画ジャッジの評論家たちは論評を公開していませんが、沢木耕太郎氏の映画評が、9月14日の朝日新聞夕刊に掲載されています。
 沢木氏は、この映画のストーリーを紹介した後、次のように述べます。この映画の舞台は「イランのカスピ海のほとりである。しかし、それがアメリカの五大湖のどこかであってもいいだろうし、フランスのノルマンディーであってもかまわない。つまり、この作品は「イラン映画」という前置きを必要としない、単なる映画として存在しているということなのだ。……この作品で、ついに「イラン」というレッテルなしの、「普通」の映画に触れることができたように思えるのだ。もちろん、女性たちはチャドルで髪を隠している。……それでも、これが条件なしの「普通」の映画であるという印象は消えない」。

 この批評において、沢木氏は、「普通」という言葉を良い意味で使っていると思われます。ですから、『彼女が消えた浜辺』が「単なる映画として存在してい」て、「「普通」の映画」だと沢木氏が言うのは、酷く好意的な評価なのでしょう。
 ですが、そのような評価の仕方は、この映画に対して好意的だと言えるでしょうか?

 沢木氏の言うように、監督の「アスガー・ファルハディーの脚本が、舞台劇を思わせる緻密さを持っていた」のは確かでしょう。ですが、この作品が劇場で上演されたものではなく、アメリカの五大湖のどこかでもなく、わざわざカスピ海にまででかけて撮影して作り上げられたイランの映画だという点こそが重要なのではないでしょうか?
 一見すると、どの国においても起こりうる事件を取り扱っているように思われます。
 ですが、セピデーがエリについて皆に多くを語らなかったのは、エリが婚約をしている身であって、イランでは他の男性と一緒に旅行になど行くことはできない事情にあるためなのです。
 にもかかわらず、セピデーは、エリが、今婚約している相手を嫌がって婚約を解消したいと言っていたことから、それなら友人のアマードに紹介してやったらいいのでは、と好意的に考えたようなのです。ですが、そのことが大っぴらになってしまうと、エリはふしだらな女性と見られてしまいかねません。そこで、最後まで、セピデーたちは、現地に現れたエリの婚約者に対して、自分たちはエリが婚約していたことは知らなかったという態度をとります。
 こんな状況は、どこの国でも見かける「普通のこと」なのでしょうか?  
 この点が、単なるエピソードにすぎないのであれば無視すれば済みますが、エリに関する情報が次第に明らかになっていく様子は、この映画のコウはにおいては重要な要素ですから、とても無視するわけにはいかないでしょう。

 では、前半部分はどうでしょうか?
 「女性たちはチャドルで髪を隠している」とか、「エリが消えてから、混乱した彼らはさまざまな言葉を投げ掛け合い、その心の底に抱いている伝統的な価値観のようなものを露呈していくことになる」といった沢木氏が挙げる点も、もちろんイランの現状を表しているでしょう。
 でもそれだけではありますまい。
 たとえば、親しい3家族が久し振りで会ったにもかかわらず、第1日目の夜は、大層大人しくジェスチャー・ゲームを楽しんでおしまいなのです。
 ただ、こうした場合には、日本や西欧諸国だったら、カラオケとかロック・パーティーといったものが考えられるのではないでしょうか?
 ここにはもしかしたら、ある種の規制が働いているのでは、と考えるべきではないでしょうか?
 元々、イランに関しては、西欧文化の受け入れなどにつき、様々な規制の存在が指摘されています。
 たとえば、ロックなどの西洋音楽や飲酒は禁止されています(注1)。
 また、マイナーな問題かもしれませんが、イラン女性は、サッカー競技場での観戦が禁止されてもいます(注2)。
 さらに、この映画の主役セピデーを演じるゴルシフテェ・ファラハニーは、『ワールド・オブ・ライズ』で世界的に知られることになりましたが、却ってイラン当局の反感を買い、一時はイランからの出国を禁じられる羽目になったとのこと(劇場用パンフレットによる)(注3)。



 とすれば、むしろ、この作品に如実に映し出されなかった事柄、隠されている事柄、そういったものに思いをはせるべきなのではないでしょうか?まさにそういうものが陰に存在するからこそ、そうしたものを正面切って描いていないからこそ、この作品はイラン特有の映画と考えるべきなのではないでしょうか?イランではなくどこでも構わないような抽象的な映画として制作せざるを得なかった、というところを見るべきではないでしょうか?

 そして、隠されていることについては、エリの場合もそうですが、なにかおかしいと人々が気付き始め、ついにはセピデーと同じように明るみに出さざるを得なくなることでしょう。たとえ、エリのことを慮ってセピデーのようにあくまでも善意で隠していたとしても、それがわかった時には、人々は、セピデーに対するのと同じように、不信感を持ってしまうのではないでしょうか?

 沢木氏は、「この作品で、ついに「イラン」というレッテルなしの、「普通」の映画に触れることができたように思える」と述べていますが、悪くとれば、まるでイラン映画が西欧映画の水準にまでレベルアップしてきたような言い方に思えます。
 ですが、けっしてそんなことはないのではないでしょうか?
 この映画はどこまでも「イラン映画」であって、だからこそ味わい深い優れた映画だといえるのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏が、ご自身の公式ブログでこの映画についてのレビューを公開しています。
 同氏は、「恋愛や結婚について我々とは異なる風習、価値観が息づくイラン社会。そんな中でもがいた女性の姿と、観客にそれぞれの答えを求めるかのようなラストが印象深い。心理劇として楽しんだ後に、イスラム社会のフェミニズムの問題がゆっくりと立ち上ってくる。イラン女性が身につけるスカーフや丈の長い衣服の下には、どんな不安や不満が隠れているのだろうか。楽しそうに凧をあげるエリの姿が目に焼き付くが、彼女を縛るメタファーの凧の糸は、はたして自由や幸福を与えてくれたのか。見終わって深い余韻が残った」として、70点をこの作品に付けています。


(注1)もっとも、春日孝之著『イランはこれからどうなるのか―「イスラム大国」の真実』(新潮選書、2010.9)によれば、「もはや当局がプライベートな生活の領域まで口出しするという時代状況ではなくなっている。ホームパーティーにしても、女性の服装にしても、アルコールや衛星放送の視聴にしても、当局は国民の「不満のガス抜き」のために黙認しているというより、「不満の暴発」を避けるために黙認せざるを得なくなっているというのが実情だろう」(P.60)とのことです。
 確かに、先般の『ペルシャ猫を誰も知らない』では、アシュカンが、消息不明になったナデルを探すべくある邸宅内に入り込むと、そこではアルコールがふんだんに振る舞われ、大音量のポップミュージックが流れています。
 ですが、突然警察がなだれ込んできて、逃げ場を失ったアシュカンが悲劇に襲われます。
 また、春日氏の著書でも、「09年6月の大統領選挙後の様子」が、それまでとは違っている様子が述べられています(P.26~P.28)。

(注2)この問題を扱ったイラン映画『オフサイド・ガールズ』(2006年)は、イラン国内では上映禁止ですし、その監督のジャファル・パナヒ氏は、本年3月に、昨年6月のイラン大統領選挙に関する反政府的内容の作品を制作したのを理由に拘束されました(5月末の報道では保釈されたとのこと。さらにこんな報道もあります)。

(注3)9月27日朝日新聞夕刊に、この映画を製作したアスガー・ファルハディ監督について、次のような記事が掲載されていました。
 「イランの文化・イスラム指導省は、国際的に知られる映画監督アスガー・ファルハディ氏が「不適切な発言をした」として、同監督が撮影を進めていた最新作の制作許可を取り消した。26日付イラン各紙が伝えた。/シャルグ紙などによると、ファルハディ監督は19日、テヘランであった国内映画祭の授賞式で「国外に逃げた映画監督や俳優が、再びイランに戻って活動できることを望んでいる」と語った。これを同省の映画部門が問題視して発言の撤回を要求。しかし、ファルハディ監督は応じず、同省は最新作「ナデルとシミンの離婚」の制作許可を取り消すことを24日に決めた。撮影は全体の20%まで済んでいたという。/ただ、当局者はイラン学生通信に「処分は一時的なもの」と語っており、監督としての活動そのものが禁じられたわけではなさそうだ。」



  ★★★★☆


象のロケット:彼女が消えた浜辺

ようこそ、アムステルダム国立美術館へ

2010年09月22日 | 洋画(10年)
 美術館の裏側を取り扱っているというので、日頃美術館を覗くことが多いこともあって、『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』を見に、渋谷のユーロスペースに行ってきました。

(1)この映画は、老朽化などの問題を抱えるアムステルダム国立美術館をリニューアルしようとする際の騒動を描いたドキュメンタリーです。



 すなわち、1885年に建築家ピエール・カイパースによって建てられたアムステルダム国立美術館が、その後の増改築によって迷宮のようになってしまっていたのを、現代の要請に適ったものにリニューアルすべく、2004年からまず解体工事が着手されました。
 ところが、様々な障害にぶつかり計画が頓挫し、漸く2008年末に改築工事が着手され、2013年のリニューアル・オープンを目指して現在工事中といった有様なのです〔この映画は、改築工事にかかる第1回目の入札が不調に終わった2008年の時点までを描いていて、その後は続編となる予定〕。

 このドキュメンタリー映画からは様々の論点を取り上げることができ、興味が尽きません。

a.コンペで第1位をとったデザインに対して、市民団体等が激しく拒否反応を示します。
 というのも、リニューアルの設計コンペで1位を獲得したスペイン人の建築家の案ではこれまでのような市民生活が営めないと、特にサイクリスト協会が強く反対したのです。すなわち、これまでの美術館の中央部分は、市の南北を結ぶ道路が貫通していて、オランダに多い自転車利用者が大勢通行しているわけですが、設計案ではそのための道路幅が狭くなってしまうというわけです。
 設計を担当した建築家のほうは、そういうことも十分に考慮して案を提示していると反論します。にもかかわらず、結局は当初案をかなり改変しなくてはならなくなってしまいます〔新しい設計案がまとまったことを祝う会合の場で、設計者は、サイクリスト協会が「自転車専用道路がなくなってしまう」とのデマを流したことが、こんなに紛糾した原因だなどとつぶやきます。美術館側の地元に対する十分な根回しが足らなかったことが、大きかったものと思われます〕。
 むろん、国費でリニューアルするのですから、地元市民の意見も十分尊重する必要があるとはいえ、建築デザインという点では素人にすぎない市民たちの意見をどれだけ尊重すべきなのかは、議論の余地があると思われます。まして、影響力の誇示という面から特定の団体ののごり押しがあったとすれば、重大問題でしょう!

b.新たに研究棟を併設しようとしますが、これも大きな抵抗にぶつかります。
 こちらは市民団体の反対というよりも、美術館が設けられている地域全体の景観が、背の高い研究棟を設けることで損なわれてしまうという批判によって、当初案よりもかなり小規模なものにせざるを得なくなってしまいます〔映画の中では、設計を担当した建築家が、裏で館長デ・レーウが画策したのではないか、と述べたりしていますが〕。
 ただ、美術館の後方支援部隊が陣取るはずの研究棟の縮小は、美術館の機能そのものの縮小につながる恐れがあり、街の景観の保持という観点からのみ議論すべきかどうか、大きな問題が残ると思います。

c.新しい美術館における美術品の展示に関して、美術館に所属する学芸員が様々のアイデアを出します。すなわち、各世紀の時代感覚が来訪者によく分かるように展示をしようと、それぞれの世紀ごとの主任学芸員が方針を示し、それについて皆で議論をします。
 ただ、このように美術品を見る枠組みを、美術館側で前もって設定してしまうことに問題はないでしょうか〔そもそも、どうして担当する学芸員のアイデアに見学者は従わざるを得ないのでしょうか?〕?
 むろん、歴史的な流れの中で美術品をとらえたいと思う人もいるでしょう。ですが、美術品は、歴史的に規定されておしまいというわけではないでしょう。それ独自の良さがあるはずですし、もしかしたら、古いものの方が、未来を捉えているかもしれません。
 来訪者には様々な人がいるものと思います。美術館側としては、鑑賞者に予め先入観を植え付けずに、直接美術品に新鮮な眼差しで対峙できるようにすべきではないか、と思われるところです〔そうして立場からは、風景画、肖像画などといった従来のジャンル別の陳列方法も、一定の意味があるのではないかと思われるところです〕。

d.ようやく決定した設計に基づいて、それを施工する業者を決定する業者を決めるために入札を行います。ところが、応札した企業が1社だけということもあって、入札価格は予算額を大きく超えてしまいます。こんな場合、どうしたらいいのでしょうか?
 ただ、実際に応札した会社は、一社しか入札に参加しないことをどうして事前に知りえたのでしょう。それに、知っていれば応札額をできるだけ高額にするでしょうが、それが予算額を超えてしまえば、入札不調となって元も子もなくしてしまいます〔このリニューアル工事については、ほぼ倍額の応札額でした!〕。
 仮に知らなかったのであれば、入札が不調だったのは、あるいは予算額の算定の方に問題があるからかもしれません。
 また、応札企業数が複数あれば予算額の範囲に収まったかどうかも、予算額算定方法の問題もあって、判断が難しいでしょう。

e.途中で、このリニューアルを強力に推進してきた館長ドナルド・デ・レーウ氏が辞任してしまいます。こうした大事業を推進するに当たり、現場の館長の果たすべき役割は何なのか、いろいろ考えさせるものがあります。
 この映画からは、様々の出来事に翻弄されている人物という印象を受けますが、周囲の人々の話の端々からは、実際には、自分の思う方向に何事も引っ張っていこうとする剛腕の持ち主でもあるようです。
 いずれにせよ、この人物が館長だったから、リニューアル工事がこんなにも遅延してしまったのか、そうではなくて、リニューアルの全体像がここまで漕ぎつけたのも彼の手腕によるものだというのか、いずれが正解なのかは、後しばらくしなくては評価を下せないことでしょう。
 なお、ドナルド・デ・レーウ氏は、映画で述べているところによれば、ウィーンとイタリアに自宅を持っていて、遊ぶためにはイタリアに行き、音楽や絵を楽しむためにはウィーンに赴くという生活を営むとのこと。オランダの公的機関のトップともなると、引退後に、そんな夢のような生活ができるのだなと驚いてしまいました。

f.新しくアジア館を造成するにあたり、その入口に、日本から、仁王門にある仁王像を持ってこようとします。日本の古い美術品の海外流出については、どう考えたらいいのでしょうか?
 この映画で紹介されているのは、既に閉鎖されているお寺(島根県の岩屋寺)の山門にあった2体の仁王像(南北朝時代)で、この美術館によって購入されオランダで公開されるわけですから、日本美術の海外紹介という点からみても何ら問題はないでしょう。おまけに、それを見上げる担当学芸員の目の輝きを見たら、まさにうってつけの陳列場所といえるかもしれません。
 ただ、仁王像は、単に美術品として眺められるべきものでもないはずです。当時の地方の宗教事情を窺うよすがとなる歴史的遺物でもあるはずです。そうした観点に立てば、それを所蔵する寺院が閉鎖されていようとも、自由に誰でも購入できるわけではなく、たとえば国の研究機関が買い上げて所蔵すべきではなかったでしょうか?
 としても、どのみち収蔵庫の中に収められて日の目を見ないのであれば、オランダとはいえ、皆の見えるところに置く方が意味はあるのかもしれませんが。

(2)建築家の描いたデザインに対して素人集団が批判するという図式に関して思い起こされるのは、少々古いことになりますが、7月17日の記事で取り上げました伊東豊雄氏が設計した「せんだいメディアテーク」(smt:2001年開館)の建設を巡る経緯です(注)。



 この建物は、市民ギャラリーと市民図書館の2つの機能を入れることを主な目的として、市バス車庫だった空き地に作られることになります。
 まず、建築家の磯崎新氏を審査委員長とする審査委員会が設けられ、公募によるコンペによって設計者が決められることになります。多くの応募作品の中から、最終的には審査委員の多数決で、伊東豊雄氏の作品が最優秀作に選ばれます(1995年3月)。
 それと時を同じくして(設計案を公募する前ではなくて)、仙台市は、この「メディアテーク」に対する構想を作り上げようと、「プロジェクト検討委員会」を発足させたり(1996年5月最終報告書)、また芸術協会との打ち合わせとか、「メディアテークわいわいトーク」と題する市民との懇談会の場を設けたりします。
 こうした最中、1995年10月31日の『河北新報』に、伊東氏の設計構想を土台から批判する記事が掲載されたりします。
 すなわち、ごく大雑把に言うと、通常のラーメン構造(長方形に組まれた骨組から成る)では、四角の柱が等間隔に置かれるのが普通ですが、伊東氏の設計案におけるチューブ構造では、内部が見えるチューブ状の柱が不規則に配置され不均質な内部空間が生み出されます。
 こうしたことに対し、「ケヤキ並木を模した12本の「チューブ」」が「邪魔」をするために、「展示スペースとして使い物にならない」、「必要面積を大きく割り込む」、「チューブのインパクトが強すぎる。展示作品がかすんでしまう」などの反対論が出されていると言うのです。



 果ては、コンペによって設計案を決める方式が拙かったのであり、従来のようにゼネコンと組んでやれば、機能優先、デザインはそこそこという建物になって、こんな議論は起きなかった、という関係者も現れる始末。

 まさにアムステルダム国立美術館のリニューアル工事と同じような事態に陥りかねない状況になりかかったわけですが、伊東氏が、そうした記事を掲載した『河北新報』に対して、厳しい内容の「質問状」を送りつけたり、同紙も伊東氏の見解を大きく掲載したことなどから、反対論も次第に沈静化し、2001年1月の開館を迎えるに至りました。


(注)ここでは、伊東豊雄建築設計事務所編著『建築:非線形の出来事』(彰国社、2003年)などを参考にしました。

(3)この美術館の目玉と言えば、レンブラント作『夜警』でしょう。



 新しい美術館では、その中心的なところにこの絵が置かれることになっているようです。
 また、この映画の中では、レンブラントの絵自体はきちんと映し出されないものの、彼の前にも何作か同じ主題で描かれていて、そのうちの二つについて新しい美術館で展示すべきかどうか議論されたりします。



 ところで、レンブラントの『夜警』については、ピーター・グリーナウェイ監督が主題的に映画『レンブラントの夜警』(2007年)で取り上げています。



 同作品は、東京では、今は廃館になってしまったタカシマヤタイムズスクエア12階のテアトルタイムズスクエアで公開され、見に行った記憶はあるものの、登場人物の数が夥しく、かつ聞きなれない人名ばかりが飛び交うために、大雑把なストーリーを把握するのがヤットでした。
 現在ではDVDを借りてゆっくり見ることができますし、その際に入手した監督自身が書いた同名の小説(倉田真木訳、ランダムハウス講談社、2008年)をも参考にすると、この映画では、絵の中央に描かれている市警団隊長バニング=コックと、副隊長ライテンブルフ、それに団員のヨンキントが、前任者を追い出すべくヨンキントが手にするマスケット銃で射殺したことをレンブラントが告発しているとされます。
 一般には、前任のハッセルブルフ隊長は、銃の暴発の事故に遭ったとされ、レンブラントの告発も不発に終わりますが、この絵を制作したことをピークに、その後は公私にわたって下降線を辿ることになるようです。

 このグリーナウェイの映画は、レンブラントが、『夜警』を描くことで市警団の罪を告発しているのだという仮説を提示するものですが、他方で、ドキュメンタリー『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』は、図らずも、リニューアル工事の遅延の原因がどこにあるのかを告発している作品とも言えるかもしれません。

(4)映画評論家では福本次郎氏が、「美術品という目に見える部分しか普段注目されない美術館も、当然運営しているのは生身の人間。彼らがむき出しの感情で己の主張を繰り返す姿は、そこに展示されているアートよりも人間の本質に迫っている。その皮肉な結末こそがドキュメンタリーとしての面白さを加速させていた」として50点をつけています。



★★★★☆




象のロケット:ようこそ、アムステルダム国立美術館へ

ペルシャ猫を誰も知らない

2010年09月18日 | 洋画(10年)
 予告編を見て興味をひかれたので、イラン映画『ペルシャ猫を誰も知らない』を見に渋谷のユーロスペースに行ってきました。

(1)映画は、ポップ・ミュージックが厳しく規制されているイランにおける若者たちの音楽活動を、ヴィヴィッドに描き出しています。
 ネガルとそのボーイフレンドのアシュカンは、ともにインディー・ロックをやるミュージシャンですが、メンバーを集め出国してロンドンでライブ演奏する、という夢を持っています(イラン国内では到底無理なので)。
 便利屋のナデルにそのことを相談すると、まず国内でCDを制作し、ライブ演奏をして資金を集めてから外国へ行くべきであり、それに協力すると言われます。そこで、ナデルを通じて、パスポートやビザの偽造を専門家に依頼する一方で、メンバー探しにテヘラン中を動き回ります。
 何とかメンバーは集まり、秘密裡のコンサート開催まで漕ぎつけます。



 ですが、偽造の専門家が警察に捕まって万事休す、責任を感じたナデルは、ネガルらの前から姿を消してしまいます。
 そんなナデルが見つかったとの知らせで、アシュカンは現場に赴くものの、そこは秘密のアジトで、ナデルは酒浸り状態。としたところ、警察に踏み込まれて、……。

 この映画は、実際のイランのミュージシャンらを使いながら、イラン国内で撮影して出来上がったもので、物語もかなり実話に近いとされています。
 イラン当局の厳しい規制のことを考えれば、よくこんな映画が製作されたものだと驚いてしまいます。なにしろ、ナデルらがバイクにまたがってテヘランの市内を走り回る姿が公然と撮られていたり、ネガルとアシュカンが車で移動中に警察による尋問を受けますが(ペットを外に持ち出したことが見咎められました)、その様子が映し出されたりするのですから。
 結果として、監督のバフマン・ゴバディ氏は現在イランから出国しており、またネガルとアシュカンを演じた二人も、今はロンドンに住んでいるようです。

 にもかかわらず、映画では、アンダーグラウンドで演奏されている各種の音楽(ヘビメタ、ロック、伝統音楽、ヒップホップなど)が上手に紹介されているだけでなく(注)、物語自体も、実際のテヘラン市の街並みを背景としながら、ラブ・ロマンスとして展開され、悲劇的なラストに向かって巧みに綴られています。

 こうなると、映画の中でヒップホップが歌われるからというわけではありませんが(Hichkasというグループが歌っています)、先日見た『SRサイタマノラッパー2』と比べてみたくなります。
 というのも、映画に登場するグループはどちらも、なんとかしてライブ演奏をと望みますが、結局は挫折してしまうという点でよく似ているからです。
 ただ、その理由が異なっているようにみえます。すなわち、『SRサイタマノラッパー2』のB-hackの場合には、資金不足という経済的な問題によって、『ペルシャ猫』の場合には、政治的理由に基づく規制によって、ライブコンサートの開催が困難になります(第1作の『SRサイタマノラッパー』に登場するSho-gungの場合は、仲間割れが直接の引き金でした)。
 とすると、ここが一番よく分からないところなのですが、『ペルシャ猫』におけるミュージシャンは、どのようにして日々の生活の糧を得ているのでしょうか?
 エレキ・ギターなどの楽器とか様々の音響機器を、どうやって購入しているのでしょうか(牛舎の中で練習しているヘビメタのグループが映し出されますが、機材は一応揃っている感じです)?
 確かに、アシュカンは、パスポート等の偽造に必要な費用は、ドイツにいる母親からの送金で大丈夫だと言ったりします。あるいは、アンダーグラウンドで音楽をやっている若者らは、裕福な家庭の出なのかも知れません。
 ですが、一方で、ナデルは、費用の捻出のために愛用のバイクを売り払ったりしています。
 さらには、イラン経済は、慢性的なインフレと高い失業率(特に若年層の)苦しんでいて、親からの援助も早々期待できないのではと思われるところです。

 むろん、音楽映画ですから、何もかもを期待するのは無理とはいえ、わずかでもいいからそうした方面が分かる事例が描き出されていればなと思いました。


(注)この映画のサントラ盤に関する感想については、たとえばこのサイトの記事を参照。


(2)イランと西欧文化の関係というと、以前読んだことのある『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著、市川恵里訳、2006年、白水社)が思い出されます。
 この著書は、イラン人の女性英文学者の著者が、1997年にイランを出国するまで3年間ほど続けた秘密の研究会(著者の自宅で、ナボコフやオースティンなどが書いた西洋文学を、女子生徒たちと一緒に読む)のことを中心に書き綴った文学的回想録です。

 同書には、イランの厳しい状況がいくつも書き記されています。
 たとえば、映画との関連から、音楽会に関するものを拾い出してみましょう。
 「演奏は厳しく監視され、登場するのは、その夜、私たちが見に行ったようなアマチュア演奏家がほとんどだった。それでも会場はつねに満員で、チケットは売り切れ、プログラムはいつも少々遅れてはじまった。……まず登場したのはひとりの紳士で、たっぷり15分から20分も聴衆を侮辱し、われわれは頽廃的な西洋文化に毒された「金持ちの帝国主義者」の聴衆を楽しませるつもりはない、と言った。……出演したのは、いずれも素人の、若いイラン人男性4人のグループで、ジプシー・キングスの演奏で私たちを楽しませてくれた。ただし歌うことは許されず、楽器演奏しかできなかった。そのうえ少しでも演奏に熱中している様子を見せてはいけないときている。感情をあらわにするのは反イスラーム的だからだ」(P.410~411)。

 また、たとえば次のような記述もあります。
 「ここ20年ほどのあいだに、通りは危険な場所になった。規則に従わない若い女性はパトロールカーに放りこまれて監獄に連行され、鞭打たれて罰金を科され、トイレ掃除をさせられ、屈辱的な扱いを受け、自由の身になったとたんに、戻ってまた同じことをする」(P.45)。

 こうしたエピソードの記述は、10年以上も前の事柄ですし、また著者が現在はアメリカ在住だということも考え合わせる必要があるでしょう〔今回の映画『ペルシャ猫』自体も、イランの核開発に対する西欧諸国の制裁という状況の中で制作されていることも、考え合わせる必要があるでしょう〕。

(3)イラン映画に関しては、アッバス・キアロスタミ監督の作品がよく知られています。
 なお、同監督の作品については、時点はヤヤ古くなり、かつまた同監督作品を直接論じたものではありませんが、この記事が多少参考になるのではと思われます。

(4)この映画については、「映画ジャッジ」の評論家の論評はありませんが、映画評論家の村山匡一郎氏は、8月6日付け日経新聞に掲載された記事において、「当局による欧米文化の厳しい規制を逃れてアンダーグラウンドで音楽活動をする若者たちの姿を生々しく活写している」として「★★★★☆(見逃せない)」の評価を与えています。
 また、恩田泰子氏(読売新聞東京本社文化部記者)は、8月6日付け読売新聞に掲載された記事において、「素晴らしいのは、心揺さぶる音楽を鮮やかにとらえ、作り手たちの苦境を描くことでイランの矛盾をあぶり出したこと。変革を叫ぶため音楽を利用するのではなく、表現のために変革が必要だと自然に伝える」と述べています。




★★★☆☆






瞳の奥の秘密

2010年09月15日 | 洋画(10年)
本年度のアカデミー賞の最優秀外国語映画賞受賞作ということであればぜひ見てみたいと思い、『瞳の奥の秘密』を日比谷のTOHOシャンテに行ってみました。

(1)この映画では、裁判所の書記官のベンハミンと、彼の上司だった判事補イレーネとの時を隔てた愛の物語と、彼らが昔携わったことのある殺人事件の物語との二つが絡み合うように描かれています。

裁判所を定年退職したベンハミンは、時間的な余裕が出来たことから、25年前に取り扱った殺人事件を基に小説を書こうとし、そのことをやはり25年ぶりに再会したイレーネに告げます。
その事件とは、銀行員モラレスの23歳の妻が、1974年に、自宅で暴行を受けた上で殺害されたというもの。ベンハミンは、部下で友人のパブロと共に、捜査線上に浮かび上がってきた容疑者ゴメスを追い求め、紆余曲折はあるものの、遂にサッカー場で逮捕します。
ただ、25年後にこの事件を小説として取り上げるにあたり、当時犯人追及に異常な熱意を見せていた被害者の夫モラレスを探し出して会ったところ、意外な事実が分かります。その事実とは、……。
それらの経緯を踏まえて書き上げられた小説を、ベンハミンはイレーネに手渡します。
ベンハミンは、この事件の絡みで彼女とは別れてしまったのであり、その間に彼女は、検事に昇格しただけでなく、別の男と結婚し今や2児の母親。ですが、ベンハミンは、この25年もの間、変わらぬ愛を彼女に対して持ち続けていて、小説を書いたのもそういう自分と正面から向き合うためでした。
さあ、小説を手渡された彼女はどうするでしょうか、……。

アルゼンチンの映画はこれまで見たことはありませんが、この映画は、殺人事件そのものと、その捜査に関与した人たちの恋愛とか友情を、主人公が小説を書くという行為を軸にして、巧みに、かつ重厚に描いていて、深い感銘を見る者に与えます。
また、出演者は初めて見る俳優ばかりですが、実に魅力的です。主役のベンハミンを演じるリカルド・ダリンは、とても非エリートコースを歩む男には見えない知的で渋みのある風貌をしていますし、相手役のイレーネを演じるソレダ・ビジャミルの美貌は圧倒的です。さらに、ベンハミンの部下のパブロ役のギレルモ・フランチェラも、アル中ながら事件解決に大きく貢献するという難しい役柄を実に上手にこなしています。
アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞したことが頷ける作品ではないかと思いました。

(2)とはいえ、この作品には大きな問題点があるのではないかと思います〔尤も、評者の理解力が酷く乏しいせいで問題と思えてしまうのかもしれませんが〕。
というのも、この映画で大きな意味が与えられているのはベンハミンの小説ですが、一体彼は何故小説を書くのか、十分な説得力を持って説明されてはいないのではないかと思われるからです。

定年退職したベンハミンは、25年前の殺人事件はまだ解決していないからとして小説を書くものの、その殺人事件の真犯人ゴメスをベンハミンは自ら逮捕したのですから、事件として曖昧な点は何もなく、解決済みのはずです。何を今更解明しようというのでしょうか?

ただ、ゴメスは終身刑に処せられたにもかかわらず、その後釈放され大統領のSPになった点を、あるいは問題にしたいのかもしれません。終身刑の者が釈放されるという当時の政治状況(きわめて不安定なイザベル・ペロン政権→軍事政権)を、小説で告発したいということなのでしょうか?
ですが、この映画が、ある程度ベンハミンの小説を反映しているとしたら、その限りでは余り政治色を帯びてはいないように思えます。ゴメスの釈放を知ったベンハミンとイレーネが、上司の判事に抗議したところ、もっと大きな正義が優先したのだとか何とか言われてそれきりです。当時そんな程度で引き下がっているのであれば、今頃になってわざわざ小説仕立てにするまでもないのではないでしょうか?

そうではなくて、ベンハミンの部下で友人のパブロが、ベンハミンの自宅で何者かによって殺されたことを、小説で取り上げようとしたのでしょうか?
パブロを殺したのはゴメスだとして、ベンハミンは安全確保のため地方に身を隠します。ただ、人違いでパブロが殺されたとしたら、ベンハミン自体は安全で、地方に行く必要がなかったのではないでしょうか?それに、ゴメスの復讐の思いが強ければ、国外に出ずに地方に行ったくらいでは、大統領のSPには簡単に探し出されてしまうでしょう。
また、その手配をしたイレーネは、自身が殺人事件の解決に一役買っているにもかかわらず(ゴメスのプライドを酷く傷つけることで、自供に追い込みます)、隠れようとはしません。

やはり、ベンハミンのイレーネに対してズッと懐いていた思いを、殺人事件に絡めつつ述べてみようとしたということでしょうか?
しかし、そんな難しいことを、これまで小説を書いたようには見えないベンハミンが、定年を過ぎてから、いくら時間がたっぷりあるとはいえ、敢えて行おうとするでしょうか? 

それに、なぜ、なぜ単なるレポートではなく小説なのでしょうか?不確定なところを想像で補うためなのでしょうか?でも、この小説は公表するために書かれたのでしょうか(単に、イレーネに読んでもらうためのものではないでしょうか)?公表しないとしたら、なにもわざわざ小説の形式をとる必要もないと思われますが。
あるいは、モラレスが亡き妻を思い続ける姿勢に愛の究極を見て、それに自分のイレーネに対する想いをなぞらえる、ということかもしれません。でも、モラエスは単に自分の拘りを捨てきれないだけではないでしょうか?犯人ゴメスに対しどんなことをしようとも、亡き妻は生き返りませんし、従ってモラエスの恨みも晴れないことでしょうから!

いったいなぜベンハミンは小説を書こうとしたのでしょうか?

(3)この映画の中では、モラレスの妻が、何者かによって強姦され殺される場面が最初の方に映し出されますが、これは一体誰の目から見た映像なのでしょうか?
誰であっても、人殺しの様を黙って見ているはずがないのではないでしょうか?あるいは、ベンハミンの小説に書かれているかもしれない場面を、単に映像化しただけと考えるべきなのでしょうか?それとも、普通の映画で見られる、第三者的な目(“神の目”)によるものにすぎないのでしょうか?

また、モラレスが、真犯人ゴメスを捕まえて車のトランクに放り込み、電車の騒音で拳銃の音を掻き消しつつ、銃弾を浴びせて殺してしまう場面が描かれます。
これは、ベンハミンに対して夫が説明したことに基づいて映像化されているものでしょう。ですが、このリアルなシーンを挿入することには、何の意味があるのでしょう。実際にはすぐ後で、ゴメスをモラレスが小屋に監禁していることが明らかになるのですから。

また、パブロが殺されるシーンが画像として映し出されます。それも、わざとベンハミンの身代わりになって、というように説明されます。あるいはベンハミンが、小説の中で想像によって書いている部分なのかも知れません。

もっといえば、サッカー場で、ベンハミンらがゴメスを探し出して追跡する場面がありますが、これはまるでカメラが追跡者の目になったように映し出されます。要すれば、ここでは、追跡者の目で見た情景が描かれているというわけです。

というようなことを考え合わせると、この映画はどうも一筋縄ではいかないような構造になっているのではと思えてきます。
特に、ラストで、ベンハミンはイレーネに、自分が書きあげた小説を渡しますが、もしかしたら、事件から25年目の出来事自体(ベンハミンが、イレーネに再会し小説を書こうと考えていることを告げ、25年前の事件のことを再び調べ始めること)も、リアルタイムのように描かれているものの、その小説の中の事柄にすぎないのかもしれません!
さらに言えば、それからしばらくして出来上がった小説をベンハミンはイレーネに渡しますが、それもベンハミンの小説の中の出来事だったりして!
というのも、小説という形で思いを伝えたベンハミンに対して、イレーネは、これでやっと自分の思いも適うといった眼差しで「時間がかかるわよ」と言います。ですが、検事まで昇格し2児の母親であり、多分50歳くらいにもなるイレーネが、そんなものを全て投げ出して思いを遂げるなんてことは常識(こちらが持ち合わせているのは、特段大した常識ではありませんが)を越えているからです。これは、ひょっとしたら、ベンハミンの願望に過ぎないのではないでしょうか?

そこまで言うとしたら、いっそのこと、この映画で描かれているものはすべてベンハミンの小説の中でのことと考えた方がいいのでは、とも思えます。でもそうなると、この映画の原作の小説(エドゥアルド・サチェリ作)との関係はどうなるのか、という問題が生じでしまうかもしれません!
それに、そんな解釈では、全てが夢だったとする解釈と同じように、体のいい逃げ(解釈の放棄)に過ぎないのではとも思えてきます。

(4)映画評論家はこの映画に対して高得点を与えています。
渡まち子氏は、「この映画の素晴らしい点は、あくまでも個人の視点で事件を語り、結果としてその視座が歴史を照射したことにある。サスペンスと人間ドラマと愛の物語が交錯する構成は、まるで、クラシックやジャズ、ミロンガのような民俗音楽を柔軟に取り入れて熟成したタンゴの調べのよう」であるし、「主人公は、政治によって辛酸をなめるが、それでも未来へ向かう勇気を得る。時を経た愛の形が、深い余韻を残し、忘れえぬ作品になった」として95点もの高得点を与え、
福本次郎氏も、サッカースタジアムのシーンは、「登場人物の焦燥感や荒い息遣いがテンションの爆発しそうな映像に焼きつけられる」し、容疑者と主人公らの対決のシーンは、「怒りや恐怖といった感情を非常に細やかに表現する。心理の深層を衝く見事な演出」であり、また「ベンハミンの小説はミステリーに姿を借りた壮大なラブレターだったという構成には唸るばかりだった」として80点を与えています。



★★★☆☆



象のロケット:瞳の奥の秘密

シルビアのいる街で

2010年09月11日 | 洋画(10年)
 ストラスブールがじっくりと描かれていることに興味をひかれて、『シルビアのいる街で』を見に、渋谷のイメージフォーラムに行ってきました。
 この映画館は、今年の初めに『倫敦から来た男』を見て以来のことです。

(1)この映画のストーリーといったら、数行で済ますことができるでしょう。
 すなわち、ドイツとの国境に近いストラスブールを訪れた画家志望の青年(グザヴィエ・ラフィット)が、演劇学校前のカフェに座りながら、6年前にこの街で見かけたシルビアを探すうち、それらしい女性(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)が目にとまり、ずっと彼女の後を尾行するも結局人違いとわかります、ですが、その青年は翌日から再び同じカフェで人探しを続ける、というものです。



 会話のシーンといったら、自分が尾行した女性と青年との簡単なやり取りだけで、あとはストラスブールの中心街らしきところを、青年と女性が歩きまわるシーンばかりなのです。
 と言って、この作品は、ストラスブールの観光案内映画ではありません。
大聖堂とか美術館、欧州議会などといった名所には目もくれず、ヨーロッパではごく普通と思われる都市の風景が描かれます。
 ですが、日本の都市の風景とはまるで異なっており、両側の時代を経た石造りの重厚な建物の間を、最新のトラム(窓が広く取られていて、またバリアフリーで床がかなり低い位置にあります)が走ったりしています。

 女性は、そうした表通りから脇道に逸れ、裏通りを、そして再び表通りを、足早にどんどん歩いていきます。



 青年の方も後を追いかけるので精一杯、彼女がトラムに乗ったためにようやく追い付いて、青年は彼女に話しかけます。
 しかし、彼女はシルビアという名前ではなく、単に1年前この街にやってきたにすぎないとの話。加えて、尾行されているのはずっとわかっていて、彼をまく為に路地に入っていったり、店に立ち寄ったりしたとのこと。あいにくとその店は閉店していたためにうまくいかなかったようですが。
 これには彼は驚き、「What a disaster(英語字幕)」と言いながら謝罪します。

 たったこれだけのことを描いている作品ながら、1時間半近い映画を最後まで退屈せずに見てしまうのですから、観客として実に不思議の感に打たれます。

 たぶん、その一つの要素は、登場する女性が皆若くて美人ばかりということがあるかも知れません。
 なかでも、やはりシルビア似の女性は、スタイル抜群で、全身からいつもオーラを発散しているようです。そんな女性なら、いつまでも見ていようという気にもなってきます。



 ただ、それだけでなく、カフェで青年が見かける女性が、皆とびきりの美人ばかりなことにも驚いてしまいます。初めのうちは、演劇学校の前にあるカフェだから、そこに出入りする女性は、美人が多いのかもしれない、などと思ってしまいますが、こうも青年が見つめる女性が美人ばかりだと、違ったようにも思えてきます。
 すなわち、シルビアの面影を探している青年には、どの女性にもシルビアらしいところを見てしまうのかもしれない、美人に見えるのは青年の目からなのであって、客観的に外から見れば、どこの都会のカフェにでも座っていそうな普通の女性ばかりなのではないか、と思えてきます。
 なにしろ、シルビアだと思って尾行し続けた挙句、人違いだとわかるわけですから、青年の目には確からしさがないのではないでしょうか?

 マアともかく、すごく不思議な映画時間を体験したというべきでしょう。

(2)上でも書きましたように、この映画ではストラスブールの脇道の様子がじっくりと描き出されています。
 たとえば、冒頭では、青年が宿泊する簡易ホテル(hotel patricia)の部屋の様子が描かれ、次いでホテルの前の道(画面の手前から奥に向かっています)とそれに直行する道(画面の左右に通じています)の様子が、手前の方向から見た画像として長々と映し出されます。
 午前中のことでしょう、人々が次々とこの道を通っていきます。
 最後に、右手に位置するホテルの出入り口から青年が現れて去って行くところを映してこのシーンは次のシーンに変わります。

 これはこれでよく見かける画像でしょう。ただ、途中でなんとなくですが変な気がしてきます。というのも、正面の左右に通じる道路に通行人が登場する仕方やその歩き方が、なんだか不自然な感じがするのです。そんな風に人は通らないし、歩かないのではないか、という感じがしてきます。なにか、演劇を見ているように、計算され尽くしたプランに従って人々が行動しているように思えるのです。

 と思って、劇場用パンフレットに掲載されている監督(ホセ・ルイス・ゲリン)のインタビュー記事を読みましたら、「すべての要素をコントロールしながら撮影するのが私の希望」であり、「街それ自体が持っているリズムを正確に把握して、俳優たちを配置し」たし、「自転車が出てきたりという場面もすべて自分が構成し」たから、「すべての場面に計算されたところと、偶然のものという対比・対立があ」る、とあります。

 同監督は、小津安二郎の『東京物語』に魅せられ、この映画も小津監督のようにやりたいと考えたとのこと。
 なるほど、こういうところにまで小津安二郎の影響が及んでいるとは、と大層驚き、かつ感動しました。


(3)映画評論家の意見は分かれるようです。
 前田有一氏は、「きわめて実験的な異色ムービーは、彼が愛する女性を求める数日間の様子をひたすら観察するだけの映画であ」って、「信じがたいことではあるが、基本的にこの映画はたったこれだけの内容である。なんとつまらない実験映画だろうと思っただろうか?否。これが案外面白」く、「ストーカー的ともいうべき行動にはまりこみ、すっかり「黒い恋」に侵されている哀れな主人公氏だが、見た目がとんでもないイケメンなので不快感はない。ただしイケメンに限る、を地でいくストーリー」だ、として60点を与えていますが、
 他方で、福本次郎氏は、「カフェで偶然見かけた女の、男は後をつける。通りを渡り、繁華街を抜け、迷路のような裏路地を足早に歩く彼女を、少し距離を置いて追う」のだが、「たったこれだけの話、30分程度の短編ならば映画に対する興味を持続できたのだが、この内容で90分近い上映時間集中力を切らさないようにするにはかなりの努力が必要だった」として40点を与えているにすぎません。


★★★☆☆




ヒックとドラゴン

2010年09月08日 | 洋画(10年)
 アニメ『トイ・ストーリー3』が大人の鑑賞に十分耐えられる作品であることがわかったことから、もう一つの評判の高いアニメ『ヒックとドラゴン』も見てみようと思って、吉祥寺バウスシアターに行ってきました。
 ここはやや小ぶりの映画館ながらも、「3D」(吹替え版)で上映しているのには驚きました。また、映画館の前の方の席には、子供に混じって、一人で見に来ている大人が何人もいて、この映画に対する一般の関心の高さをうかがわせました。

(1)この作品の物語は、バイキングのリーダーの息子ヒックが、トゥースと名づけられた最強ドラゴンとの友情を深めたことから、敵対していたバイキングとドラゴンたちとが友好関係を築くようになり、ついにはドラゴンたちを背後で支配していた巨大な「怪物ドラゴン」を打倒することに成功し、バイキングの村に平和が訪れるというものです。

 将来はバイキングのリーダーと目されていたヒックは、バイキングの伝統的な武器をもってドラゴンと戦うことにかけてはからきし駄目なところ、ドラゴンと親しい関係を作る面は勇敢で、それを通じてバイキングたちの信頼を次第に勝ち得るわけですが、その過程がこのアニメでは実に見事に描き出されていると思いました。

 まずヒックは、自分の弓矢で仕留めた最強ドラゴンのナイト・フューリーを探し出して殺そうとしますが、どうしてもそれができずに、逆に痛めた翼の代わりになるものを取り付けてあげます。また、食料となる魚を獲ってきて差し出したりします。そういう過程を通じて、両者の間には次第に友情が芽生えてきます。
 それを出発点として、ドラゴンたちは決してバイキングに敵対的ではないことがわかり、そのことがヒックの仲間のアスティたちにもわかってきて、さらには、他のバイキングたちが多数詰めかけている競技場で、様々のドラゴンと親しい関係を持つようになる様を見せることで、バイキングたちの認識を変えるように促します。
 こうしたプロセスが丁寧に描き出されているために、弱虫に見えたヒックがバイキングの支持を得るに至っても、見ている方は違和感なく受け入れることができます。

 それと、「3D」の点では、これまでのどのアニメよりも優れているのではないかと思います。無理に画面が前に飛び出さず、画面に自然に奥行きが出ていて、見ていて疲れることはありません。まさに、下で触れる映画評論家の渡まち子氏が言うように、「ヒックがトゥースに乗ってフワリと浮き、一気に加速する飛行シーンなど、ワクワクする3Dの映像が素晴らしい」と思いました。

(2)このアニメは、ヒックがナイト・フューリーのトゥースに乗って空中を飛んでいる様子を見ると、『アバター』で、ジェイクらがバンシーに跨って飛んでいる姿とダブってきます。



 そこで、もう少し『アバター』と比べてみましょう。
 いうまでもなく、『ヒックとドラゴン』は純然たるお伽噺の延長線上にある物語ですし、『アバター』は近未来のSF物で、リアリティの度合いは随分高い感じがして、相違点の方が多いかもしれません。ですが、どちらもファンタジーであって、類似するところはいくつも見つかります。
 そんな類似点を探すには、ナヴィ族側から見た方が好都合かもしれません。

 たとえば、次のようには考えられないでしょうか?
 ナヴィ=バイキング
 地球人=ドラゴン
 クオリッチ大佐(資源開発会社RDAの保安部門の指揮官)=怪物ドラゴン
 アバターとしてのジェイク=ヒック
 ネイティリ=アスティ
 バンシー=トゥース

 すなわち、衛星パンドラの希少鉱物資源を確保したい地球人と原住民ナヴィとの小競り合いは、バイキングとドラゴンとの間の戦いに類似していますし、地球人の科学者グレースがジェイクの行動に理解を持つところは、バイキングがドラゴンに親しみを懐くようになるところに似ています。
 そして、ヒックらが怪物ドラゴンを退治するシーンは、まさにクオリッチ大佐が操縦するスーツとジェイクとナヴィらとの闘いの場面に相当すると言えるのではないでしょうか?

(3)映画評論家のこの映画に対する見解は、両極端に分かれるようです。
 前田有一氏は、「いくらほめてもたりないほどの傑作であるが、それは様々な要素が高いレベルで融合された、すなわち完成度の高さによるもの。何かが突出して良いのではなく、すべてがハイクオリティ。まさに死角のない横綱」として97点を、
 渡まち子氏は、「敵同士が歩み寄って互いのことを理解する。言うは易し行うは難しのこの行動を、弱虫の主人公がやってのけるファンタジー・アニメの秀作」であり、「ヒックがトゥースに乗ってフワリと浮き、一気に加速する飛行シーンなど、ワクワクする3Dの映像が素晴らしい。3Dがストーリーに自然にフィットする作品で、存分に楽しめる」として80点を、
それぞれ与えていますが、
 福本次郎氏は、「映画はバイキングの少年とドラゴンの交流を通じて、己の論理を相手に押しつけるのではなく、お互いが幸せになるような道を探り合うことの大切さを描く」が、「クライマックスで、ドラゴンの女王を見つけたバイキングたちはそれに集中攻撃をかけるのだが、他のドラゴンは女王を守ろうとせず、むしろバイキングを女王の専横からの解放者のように迎え入れる。「独裁国家から民衆を解放する米国」という構図を見ているような気になった。。。」として40点しか与えていません。

(4)前田有一氏は、この映画についてさらに、「伝えようとしているのは、建国当時から続く「皆殺しによる平和」「敵を圧倒するアメリカ」の精神ではない。殺しあってきた敵と、共生の道を探る。少年ヒックと最強のドラゴン・トゥースのコンビを架け橋に、両種族を平和へ導こうとする挑戦は、現実の国際政治が抱えるあらゆる紛争問題へのひとつの回答である」と述べています。

 確かに、死闘を繰り返してきたバイキングとドラゴンたちは、ヒックが最強のドラゴンと親しい関係を築き上げたことを通じて、敵対するのを止めるに至ります。
 ですが、ドラゴンたちがバイキングの家畜を襲った元凶である「怪物ドラゴン」については?
 ヒックは、トゥースたちに使ったコミュニケーションの技を、どうしてこの怪物には使わないで、問答無用とばかりにいきなり攻撃してしまうのでしょうか?

 ここには、最近のアメリカの対テロ戦争に取り組む姿勢と同じものが垣間見られるようです。
 すなわち、イラクやアフガニスタン等におけるテロ攻撃に関して、真の敵は、イラク国民やアフガニスタン国民ではなくアルカイーダだとして、その指導者ビン・ラディンらの行方を執拗に追求しています。
 この姿は、ヒックらが、普通のドラゴンとは友好関係を結びながらも、「怪物ドラゴン」とは敵対関係を継続するのと類似していると言えないでしょうか?
 そして、そうだとすれば、この映画が「現実の国際政治が抱えるあらゆる紛争問題へのひとつの回答である」とする前田氏の姿勢も疑問に思えてくるところです。
 レベルは一層掘り下げられているにしても(対峙する勢力の中に真の敵を見分けるという点で)、凄惨な殺し合いが続く事態は何も変わらないのですから!


★★★☆☆





象のロケット:ヒックとドラゴン

セラフィーヌの庭

2010年09月05日 | 洋画(10年)
 静かなブームとなっていると耳にしたので、『セラフィーヌの庭』を神田神保町の岩波ホールで見てきました。行ったのは土曜日の最終回でしたが、依然として大勢の観客が集まっていました。ブームは未だ続いているようです。
 
 なお、この映画館は、5年ほど前『絵巻 山中常磐』を見て以来です。
 その際にも思いましたが、ホール(220席)の正面が奥行きのある舞台になっていて、その奥の壁にスクリーンが設けられているために、スクリーンがひどく遠くにある感じがしてしまうのと、正面に近い左右や後方の非常燈の明かりが強すぎて、場内がぼんやりと明るく(他の映画館の予告編上映並)、画面に集中しづらいという欠陥があります(明るいので、舞台の枠も気になってしまいます)。

(1)映画は、実在したフランス人女性画家セラフィーヌ・ルイ(1864-1942)の後半生を描く作品で、いきなり50歳近いセラフィーヌが家政婦として熱心に働く姿を描き出すところから始まります。と同時に、観客には何をしているのか不可解な行動(川の中に入って藻を採ったり、教会で蝋燭の炎をジッと見つめたり)を、彼女はするのです。
 他方、ドイツ人の画商のウーデが、セラフィーヌのいるサンリス(Senlis:パリの北方40kmにある古い町)にやってきて部屋を借りますが、セラフィーヌがその部屋の掃除をするように所有者のデュフォ夫人から言われていることから、間借り人と家政婦との関係が生じます。

 ただ、セラフィーヌが仕事を終え自分の家に戻ってから絵を描いている姿は、映画ではなかなか映し出されません。それに、冒頭の不可解な行動も、自分独自の絵の具を作る際の材料採取とわかるまでには時間を要します。
 そうしたところある日、デュフォ夫人の家で開かれた美術愛好家のパーティで、ウーデは、床に立てかけられていた絵に出会います。小形の板に林檎を描いた絵ながら、ウーデは衝撃を受け、その画家の名を問いただすとセラフィーヌとわかり、直ちに彼女の家に行って他の絵も見せてもらいます。そこから、画商と画家との関係が始まるわけです。
〔映画が始まってから暫くしないと、セラフィーヌが絵を描いていることが分からないような映画の作りになっているのは、あるいは、ウーデが感じたのと同じような衝撃を観客に感じさせようとしているのでしょうか?〕

 さてその絵ですが、映画で映し出されるセラフィーヌの絵は、どれも実に素晴らしいもので驚いてしまいます。初めのうちは、小さな板に描かれていただけのものながら、第1次大戦が終わってサンリスに戻ってきたウーデ(大戦が勃発したため、ドイツへの帰国を余儀なくされました)が見た絵は、人の背の高さよりも大きなキャンバスに描かれている大層立派なものでした。



 当初の林檎や柘榴を描いた絵から、のちの才能の開花を読み取ってしまうウーデの眼力は、並大抵ではありません(実際に彼は、それまでにアンリ・ルソーなどの「素朴派」の画家を見出してもいるのです!)。

 絵のタイトルは、「花と果物」、「葉」、「葉の付いた林檎」という具合で(内情は、ウーデとその妹がつけたようです)、総じて一つの絵の中に無数の花とか葉を幻想的に描き込んだものが多そうです。
 その場合、花ばかりか、描かれているたくさんの葉も、花と見紛うエロチックな雰囲気を強烈に醸し出しています。そんなところから、似非フロイト学説を今更振り回しても仕方ありませんが、まさにセラフィーヌの作品は“性的なものの昇華”になっている、といえるのかもしれません(注1)。

 この映画は、「セラフィーヌとウーデ」というタイトルにした方がいいくらいに、二人の関係を描くことが中心に置かれています。ですが、二人の関係と言っても、性的なものではありません。当時40歳だったウーデの方は同性愛者で、映画には愛人のヘルムート(ドイツ人の画家)も描かれています。他方、セラフィーヌも、これまで男性と関係を持ったことがなさそうで、とにかく絵を描くことが生きることの全てといった感じなのです(注2)。

 1929年の世界大恐慌の余波を受けて、ウーデはこれまで続けていたセラフィーヌに対する援助が出来なくなりますが、それを機にセラフィーヌは精神に変調を来して精神病院に収容されてしまい、10年後に亡くなります。

 この映画の特色としては、実在の人物を描いた作品としては珍しく、過去を回想するシーンが全く挿入されていないという点ではないかと思います。むろん、彼女の幼い時分に関する情報がほとんど存在しないせいかもしれませんが、むしろ、セラフィーヌとウーデとの関係を描き出すことの方に力点を置いたためだと思われます。
 もう一つは、セラフィーヌがそこから自然を感じ取ることができるものとして、まるで「日立の樹」(ハワイ・オアフ島のモンキーポッド)のような一本の大木が何度か映像に描かれていることではないでしょうか。

 主役のセラフィーヌを演じたヨランド・モローは、家政婦でありながら天才的な画家でもあるという難しい役柄を素晴らしい演技力でこなしているなと思いました(近日公開の『ミックマック』にも出演します)。
 相手役のウーデを演じたウルリッヒ・トゥクールは、そういえば『アイガー北壁』で、ルイーゼの上司で国粋主義の新聞記者を演じた俳優であると見ている内に分かりました。こちらは、ドイツ人でありながらフランスの絵画にのめり込んでいくという二重性をもった役柄を、独特の雰囲気を出しながら演じていて、この映画を盛り上げています。


(注1)『セラフィーヌ』(山形梓訳、未知谷、2010.6)において、著者のフランソワーズ・クロアレク(精神病理学者)は、「精神分析は芸術には適用されない」と断定しているところです(P.144)!ただ、精神病院への収容の切っ掛けとなった騒ぎに際しては、セラフィーヌは花嫁衣装を身にまとっていたのであり、その精神障害の解明に当たっては、より性的な要素を考慮すべきではないかと考えられるところです。
 なお、この本の帯には、「映画「セラフィーヌの庭」原案」とあるものの、同書の半分近くは、ウーデとの出会い以前のことが記載されており、また映画に登場するウーデの同性愛の相手ヘルムートに関しては、同書ではほんの少ししか触れてはいません(逆に、同書の「あとがき」では、2008年10月に公開されたこの映画のことが触れられています)。

(注2)上記注で触れたクロアレク著『セラフィーヌ』では、「セラフィーヌは生涯処女のままであった。天使は性的欲求を持たず、誰も彼らの性別は知らない。性交は―絵画とする」と述べられています(P.46)。


(2)セラフィーヌが描いた絵は、これまで1度も見たことがありませんが、上で触れた著書『セラフィーヌ』の中には20点以上の作品がオールカラーで掲載されています。
 ただ、残念なのは、著者が臨床精神病理学者であり、美術を専門としていないという点(注)と、もう一つは絵の大きさがこの本の写真では分からないことです。映画を見ると分かりますが、少なくともその本の最初の方に掲載されている数点は、かなり大きなキャンバスに描かれているのです。

 ところが驚いたことに、彼女の作品の一つが世田谷美術館で所蔵されていて、本日(9月5日)まで同美術館でも展示されるというので、早速出向いてみました。

 ただ最初は、館蔵品とは知らず、現在開催中の『ザ・コレクション・ヴィンタートゥール』展における展示かなと思いましたが(アンリ・ルソーの『赤ん坊のお祝い』が展示されるというので、その近辺にあるのかなと思ったのですが)、一当たり見てもそれらしき作品はありません。
 同美術館でもう一つ同時に開催されているのは、入口に掲載されている表示に従えば、『建畠覚造―アトリエの時間』展。タイトルからしてこちらではあり得ないと思いつつ、念のために開催場所の2階に上ってみました。
 そうしたところ、なんとその出口近くの隅に設けられたコーナーで、館蔵のアンリ・ルソー3点などに混じって、セラフィーヌの『』(1930年)が展示されているではありませんか!

 どうやら2階全体が館蔵品の展示場であり、現在はその第1部が『建畠覚造』で、第2部を『素朴派の絵画』としているようです。
 ですが、館内の様々の表示では、第2部のことはごくわずかにしか触れられておらず、日本で直に見ることが出来るセラフィーヌの折角の貴重な作品なのに、これでは見逃して帰ってしまう人も随分いるのでは、と残念に思いました。

 その作品ですが、映画の中で紹介されている絵とは大分違った印象です。
 先ず、大きさはぐっと小振りであり(キャンバスではなく、板に描かれています)、また描かれている対象も酷く地味な感じです。
 とはいえ、枝に実がびっしりと生っている様は、沢山の花とか葉が狂おしく描かれたセラフィーヌ特有の絵を彷彿とさせるところではありますが。



〔クロアレク著『セラフィーヌ』掲載〕

(注)同書の「あとがき」において、著者はセラフィーヌの絵に触れますが、様々の評論家の論評を引用するだけで、結局は、「いかなる流派の分類もはまらない。セラフィーヌは全て、あらゆる名称、あらゆる流れを超越している」などと述べているにすぎません。
 確かに、「素朴派」としてアンリ・ルソーらと一緒にしてしまうには、あまりにも描かれた内容がかけ離れています〔アンリ・ルソーの絵の大部分には、セラフィーヌの絵には見られない人物が描かれています〕。ただ、といって、「セラフィーヌはその絵画の秘密を全て墓の中ね持って行ってしまった」と言われてしまうと、一般人としては途方に暮れてしまいます(P.119)。

(3)映画評論家は、この作品に好意的です。
 佐々木貴之氏は、「芸術を扱った作品だけに作風そのものも芸術感に満ち溢れていて味わい深い。清々しい大自然の風景活写も一枚の絵画のように思え、これだけでも見応え十分。 他にもノスタルジックなムードが味わえるシーンも観られ、これまた素晴らしい。でも、何よりも注目したいポイントは、セラフィーヌの絵画の数々であり、どれをとっても渾身の一作と言い切れるほどのパワフルな作風なのである」として85点を、
 渡まち子氏は、「映画はセラフィーヌの高貴な孤独や、絵画への情熱を寡黙なタッチで描いていくが、何しろ、ヒロインを演じる実力派女優ヨランド・モローがすさまじいまでの名演技で圧倒される。文字通り入魂の熱演で、完全に現実世界から乖離し、セラフィーヌになりきった目つきがすごい。だが、同時に非常に静かでナチュラルな演技でもあるところに凄みがある」として70点を、
 福本次郎氏は、「物語は独学で絵画の技法を編み出した悲運のアーティストの後半生を、余計な装飾をそぎ落として描く。そのそっけなさは、他人との交流を極力避け、人生を神にささげるかのように過ごした彼女の生き方を反映させている」として60点を、
それぞれ与えています。



★★★★☆




象のロケット:セラフィーヌの庭

ヤギと男と男と壁と

2010年09月04日 | 洋画(10年)
 予告編を見て面白そうだなと思い、また千原ジュニアがこの映画の邦題をつけたということもあって、『ヤギと男と男と壁と』をシネセゾン渋谷に行ってきました。

(1)何よりこの映画には、驚いたことに、『マイレージ、マイライフ』のジョージ・クルーニー、『クレージー・ハート』のジェフ・ブリッジス、『ウディ・アレンの夢と犯罪』のユアン・マクレガー、そして『ビヨンド the シー』(2004年)以来のケヴィン・スペイシー(注)といった超豪華俳優が結集しているのですから、ストーリーがいくら荒唐無稽でリアリティが乏しくともかまわない感じです。

 そのストーリーですが、イラク戦争が勃発してその模様を取材すべく、ジャーナリストのユアン・マクレガーは、ジョージ・クルーニーと一緒に、クウェートからイラクに入って砂漠をジープに乗って進みますが、道中、ジョージ・クルーニーから、以前所属していた米軍の「超能力部隊」(エスパーで構成される“新地球軍”)の話を聞き出します。
 彼が語るところによれば、「超能力部隊」はジェフ・ブリッジスがたちあげたもので、所属する兵士は、空に浮かんでいる雲を消す能力、誘拐犯の居所をも探し出す遠隔視力、見つめることで相手を倒してしまう「キラキラ眼力」、壁をすり抜ける力などを身につけようとしていたとのこと。
 その後紆余曲折があって、結局、ユアン・マクレガーとジョージ・クルーニーは、砂漠で立ち往生してしているところを、ケヴィン・スペイシーが指揮する “新地球軍”に救出されます。

 映画には様々の超能力らしきものが登場するものの、どれもあまり見栄えがしません。それもそのはず、たとえば空に浮かんでいる雲を消したとしても、砂漠では何の意味もありませから(むしろ逆効果でしょう!)。
 中でこれはといえるものは、ヤギをも倒すジョージ・クルーニの「キラキラ眼力」でしょう。でも、ケヴィン・スペイシーが率いる部隊は、どうもそれを悪用しているようで、その駐屯地には、たくさんのヤギが倉庫で飼われています。そればかりか、薬物実験を施されているイラク人と見られる人たちが、密室に閉じ込められてもいるのです。
 これでは、“新地球軍”の基本思想である“ラブ&ピース”に反するとして、ユアン・マクレガーとジョージ・クルーニーは、部隊が保有するLSDを飲料水に混ぜることによって兵士たちを酩酊状態に陥れて、この駐屯地を解放してしまいます。

 結局のところ、“新地球軍”によるジュダイ計画などと言ってみても、壮大な無駄としか思えず、そうだとすれば、それを描き出しているこの映画自体も、超豪華メンバーが出演してはいるものの、何だかなーという感じになってしまいます。

 ジョージ・クルーニーは、ヘリコプターに乗って飛び立ってしまいますが、とどのつまりは行方不明となり、ユアン・マクレガーは、米国に戻って見聞したことを本にします。それで出来上がった著書が、この映画の原作本であるノンフィクション『実録・アメリカ超能力部隊』ということなのでしょう。
 原作が“ノンフィクション”で「実録」ならば、直ちに例の“true story”と来るところながら、ラストでユアン・マクレガーが壁をするりと抜けるのを見ると、やはり……。

 この映画は、あまり変な意味付けなど与えずに、ジョージ・クルーニーといった容貌も貫禄も超一流の俳優たちが、真面目腐ってバカなことを演じている様を無心に楽しむべきなのでしょう!


(注)そういえば、ケヴィン・スペイシーは、『月に囚われた男』でコンピューターの音声を担当していました。

(2)この映画を見たのは土曜日の夕方で、自宅に帰ってTVを点けてみたら、たまたま、フジテレビの「めちゃイケ」で「真夏の超能力頂上決戦エスパーVS イケメン3番勝負」という企画をやっていました。
 メタルアーティストDaiGoがスプーン曲げを披露するのに対して(注)、コメディアンのエスパー伊東もそれに対抗する超能力を発揮して勝負するという内容です。
 元々お笑い番組ですから、DaiGoのスプーン曲げは絶妙であるものの、エスパー伊東の超能力には笑ってしまいました。
 特に、3番勝負の最初にエスパー伊東が挑戦したのが「壁抜け」なので、見てきた映画との余りのシンクロに驚いてしまいました。ただ、「壁」と言っても段ボールで、それもフォークで人型を刳り抜いて通り抜けようとし、実際には刳り抜きが不完全なため、体当たりしたエスパー伊東は、映画におけるホップグッド准将(スティーブン・ラング)のように段ボールに跳ね返されてしまいましたが!


(注)日本でユリ・ゲラーのパフォーマンスによって「超能力ブーム」に火が付いたのは1970年代の中頃ですから、まだそんなことをやっているのという感じですが、当時のものよりも随分と洗練されているのには驚きました。
 なお、このサイトには、スプーン曲げの方法の一つが記載されています。


(3)映画評論家はこの映画に対してはマズマズと言ったところです。
 前田有一氏は、「おそらく本作が真にやりたかったことは、米軍にそうしたリベラル思想(ベトナム戦争敗戦のトラウマによる反動)が入り込んだ結果、平和主義志向になるかと思ったら、逆にそうした考え方を殺人に利用されてしまった点を強調することにある」が、「個人的にはそうした主張をもっと前面に押し出し、シニカルにまとめてほしかったという気持ちは残る」として60点を、
 渡まち子氏は、「地球上から争いごとをなくすための超能力部隊の奮闘がコミカルかつアイロイニカルに描かれるが、結局は、最新テクノロジーも怪しげな超能力も、すべては戦 争に使われてしまうという、シニカルなメッセージも透けて見えた。演技達者がズラリと揃うが、なぜか女っけはなし。ちょっと不思議である」として60点を、
 福本次郎氏は、「いい年した大人があまりにもばかばかしい事象に真剣に取り組 む姿にこっけいさをにじませ、その半面、珍奇な信念の先に生みだされるパワーは美しさすら感じさせる。映画は自信を失った新聞記者が奇天烈な男を取材する なかで、疑うより信じる力で真実を見い出していく過程を描く」として60点を、
それぞれ与えています。


★★★☆☆


象のロケット:ヤギと男と男と壁と