
筒井康隆の原作の映画化というので、『七瀬ふたたび』を渋谷のシアターNで見てきました。
(1)この映画は、冒頭に「プロローグ」が置かれ、その監督として“しょこたん”の中川翔子が記されており、それが終わった後に、小中和哉監督による「七瀬ふたたび」の本編が始まるという随分と手の込んだ仕掛けになっているのです。
そのプロローグ編では、幼い頃の七瀬が母親(多岐川裕美)の手を取って歩きながら、母親の心の中を読み取る場面などが描かれていますが、それが様々な色が混じり合うというイメージで描かれていたりして、なかなか興味深いものになっています。
ただ、少女時代の七瀬が、通勤電車の中で、周りの男性の心の中に卑猥なものがある様を読み取る場面が出てくるところ、これは原作本にもあるのでやむを得ないことながら、通俗的すぎる印象しか与えません(注)。
とはいえ、大人の七瀬(芦名星)がカードをやる場面では、自身がカジノの客として登場するなど、“しょこたん”のマルチタレントぶりがヨク発揮されているといえそうです。
そして本編です。
人の心を読むことのできる能力を持った女性である七瀬(芦名星)は、同じ能力を持つ少年ノリオとも列車の中で知り合い、もう一人、違う能力を持つ黒人のヘンリー(ダンテ・カーヴァー)と一緒に北海道で暮らしています。
そこへ、超能力を持つ者は人類の敵だとして、彼らをすべて抹殺しようとする組織が現れます(その組織の指揮官を吉田栄作が扮し、また実戦部隊のトップを河原正彦が演じています)。
これに対して、七瀬、ノリオ、ヘンリーが立ち向かいますが、さらに藤子(佐藤江梨子)というタイムトラベルの能力を持つ女も加わります〔この他に、途中まで、七瀬に好意を持つ岩淵(田中圭)とか、マカオのカジノで知り合いになった瑠璃(前田愛)がいるのですが、いずれも敵の組織に殺されてしまいます〕。
果たして、うまく敵を撃退できるでしょうか、……。
この映画は、どうやら、なぜ「七瀬ふたたび」というタイトルなのか、“ふたたび”ということからすれば「七瀬」と題する映画が先にあったのか、などという疑問が湧いてしまうような一般の人向けには作られてはいない感じです。あるいは、筒井康隆の原作や、それに基づいて製作されたTV作品などをよく知っている人向けなのかもしれません。
殆どそうした知識の持ち合わせがないにもかかわらず、ただ何となくの感じでクマネズミは見てしまいましたから、どうも今一乗り切れませんでした。
登場する俳優も、主演の七瀬を演じる芦名星は、現代的な美人で素晴らしいと思いました。

ただ、ノリオを演じる子役は台詞を言うととても気持ち悪く、またタイムトラベラー役の佐藤江梨子も甘利魅力的には描かれていないような感じです。
なお、『死刑台のエレベーター』では暴力団親分役、『スープオペラ』では文学者役と、このところよく見かける平泉成が、この映画でも刑事役として出演しています。ただ、その良さが十分に生かし切れていないと思いました。
(注)全体として、原作はかなり卑猥な表現に満ちています。
若い女を見ると男は皆が皆すごく卑猥なことを連想し、それが人の心を読む能力を持つ七瀬に全部分かってしまいます。それが嫌で、好きでありながら岩淵は七瀬に会おうとはしないのです。
また、原作では、七瀬は「ゼウス」という高級バーに勤めていて、そこでの出来事が「邪悪の視線」という章に長々と書かれていますが、いくらなんでもと言うのでしょう、映画ではカットされています。
この卑猥な表現もまた原作の柱の一つとすれば、それに対応する映像が見られない今回の作品は、原作とは別物と考えるべきなのでしょう。
(2)この映画については、対立する見方があります。
一方で、映画評論家の渡まち子氏は、「本作では、SFアクションながら、能力者としての苦悩とかなわぬ恋という情緒的な面が前面に出ているため、アクション映画の爽快はほとんどない。何より、敵役の謎の暗殺組織の描写が浅いため、クライマックスのバトルにいたるプロセスがさっぱり盛り上がらないのは残念。しかも、決戦の場へ乗り込むため、仲間の念動力を借りて空を飛び湖を渡る場面があまりに稚拙で、昭和の時代の“なつかしの特撮”のよう」として45点をつけています。
他方、“つぶあんこ”氏は、「原作を充分に理解した上での、主として脚本面における再構築の見事さの前には、低予算ゆえの特撮のチープさも、子役の気持ち悪さも、相変わらずなサトエリの顔と演技の残念さ加減も、大したマイナスとは思えない。今までの『七瀬ふたたび』映像化の中では、最も意欲的な作品と評して何ら問題ないだろう。よく頑張った」として★5つの最高級の讃辞を与えています。
両者の距離はかなりあるとはいえ、こういった類いの作品については貧弱な知識しか持ち合わせていない(まあ、他のジャンルの作品についても何も知りませんが)クマネズミとしては、やはり渡まち子氏の評価に共感を覚えてしまいます。
ところで、論点は2つあるでしょう。
・原作の大幅改変は是は非か。
・肝心の特影シーンが酷すぎるのかどうか。
渡まち子氏は、特に後者の観点からこの映画を低く評価するのに対して、“つぶあんこ”氏は、前者の観点からこの映画を高く評価しています。
としても、“つぶあんこ”氏も、「低予算ゆえの特撮のチープさ」と述べていることから、やはり主たる問題は前者に関することでしょう。
そうしたことから、例えばラストのシーンを見てみましょう。
原作の場合、七瀬に関係する人間(ノリオもヘンリーも藤子も)は、次々と敵の手で倒されてしまいます。最後には七瀬までも(「深い虚無がやってきた」新潮文庫 P.318)。
他方、映画の場合、一度は七瀬は殺されてしまいますが、そこに駆け付けた藤子によってもとの出会いの場面までタイムスリップしてしまい、さあもう一度やり直そうと言うことになります。
言ってみれば、原作が悲劇で終わるのに対して、映画の方は、一応ハッピーエンドということになるのでしょうか。
(3)ここで少し触れてみたいのが、藤子がタイムトラベラーだという点です。
この場合、最近流行りのやり方ですが、以前のようにタイムマシンを使って過去に戻るというのではなく、可能世界(パラレルワールド)に移動するというものです。
ただ、映画でもそうですが、藤子は自分の持つ能力について疑問を抱き悩んでいます。以前の世界に移動してしまう自分たちはかまわないとしても、元の世界の取り残された自分たち以外の人たちの運命はどうなってしまうのか、という点です(「彼女は、時間旅行者としての自分の存在が、つまり彼女の時間旅行が、多元宇宙の発生につながっているのではないかと疑っている」新潮文庫P.297)。
たとえば、藤子の超能力によって、死んだはずの七瀬やノリオが生き返って、再び敵を倒そうとするのに対して、元の世界の取り残された人たちは、もはや彼らはいなくなってしまうのですから、敵が跳梁跋扈するのに任せざるを得なくなってしまう、というのでしょう。
こうした大きな疑問を持っているはずの藤子が、映画の場合、最後にその能力を行使するというのですから、いくら未来に対する信頼を描き出すためとはいえ、首をかしげたくなてしまいます。
★★☆☆☆
象のロケット:七瀬ふたたび
(1)この映画は、冒頭に「プロローグ」が置かれ、その監督として“しょこたん”の中川翔子が記されており、それが終わった後に、小中和哉監督による「七瀬ふたたび」の本編が始まるという随分と手の込んだ仕掛けになっているのです。
そのプロローグ編では、幼い頃の七瀬が母親(多岐川裕美)の手を取って歩きながら、母親の心の中を読み取る場面などが描かれていますが、それが様々な色が混じり合うというイメージで描かれていたりして、なかなか興味深いものになっています。
ただ、少女時代の七瀬が、通勤電車の中で、周りの男性の心の中に卑猥なものがある様を読み取る場面が出てくるところ、これは原作本にもあるのでやむを得ないことながら、通俗的すぎる印象しか与えません(注)。
とはいえ、大人の七瀬(芦名星)がカードをやる場面では、自身がカジノの客として登場するなど、“しょこたん”のマルチタレントぶりがヨク発揮されているといえそうです。
そして本編です。
人の心を読むことのできる能力を持った女性である七瀬(芦名星)は、同じ能力を持つ少年ノリオとも列車の中で知り合い、もう一人、違う能力を持つ黒人のヘンリー(ダンテ・カーヴァー)と一緒に北海道で暮らしています。
そこへ、超能力を持つ者は人類の敵だとして、彼らをすべて抹殺しようとする組織が現れます(その組織の指揮官を吉田栄作が扮し、また実戦部隊のトップを河原正彦が演じています)。
これに対して、七瀬、ノリオ、ヘンリーが立ち向かいますが、さらに藤子(佐藤江梨子)というタイムトラベルの能力を持つ女も加わります〔この他に、途中まで、七瀬に好意を持つ岩淵(田中圭)とか、マカオのカジノで知り合いになった瑠璃(前田愛)がいるのですが、いずれも敵の組織に殺されてしまいます〕。
果たして、うまく敵を撃退できるでしょうか、……。
この映画は、どうやら、なぜ「七瀬ふたたび」というタイトルなのか、“ふたたび”ということからすれば「七瀬」と題する映画が先にあったのか、などという疑問が湧いてしまうような一般の人向けには作られてはいない感じです。あるいは、筒井康隆の原作や、それに基づいて製作されたTV作品などをよく知っている人向けなのかもしれません。
殆どそうした知識の持ち合わせがないにもかかわらず、ただ何となくの感じでクマネズミは見てしまいましたから、どうも今一乗り切れませんでした。
登場する俳優も、主演の七瀬を演じる芦名星は、現代的な美人で素晴らしいと思いました。

ただ、ノリオを演じる子役は台詞を言うととても気持ち悪く、またタイムトラベラー役の佐藤江梨子も甘利魅力的には描かれていないような感じです。
なお、『死刑台のエレベーター』では暴力団親分役、『スープオペラ』では文学者役と、このところよく見かける平泉成が、この映画でも刑事役として出演しています。ただ、その良さが十分に生かし切れていないと思いました。
(注)全体として、原作はかなり卑猥な表現に満ちています。
若い女を見ると男は皆が皆すごく卑猥なことを連想し、それが人の心を読む能力を持つ七瀬に全部分かってしまいます。それが嫌で、好きでありながら岩淵は七瀬に会おうとはしないのです。
また、原作では、七瀬は「ゼウス」という高級バーに勤めていて、そこでの出来事が「邪悪の視線」という章に長々と書かれていますが、いくらなんでもと言うのでしょう、映画ではカットされています。
この卑猥な表現もまた原作の柱の一つとすれば、それに対応する映像が見られない今回の作品は、原作とは別物と考えるべきなのでしょう。
(2)この映画については、対立する見方があります。
一方で、映画評論家の渡まち子氏は、「本作では、SFアクションながら、能力者としての苦悩とかなわぬ恋という情緒的な面が前面に出ているため、アクション映画の爽快はほとんどない。何より、敵役の謎の暗殺組織の描写が浅いため、クライマックスのバトルにいたるプロセスがさっぱり盛り上がらないのは残念。しかも、決戦の場へ乗り込むため、仲間の念動力を借りて空を飛び湖を渡る場面があまりに稚拙で、昭和の時代の“なつかしの特撮”のよう」として45点をつけています。
他方、“つぶあんこ”氏は、「原作を充分に理解した上での、主として脚本面における再構築の見事さの前には、低予算ゆえの特撮のチープさも、子役の気持ち悪さも、相変わらずなサトエリの顔と演技の残念さ加減も、大したマイナスとは思えない。今までの『七瀬ふたたび』映像化の中では、最も意欲的な作品と評して何ら問題ないだろう。よく頑張った」として★5つの最高級の讃辞を与えています。
両者の距離はかなりあるとはいえ、こういった類いの作品については貧弱な知識しか持ち合わせていない(まあ、他のジャンルの作品についても何も知りませんが)クマネズミとしては、やはり渡まち子氏の評価に共感を覚えてしまいます。
ところで、論点は2つあるでしょう。
・原作の大幅改変は是は非か。
・肝心の特影シーンが酷すぎるのかどうか。
渡まち子氏は、特に後者の観点からこの映画を低く評価するのに対して、“つぶあんこ”氏は、前者の観点からこの映画を高く評価しています。
としても、“つぶあんこ”氏も、「低予算ゆえの特撮のチープさ」と述べていることから、やはり主たる問題は前者に関することでしょう。
そうしたことから、例えばラストのシーンを見てみましょう。
原作の場合、七瀬に関係する人間(ノリオもヘンリーも藤子も)は、次々と敵の手で倒されてしまいます。最後には七瀬までも(「深い虚無がやってきた」新潮文庫 P.318)。
他方、映画の場合、一度は七瀬は殺されてしまいますが、そこに駆け付けた藤子によってもとの出会いの場面までタイムスリップしてしまい、さあもう一度やり直そうと言うことになります。
言ってみれば、原作が悲劇で終わるのに対して、映画の方は、一応ハッピーエンドということになるのでしょうか。
(3)ここで少し触れてみたいのが、藤子がタイムトラベラーだという点です。
この場合、最近流行りのやり方ですが、以前のようにタイムマシンを使って過去に戻るというのではなく、可能世界(パラレルワールド)に移動するというものです。
ただ、映画でもそうですが、藤子は自分の持つ能力について疑問を抱き悩んでいます。以前の世界に移動してしまう自分たちはかまわないとしても、元の世界の取り残された自分たち以外の人たちの運命はどうなってしまうのか、という点です(「彼女は、時間旅行者としての自分の存在が、つまり彼女の時間旅行が、多元宇宙の発生につながっているのではないかと疑っている」新潮文庫P.297)。
たとえば、藤子の超能力によって、死んだはずの七瀬やノリオが生き返って、再び敵を倒そうとするのに対して、元の世界の取り残された人たちは、もはや彼らはいなくなってしまうのですから、敵が跳梁跋扈するのに任せざるを得なくなってしまう、というのでしょう。
こうした大きな疑問を持っているはずの藤子が、映画の場合、最後にその能力を行使するというのですから、いくら未来に対する信頼を描き出すためとはいえ、首をかしげたくなてしまいます。
★★☆☆☆
象のロケット:七瀬ふたたび
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