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孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

アラブ・アジア諸国  「原発ドミノ」

2007-11-20 17:06:13 | 世相

(ソ連チェルノブイリ近郊のPrypyat の保育園 あたりに散乱するおもちゃや人形が避難の慌しさを物語っています。事故は86年4月26日未明、Prypyat市民の避難が始まったのが1日半後の27日午後2時(3時間で街はゴーストタウンになったそうです。)、スウェーデン政府からの質問に答える形で事故を公表したのが28日、Prypyat市以外の30km圏の周辺住民の避難が決定されたのは5月2日でした。“flickr”より By chatarra picks)

最近、中東や北アフリカなどアラブ諸国で原発建設計画が相次いでおり、「原発ドミノ」とも呼ばれているそうです。
エジプトはチェルノブイリ原発事故(1986年)後に中断していた原発建設計画の再開を発表。
アラブ諸国では、昨年4月のモロッコを皮切りに、ペルシャ湾岸産油国のサウジアラビア、クウェート、カタール、バーレーン、アラブ首長国連邦、オマーンの6カ国で構成する「湾岸協力会議(GCC)」、ヨルダン、リビア--など13カ国が、すでに原発計画や建設の意思を表明。【11月17日 毎日】

エジプトやヨルダンなどでは原油価格高騰を受けての将来のエネルギー確保という面もありますが、石油資源も豊富な他の国々が原発計画に走っているのは、シーア派・非アラブのイランが核開発などにより地域での存在感を急速に高めているのに対する、スンニ派が主流を占めるアラブ諸国の危機感と対抗心が背景にあるとか。
サウジアラビアはイランに濃縮ウランを製造させないために、中東以外の中立国にGCCがウラン濃縮施設を共同設立し、イランにも濃縮ウランを供給する案を提示しています。

アラブ諸国は従来、地域唯一の核保有国とされるイスラエルを意識して「中東非核地帯」の設立を主張していました。
しかし、「ゲームのルールは変わった」(アブドラ・ヨルダン国王)とされるように、核の脅威の対象はイスラエルだけでなくイランにも向かっています。【同上】

しかし、原発計画が相次いでいるのはイランに対抗するアラブだけではなく、アジア各国でも同様です。
インドネシア:2010年ごろに着工し、16年ごろの運転開始を目指す。
ベトナム:20年の稼働を目標とする。
タイ:20年を目標に導入検討を進めており、13年に計画を実行するかどうかを決める予定。
ミャンマー:昨年から核技術研究所を設け、ロシアに留学生を送っている。【8月10日 毎日】

私の故郷には原子力発電所があり、そういう原発が日常の一部となっている所で育ったせいか原発に対する強い拒否感は持っていません。
ただ、これだけ世界中に、しかも国家の対抗心とか面子の理由もあって、原発が拡散してくると、 “本当に大丈夫だろうか?”という感じもしてきます。

改めて原発の安全性、核燃料サイクルなど問題を考えてみると、“人間は原子力技術の利用というものを十分にコントーロールできていないのではないか・・・”という疑念を感じます。
技術的なことが全くわからないせいかもしれませんが、逆に言えば、そんな素人を安心させるだけの平易かつ十分な説得力がないとも言えます。

例えば、使用済み核燃料をどのように処理するのか?
地価に埋めるワンス・スルーは、地震時の安全性についてはわかりませんが、なんだか自分たちの足元に危険物・汚物を溜め込むような不快感・不安を感じます。
今は主にフランス、イギリスに使用済み燃料を“輸出”して再処理していると理解しています。
六ヶ所村に再処理工場を建設中ですが、いろんな不具合の発覚などで計画はずれ込んできています。
これだけ原発のエネルギーに占める割合が高くなっている(2004年の一次エネルギー消費の13.8%)にもかかわらず、自前の処理システムが完結していないというのも不思議な感じがします。

仮に、六ヶ所村の再処理工場が稼動したとして、そこでできるプルトニウムあるいはMOX燃料をどう使うあるいは保管するのでしょうか。
高速増殖炉の“もんじゅ”は95年にナトリウム漏れ火災を起こし停止中、プルサーマルにしても、地元の反対などで計画が遅れていると聞きます。

もちろん専門知識を持つ方には、それらの安全性を力説される方もいますが、所詮人間のやることですからヒューマンエラーは必ず発生すると考えるべきでしょう。
自分の仕事を考えても、健康・生命に直結する仕事をしていますので“間違いはあってはならない”のですが、実態は・・・・。

多少のヒューマンエラーがあっても大事には至らない構造・システムに設計されているのでしょうが、そのたびにシステムを停止して安全を確認していては経済ベースに乗るような稼動は難しいでしょうし、住民の不安はいつまでも解消されません。
もちろん隠せばやがて大事にも至ります。

ただ、日本国内のことについては、そんな無茶苦茶なことにもならないだろうといった“理由もない”信頼感を抱いています。
最近、ロシアが既存の施設を使って海外からの再処理を受け入れることを計画しているとか。
場所は、ロシア・チェリアビンスク州オジョルスク市の東にあり、1948年から操業を始め旧ソ連最初の原子爆弾用プルトニウムを作ったマヤーク。
この施設の実態は“過酷事故をおこした旧ソ連の核再処理50年の真実(1)(2)(3)”(桐生広人)に詳細に報じられています
http://www.news.janjan.jp/world/0711/0711120534/1.php
http://www.news.janjan.jp/world/0711/0711120543/1.php
http://www.news.janjan.jp/world/0711/0711120546/1.php
以下の記述は、この記事によるものです。

*****
有刺鉄線に囲まれ外部から完全に隔離された施設“マヤーク”で作業に従事したのは、ほとんどが囚人でドイツ人捕虜なども含まれていました。
最盛期で人口約8万人にも達しましたが、地図に都市名が載ることはない秘密都市でした。
原爆の製造を急いだソ連は、安全対策を講じることは全くなく、液体核廃棄物や放射能で汚染された水を湖に捨てたと言われます。
汚染水は浄化されることなくロシア最長の大河オビ川の源流テチャ川に流れ込み、周辺住民に大きな被害をもたらし、その汚染は今も残っています。

50年前の1957年、処理中の液体核廃棄物が化学反応を起こして貯蔵タンクが爆発、強い放射能汚染は北東方向約100kmに及びました。チェルノブイリに次ぐと評される大事故でした。
当然甚大な健康被害、汚染を引き起こしましたが、この爆発事故が公表されたのは1993年になってからでした。

マヤークは現在プルトニウム生産炉は停止しましたたが、核燃料再処理施設とMOX燃料の生産試験施設、高レベル液体核廃棄物のガラス固化のための設備が動いています。
ロシア政府はこの施設を西側の使用済み核燃料再処理に対応できるように改良し、再処理拡大に動いていると伝えられています。
******

ロシアと日本では、安全性・国民の生命・健康への配慮といった点で決定的な差があるように見えます。
それが、政治体制の問題なのか、被爆経験の有無によるものか等についてはここでは問いません。
しかし、今後原発は世界中の国々で様々な思惑で建設・運用されるようになれば、かつてのソ連で起きたような垂れ流しや事故が世界中に拡散するような不安を感じます。

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コソボ  総選挙で急進独立派が第一党 独立へ加速か?

2007-11-19 19:26:04 | 国際情勢

(コソボを追われたセルビア人の老女 “flickr”より By Aleksandra Radonić')

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国連暫定統治下のセルビア・コソボ自治州で行われた州議会選挙は、監視する非政府組織の18日までの独自集計によると、開票率約80%の段階で急進独立派の最大野党コソボ民主党が34%を得票し、勝利する勢い。同党のサチ党首は17日、関係国がコソボ問題を国連に報告する期限の12月10日以降、直ちに独立宣言したいとの意向を表明、情勢が緊迫する可能性も。【11月18日 共同】
******

今年2月2日にアハティサーリ国連事務総長特使が制約付きで事実上のコソボ独立を認める仲介案を、セルビア政府側とアルバニア系住民側の双方に提示しました。
その内容は以下のとおり。
・ EUと国連が任命した監督官を置く。監督官はコソボ議会の法案に対する拒否権と官僚の罷免権を持つ。
・ 独立宣言は行わない。
・ 国歌、国旗の制定、軽武装の治安部隊の保持、国境警備隊の保持については、これを認める。

セルビア、コソボの当事者間で交渉がまとまらず、安保理に委ねられました。
EU、アメリカは賛成の意向でしたが、ロシアが拒否権発動を仄めかすかたちで決裂。
(ロシアは、セルビアの強硬な反対姿勢を擁護すると同時に、コソボ独立が国内のチェチェンなどの問題に波及・影響するのを危惧しているように見えます。)
その後、アメリカ、ロシア、EUの連絡調整グループが仲介役として乗り出し、12月10日までに国連事務総長への報告を目指していますが、進展は期待できない状況です。

今回の選挙結果(急進独立派のコソボ民主党が第一党になること)は、ある程度予想されていましたので、「現地筋の間では『セルビアはコソボの独立宣言までは織り込み済み』との見方もある。(12月10日の)報告書提出後は、関係国間で国内、国際両世論をにらんだ神経戦が展開されそうだ。」との報道もされていました。【11月11日 世界日報】

とは言っても、いまや国内少数派となったセルビア人に対する報復的な暴力的民族差別行為が多かったアルバニア民族主義のコソボ解放軍(KLA)が姿を変えたのが現在のコソボ民主党(PDK)ですし、サチ党首も当時のKALの指導者ですから、独立宣言を強行した場合の国内セルビア人保護に懸念が残ります。
NATO主導の1万6000人のコソボ駐留部隊が衝突の歯止めとなればよいのですが。
「(サチ党首は)PDKを設立する支援をしてからは、穏健な人物としてのイメージを打ち出している。」【11月18日 AFP】とも言われますが・・・。


(1991年にセルビア軍によって殺害された父親の遺影を掲げるアルバニア系の少女 “flickr”より By armend nimani)

コソボ内のセルビア人側は今回の選挙はボイコットを呼びかけましたので、議席はすべてアルバニア系(コソボ人口の9割)の政党ですが、推定投票率は40~45%にとどまっているようです。
セルビア人有権者の数%分を考慮しても、“独立を問う住民投票”的な選挙とも言われるにしては少し低率のように思えますが、こんなものなのでしょうか?

セルビアは今年1月に議会選挙が実施され、急進的民族主義のセルビア急進党(SRS)が第一党を維持しました。しかし、民主派諸党全体で6割を得票し、民主派諸政党による連立協議の結果、5月にコシュトゥーニツァ・セルビア社会党党首を首班(再任)とする、民主派政権が成立しています。

コソボ問題については、セルビア人は右も左もないとは言いますが、やはり濃淡はあります。
EUとの接近を志向する現政権に対し、セルビア急進党のニコリッチ党首はかつて、「コソボは永遠にセルビアの領土だ。軍隊と警察をコソボに返したい。コソボでのセルビア人の利益は守り抜く。新アルバニア国家は認めない」(コソボに軍隊と警察を返したら、またNATOの空爆を受けることも考えられますが…?)「コソボはアメリカの領土ではない。ヒロシマ、ナガサキは原爆が落とされても日本であったように、NATOの空爆を受けてもコソボはセルビアの領土だ」と明快に語っています。

また、今年5月国会議長に就くや否や、「国連安保理が隣のコソボ独立を画策しており、セルビアが危機に立たされている」という理由でセルビアに非常事態宣言を発することを検討し、結局民主派諸政党によって“はずされた”こともあります。
コソボの独立強行が、来年1月に総選挙が行われるセルビアの急進派を勢いづかせることは当然に考えられます。

コソボも国際的支持が必要ですので、独立宣言の時期については欧米の意向を探りながらとなるように思いますが、アメリカとEUも地域情勢の不安定化は望んでいませんので、コソボ新政権に協調を迫るとみられるます。
コソボの独立強行によってセルビアが急進化し両者の緊張がたかまれば、アルバニア人が25%ほどいてやはり問題をかかえるマケドニアにも波及します。
セルビア人が3分の一を占め、かつて激しいボスニア紛争を経験したボスニア・ヘルツェゴビナもまた緊張が高まります。
ルマーニアもコソボ同様の問題を抱えているそうです。
もともとトランシルヴァニアはハンガリー人の“聖地・故郷”みたいな地域だったのですが、移住してきたルーマニア人が多くなり、2回の世界大戦の混乱を経て“ルーマニア”となった経緯があります。
セルビアがハンガリー、コソボがルーマニアに相当する関係です。
その他、ロシアのチェチェンなどの民族運動を刺激することにもなります。
紛争・制裁でドナウ川の水運が止まるとブルガリアも大打撃を受けるそうです。
“火薬庫”の諸問題が玉突きのように・・・という懸念も。

個人的には、すでに9割がアルバニア人になっており、そのアルバニア人との間でここまで問題がこじれ、現在も事実上セルビアの支配権が及んでいない以上、コソボ独立の方向で動かざるを得ないのでないかと考えています。
セルビアも領土に固執するより、いかにコソボ国内に残るセルビア人の安全・権利を保護しうる仕組みをつくれるかという観点からの交渉に切り替えるべきではないかとも思っています。
コソボのいたずらな刺激を抑制しつつ、その方向でセルビアをなんとかなだめることができれば・・・、それができないからみんな困っているのですよね・・・。


(セルビアのラザルはセルビアの独立を守るため、1389年にムラト1世率いるオスマン軍とコソヴォで戦ったが大敗を喫しました。以来、セルビアでは「オスマントルコに敗れたコソボの戦い」という歌が600年以上に渡って歌い継がれているそうです。「王国発祥の聖地コソボを奪われた屈辱を忘れるな」という歌だそうです。)

「コソボをセルビア人の北部とアルバニア人の南部に分割する案も浮上しているが、誰が公式に提案するかが問題となっている。」【8月3日 IPS】なんて記事もありましたが、本当でしょうか?

こんな記事もありました。
「1995年のボスニア大虐殺の責任を問われ起訴されているムラジッチ元軍司令官の身柄拘束を条件に、セルビアとの安定化・連合協定(SAA)の交渉を2006年5月に中断していた欧州連合(EU)のオッリ・レーン拡大担当委員が、11月6日、ムラジッチ未逮捕にもかかわらず、協定を仮承認した。これによりセルビアのEU加盟への道が開かれることとなった。」【11月17日 IPS】

上記“ボスニア大虐殺”というのは「スレブレニツァの虐殺」とも呼ばれている事件です。
国連防護部隊(UNPROFOR)は95年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ北東部の街、スレブレニツァに「安全地帯」を設け、ムスリムをそこに避難させていました。
しかし、軽装備の国連部隊(オランダが担当)は武力で勝るセルビア人武装勢力に従う形で、ムスリム8000人をセルビア人側に引渡してしまいました。
引き渡されたムスリムはバスやトラックで連行され、山林などで虐殺されたそうです。
ムラジッチ被告の起訴事実は、この虐殺を指揮・命令したというもので、ジェノサイドの罪、人道に反する罪などに問われています。
(この事件の経緯、その後のオランダでの論議については、“リヒテルズ直子のオランダ通信”というサイトで詳しく説明されています。
http://www.naokonet.com/oranda/tokusyu/tokusyu.htm#ボスニア )

セルビアの“愛国者”にとってはムラジッチは英雄であり、今もセルビア国内に隠れていると言われています。
昨年2月にはベオグラードで、ムラジッチを支持する1万人規模のデモも行われたそうです。
横断幕には「ムラジッチ氏はセルビアの誇りだ」と書かれていました。

虐殺の一部を写したビデオが国内外でTV放映されたこともありました。
「ミロシェビッチ元ユーゴ大統領は、同法廷で、スレブレニッツァ虐殺をめぐってジェノサイド(集団殺害)罪を問われている。だが、セルビア人社会には紛争時代の残虐行為を否定する空気が強く、ボスニアの元セルビア人勢力指導者ムラジッチ被告ら大物戦犯が逃亡を続けられる土壌となっている。」【2005年6月4日 読売】
どこの社会でも自分たちに都合の悪い事実から目を背けたがるもののようです。

ムラジッチ及びセルビアの行為は裁かれるべきですが、引き渡した国連防護部隊の責任も問題になるでしょう。
実際、オランダでは「オランダ軍がふがいなかったせいで8000人近くの犠牲者が出たのか?」という問いかけが長く論じられていました。
上記紹介のサイト“リヒテルズ直子のオランダ通信”によると、オランダ国内の最終的な報告書は、簡単に言えば“現地オランダ軍はあの状況ではどうしようもなかった。それより、そのような現地にろくに調べもせずに軍を派遣し放置した政府の責任が重い”とするものでした。
これを受けオランダのコック首相は内閣総辞職します。

このときの国会での表明の一部です。
「・・・ここではっきり申しあげますが、オランダは、1995年の何千人というボスニアのモスリム人の残忍な殺害に対して責を取ろうとするのではありません。このような事態が起き得た、という状況に対してオランダの政治的な協同責任を明らかにする、ということです。『国際社会』とは匿名的なもので、スレブレニツァの犠牲者とその遺族に対して目に見える形で責任を取ることが出来ません。私にはそれをすることができる、そしてそれをいたします。また、もう一度強調しますが、オランダ軍兵士らは、私が以前にも申しあげた通り、ここで起きたことについては責任を持つものではありません。彼らは非常に困難な状況の中で、大きな使命を持って彼らの仕事をしてきたのです。・・・」

「『国際社会』とは・・・」のくだりは、ちょっと泣かせるものがあります。
国連活動のあり方、それへの派兵の問題について、いろいろ考えさせられる事件です。

話が大きくそれてしまいました。
このムラジッチ問題のために止まっていた交渉が、同問題は変わっていないにもかかわらず、セルビアのEU加盟に門戸を開く方向で動き出したというのは、今後へ向けてのセルビア懐柔策か何かでしょうか?

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バングラデシュ  サイクロン直撃  数千人の死者か

2007-11-18 11:06:13 | 災害

(サイクロン“Sidr"の被害者 “fィckr”より By bdinterface )

この国の話をするとき、大災害の話が多くなるのは残念なことです。
インド北東部、バングラデシュ、ネパールの南アジアは、今年6月以来の豪雨によりここ数十年で最大規模の洪水が発生、甚大な被害が発生したことを8月9日及び9月17日の当ブログで取り上げました。
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070809
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070917
バングラデシュでも、国土の3分の1が浸水、1000人を超える死者がでました。
農業被害も甚大で、人々の暮らしに重くのしかかっていました。


そしてまた、今月16日、サイクロン“Sidr”がバングラデシュを直撃しました。
赤い“Sidr”の雲に全土がすっぽり覆われています。
“直撃”という言葉以外にはない状態です。


(“fィckr”より By bdinterface )


風速65mとも70mとも言われる強風で建物は倒壊し、5mの高潮が家々を襲いました。
私自身、子供の頃、瞬間風速が70mを越す台風を経験し、そのとき家が傾きました。
それ以来、台風に対する恐怖が身にしみついています。

被害状況を知らせる数字は、日をおうごとに倍増していきます。
16日時点では「死者250人以上」と報じられましたが、すぐに500人超へ、更に1000人超へと増え続け、今日現在では「バングラデシュ政府は17日、バルグナなど広範囲で死者1723人を確認した。一方、地元テレビの一つは同日、死者が少なくとも2千人と伝えた。政府はすべての被災地の状況を把握できておらず、政府当局者の一人はAFP通信に「死者数は数千人単位に増えるかもしれない」との見方を示した。」【11月18日 朝日】 と2000人を超えて数千人になるかもと推測されています。
今回のサイクロンは、91年に約14万人の死者を出したものと同規模とみられています。

何も対策を講じなかった訳ではなく、“政府は、91年以降整備してきた「サイクロン・シェルター」と呼ばれる高床式の避難施設などに事前に避難を呼びかけていた。被害の大きかったデルタ地域の約300万人のうち約半数が避難していたという。”【11月18日 朝日】とのことですが。

直接の被害者に加えて、住宅・食糧の不足、農業被害、感染症の流行が今後長く続きます。
わずか数行で百人単位、千人単位の死者を知らせるニュース。
増え続ける数字。
“人の命の軽さ”をつくづく感じます。


(“Sidr"でなぎ倒された稲 “fィckr”より By bdinterface )


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イラク  治安改善と「バグダッド分断策」

2007-11-17 10:57:21 | 世相

(バグダッド スンニ派の“enclave”(飛び地、孤立地域)を囲む壁 “flickr”より By John L. Knight)

イラクでの10月のイラク人死亡者数が発表され、いろいろ解釈・評価はあるものの、総体的にはここのところ落ち着いているように思える・・・という話は11月3日の当ブログ(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20071103)でもとりあげましたが、11月に入ってからバグダッドの治安改善を伝える記事をよく目にします。

バグダッドのタクシー運転手の話。
「一時、宗派間の武力抗争があまりにも激しくなったため、シーア派地区の住人は隣接するスンニ派地区を訪問するなど思いもよらず、その逆もまたそうだった。Saifさんによると、最近ではすべての地域で営業できるという。
 Mohammedさんは、市内中心部のショルジャ市場の状況を治安改善の一例として挙げた。同国で最も人気の高いショルジャ市場では、今は夕方遅くまで店が開いている。かつては正午には閉店していたという。
 また、『今は夕刻でも、女性客を乗せることも多い。以前は、バグダッド市内で女性が一人歩きをするのは考えられなかった』と語った。」【11月4日 AFP】

また、イラクのマリキ首相は5日、日没後、バグダッド中心部の通りを護衛らと散策、住民らと言葉を交わすパフォーマンスを見せたそうです。
同首相は「われわれはテロ組織と民兵組織に勝利した」と述べ、治安の改善ぶりをアピールしたとのこと。【11月6日 共同】

こうしたバグダッドの“落ち着き”は今も継続しているようです。
*****イラク:バグダッドの治安改善? 商業街のにぎわい戻る***
イラクの首都バグダッドの治安が改善傾向を示し始めた。イラク政府内からは今年2月から続けられてきた米・イラク軍による治安回復作戦の終結も近いとの観測も流れ始めている。ただ、治安が再び悪化する要因は排除できておらず、バグダッド市民は「一時的な現象に過ぎないのでは」と慎重に値踏みしている。
 バグダッド東部の中心的な商業街、カラダ地区。ここ数年、度々爆発テロの標的となってきたが今、多くの商店が営業を再開し始め、にぎわいが戻ってきた。レストランは午後9時過ぎまで営業し、週末はほぼ満席に近い。午後6時を過ぎれば人通りが途絶えた3カ月前の状況と一変した。【11月15日 毎日】
********

上記記事では、この治安改善の背景として、よく取り上げられる“スンニ派住民が米軍に協力していることや、シーア派のサドル師派の民兵組織「マフディ軍」の攻撃停止”を挙げつつ、「バグダッド分断策」と呼ぶバグダッドの治安改善策の現状を報告しています。

これによると、市内の至る所には高さ3~5メートル以上のコンクリートの壁が張り巡らされたそうです。
これは過激な武装組織や民兵組織の進入、逃走を防ぐ狙いがあり、ある地区から別の地区に通じるゲートは通常1、2カ所です。
また、イスラム教シーア派とスンニ派の宗派対立激化を受け、バグダッドでは宗派別の住み分けが進んだそうです。コンクリート壁に囲まれた各地区はそれぞれが同一宗派の聖域と言え、バグダッドは都市としての一体性を失ったとも報じています。

バグダッドの治安改善をもたらしたのは、壁と関所、そして“住み分け”のようです。
壁と関所に守られた“住み分け”は、長期的には宗派間の緊張関係を潜在的に固定化させるものかもしれません。
多くの内紛国で行われる“民族浄化”を連想させるものがあります。
ただ、これによって犠牲者が減少したのであれば先ずは喜ぶべきでしょう。
このような分断でしか安全が確保できないというのは残念なことですが、これが現実なのでしょう。
治安改善が全国的にも定着したあかつきには、このような壁を低くしていく真摯な努力が望まれます。

なお、米国務省がイラクに外交官を強制的に赴任させる方針を打ち出し、職員からは「(辞令は)死刑判決に等しい」と反発の声があがっていた問題で、不足していた48人の枠が志願者で埋まる見通しとなり、強制赴任は回避されたそうです。
これも治安改善の結果でしょうか。【11月16日 読売】 
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イラン  チャドル、ラグビーそして一時婚

2007-11-16 17:12:09 | 世相

(これはかなりきちんとしたチャドルでしょう。 “flickr”より By farshad5475 )


最初はトルコから、またスカーフの話。
これまでも取り上げてきたように、トルコは建国以来徹底した政教分離を国是としており、学校など公の場でのスカーフ着用を禁じています。
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070901など)
この“スカーフ”は政教分離を重視する世俗主義の象徴でもあります。
しかし、今年7月の総選挙でイスラム主義政党である公正発展党が勝利し、同党所属のギュル元外相が大統領に就任するという情勢で、若干これまでと異なる流れが出てきているようです。
公正発展党は総選挙では“公的な場でのスカーフ着用解禁”は公約からはずし、世俗主義を堅持する姿勢を見せましたが、“そうは言うものの・・・”というところもあるようです。

エルドアン首相は9月19日付の英紙のインタビューで、イスラム教の象徴とされる女性のスカーフ着用について、大学での禁止措置を「撤廃すべきだ」との考えを示しました。
制定作業が進む新憲法案には、スカーフ着用を認める「個人の自由」が盛り込まれる可能性があるとも報じられています。【9月20日 読売】

そんななかで、イスタンブールに開校した米国系の私立大学が、イスラム教徒の女性に学内でのスカーフ着用を認め、論議を呼んでいるそうです。
同校は「米国の大学」であるため、政府の高等教育審議会の規則に準じる必要がありません。
スカーフ着用にこだわる女子学生の中には、費用のかかる外国留学を選択する人も少なくなく、信仰深く保守的な女子学生からは留学の必要がない同校に対し歓迎の声が上がっているそうです。
しかし、「イスラム化」を懸念する世俗主義の一部は同校の方針を問題視し始め、またこの「世俗対宗教」という“スカーフ”論議が再燃するかも・・・とのことです。【11月15日 毎日】
なお、女子学生の約1割がスカーフを着用しているそうです。

イスラム女性の服装つながりで、次はイラン映画「チャドルと生きて」の話。
イランのジャファル・パナヒ監督の作品で、2000年ヴェネティア国際映画祭グランプリ賞他、様々な賞を受賞した映画です。
イランが遠心分離機3000台を設置し終えたとか、IAEA報告書を受けて制裁をどうするかとか・・・そういった話よりも、イランの人がどんな服を着て、何を食べて、どんな家に住んで、どんなことを悩んでいるのか・・・そういったことのほうがイランという国を多少なりとも理解する上で役に立つのでは、政治的なニュースから得られるイランのイメージと国内の人々の暮らしぶりにはギャップがあるのでは・・・そんな思いからこの映画を取り寄せてみました。

チャドルはイスラムの女性が外出のときに着用する頭から体まですっぽり覆う布です。
いろんなタイプがあると思いますが、映画の中で登場人物が使用していたのは、黒っぽい風呂敷を大きくしたようなただの布切れです。


(映画「チャドルと生きて」のワンカット)

スカーフの上から更にこのチャドルを被ります。
映画の中では、病院に勤める友人に会うため建物に入ろうとすると、受付女性から「チャドルがないと入れない」と断られて、スカーフだけの女性が「知らなかった。急いでいて持ってくるのを忘れた。」と困るシーンなどがあります。
「チャドルと生きて」というのは日本でつけたタイトルで原題は「The Circle(円)」です。
こういう日本語タイトルにしたのは、映画が描いているイランの女性を取り巻く制約を“チャドル”に見立てたのでしょう。
(チャドルについては、当の女性たちから「下に何を着ていてもわからないという意味で気楽でいい」という声もあるそうで、かつての王政時代にチャドルが禁止されたとき、一番反対したのは貧困層の女性だったそうです。)

原題の「The Circle(円)」は直接的にはこの映画の構成を表しています。
病院の分娩室で赤ちゃんが産まれる。明るい病室の白いドアの小窓から覗く妊婦の母親は、生まれた子供が女の子と聞いて「検査では男だったはずなのに。女の子では夫の家から離縁されてしまう。」と途方にくれます。
この“望まれない”女児の出産から、登場人物がかかわったり、あるいは同じ場所に居合わせたりした別の女性に話は次々にバトンが渡されていきます。

刑務所から仮出獄してきたらしい女性。故郷に帰ろうと恋人か家族の男性にシャツを土産に買う。身分証明書を見せるか同伴者がいないとバスのチケットも買えない。なんとかウソをついて手に入れるが、警察の検問に怯え結局バスに乗れない。
獄中で知り合った男性の子供を妊娠している女性。その男はすでに処刑されており、なんとか子供をおろそう脱獄までするが、実の兄たちから逃げるように家からも飛び出す。夫もいない父親の同伴もない彼女をどこの病院も相手にしない。
刑務所時代の友人で今は医師と結婚して病院勤めの女性を頼るが、自分の過去を隠しているその女性はひたすら夫にばれるのを恐れるだけ。
女ひとり、身分証明書もないとホテルにもとまれない。困って歩く街角で知り合う自分の子供を置き去りにして逃げようとする女性。「施設に入れられたほうがあの子にとっては幸せ・・・」と置き去りにしたあと、売春のおとり捜査にひっかかる。「こういうことは初めてなの。見逃して・・・」
別の売春捜査で拘束された、すべてを見透かしたような、半ば開き直ったような売春婦。

登場する女性はすべて身の置き所もなく困り果てた女性達ばかり、その厳しい境遇の連環を画面はたどります。
どうしてそうなったのか、これからどうするのかといった説明はありません。
一方で、男性はと言うと、おなかの子供の処置に悩む女に命じて自分の不倫相手の女性を電話口に呼びだす警察官、売春婦を拾ったことがばれて警官を拝み倒して目こぼししてもらうタクシー運転手・・・自分たちに都合のいい人生を生きています。

最後、売春婦が連れて行かれた真っ暗な拘置所、その闇の中にこれまで登場した女性達がうずくまっています。
警官に呼ばれた女性の名前は、映画冒頭の出産シーンの女性の名か?
暗い部屋の小窓が冷たく閉ざされ全くの闇だけがのこります。

非常に暗い、救いのない映画です。
イラン国内では上映が禁止されているのは当然ですが、テヘランを舞台にしたこのような映画が撮影できたことすら驚きです。
2000年というハタミ大統領の頃で、規制は一番緩かった時代ではありますが。

パナヒ監督の最新作「オフサイド・ガールズ」が今公開されています。
イランでは男性のスポーツ試合を女性が観戦することは禁じられています。
でも「私たちだって、サッカーの試合がスタジアムで観たい」という女の子達が男装してスタジアムに潜り込み引き起こす騒動・・・というコミカルなタッチの映画ですが、島では上映されないので、レンタルDVDでも出る頃にならないと目にできないでしょう。

イランで全ての女性が抑圧されているという訳ではもちろんありません。
映画「オフサイド・ガールズ」の向こうを張るような“オンサイド・ガールズ”とでも言うべき女性たちの活躍を伝えるニュースもあります。
女子ラグビーに熱中する女性を紹介した記事です。



*********
イスラム教国のイランでは、激しいスポーツの類に入るラグビーと女性は理想的な組み合わせとは言えないかも知れないが、公的機関の勧めもあり、女性たちは熱心に取り組んでいる。
イランの女性は頭と体を布で覆わなければならないが、ラグビーフィールドでも例外ではない。女性たちは「マグナエ」と呼ばれる頭、首、肩をすっぽり覆う布をかぶり、長袖の濃い色のTシャツ、ぶかぶかのベストとジャージーといういでたちでフィールドを突進する。
ラグビーのようなスポーツのためにデザインされたユニホームとはとても言い難いが、「パス!」「タックル!」などと男子選手顔負けに叫びながらフィールドを駆けめぐり、ほかのどこでも味わうことのできない方法で汗を流せるため、選手たちは気にしていないようだ。
イランの女性は、自らを中東では最も自由を享受していると考えているが、依然として仕事や趣味を、出産、料理、掃除など昔から期待されている役割と両立させざるを得ない。
女性の競技スポーツが厳しく抑制された1979年のイラン革命当時には、女性がラグビーのような激しいスポーツをすることは想像すらできなかった。世界的競争力をつけるにはまだ道のりは遠いが、状況は変りつつある。
【11月7日 AFP】
**********

イランやイスラム世界の女性の権利に問題があるという指摘に、「女性を守ってあげるための保護主義の表れであり、女性をないがしろにしているわけではない・・・」という言い方がときどきされます。
やはりこれは詭弁でしょう。
男性が望む“貞淑な妻、良き母親”の道から一旦はずれた女性には、過酷な人生が待ち受けています。
もちろん日本もまだまだ男性社会ですから女性がひとり生きていくことは大変ですが、イランではバスにも乗れない、ホテルにも泊まれないというように、街角で立ち尽くしてしまいます。

仮に“良妻賢母”として生きようとしても、男性中心の社会における家庭内でどのような現実がおきるかは殆ど想像力を必要としないところです。
イランに限らず、中国・インドなど女性の権利が十分でない国々では多くの女性が家庭内暴力等に苦しんでいます。

イランには“シーゲ”(一時婚、臨時婚)と呼ばれる制度があるそうです。
聖職者にコーランを読んでもらう、あるいは、男女二入だけでコーランの一節を読むだけでも“臨時の婚姻関係”が男女間に成立するという仕組み(金銭的関係がある場合でも)で、その期間は一夜でも百年でもいいそうです。
http://www.tkfd.or.jp/blog/sasaki/2007/06/no_15.html(中東TODAY 佐々木良昭 日時: 2007年06月03日)
上記サイトに、従来から黙認されていたこのシーゲをイラン内相が正式に認めたという記事があります。

このサイトの説明によると、正式な結婚との差異は、遺産の相続権が臨時婚の相手の女性には発生しないことと、男性側の家族の承認を必要としないという点だそうです。
イスラム法では4人までの妻帯を許されていますが、臨時婚の場合には、男性は何人とでも結婚ができるということになるそうです。
認めた理由は貧困女性の生活保護と、男女の性的満足を満たす(若者の暴発を抑制する)ということだそうです。
「臨時婚を認めるということは、悪い表現をすれば売春の合法化であり、よく言えば貧困者、寡婦などの救済、性道徳の乱れを抑えるということであろう。」と佐々木氏は述べています。
なんとも男性に都合のいい制度ですが、このシーゲの問題は生まれる子供が男性から認知を受けられず放置されることです。
表向きストイックな宗教社会の裏には、これを支える現実があり、それはどこまでも男性中心の仕組み・・・といったところのようです。
イランの売春・麻薬・シーゲ・DVを描いたカナダのTV番組を録画した、こんな動画もありました。
http://governmentdirt.com/prostitution_behind_the_veil_in_iran_cbc_passionate_eye

長くなりましたが、最後に、三井昌志さんという方の旅行記・写真サイトにこんな一節がありました。
バスでイランからトルコへ国境を越えるときの様子です。

* ***チャドルを脱ぐ女達*****
バスに乗り合わせていた女達の表情も、イラン側にいる時とトルコ側にいる時では違っていた。イラン側では女性は皆、黒チャドルで全身を覆わなければいけない。しかし国境を越えてトルコに入るとその義務はなくなるから、そそくさと脱いでしまう。そして、用意していた明るい色のスカーフに着替える。スカーフの色が変わると、女達の表情も明るくなる。重い荷物を降ろしたときのように、ほっと顔が和む。少なくとも僕の目にはそんな風に見えた。中には煙草を吸い始める女性もいる。人前で煙草を吸う女性の姿は、イランでは一度も見かけたことがなかった。
チャドルを脱ぎ、人目を憚ることなく煙草を吸う。そんなささやかな自由を手に入れただけでも、人の表情は変わるものなのだ。
http://www.tabisora.com/travel/081.html



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ベルギー  続く政治的空白 将来は離婚?

2007-11-15 14:59:51 | 国際情勢

(フランドル地域の分離を主張する集会 黄色地の旗がフランドルのオフィシャルフラッグ 道路を引きずられているのがベルギー国旗 最後尾の方はなにやらスキンヘッドで怖そう。 この写真、必ずしもベルギー人一般を表してはいないように思います。
“flickr”より By Skender )

個人的には殆どヨーロッパに興味がないので、ベルギーと言うと「首都ブリュッセルにEU本部が置かれている・・・」程度のイメージしかありません。
もう少し頭を絞ると、数十年昔、高校の地理の授業で教わった「ベルギーという国は北部(フランドル地域圏)にはオランダ語系のフラマン語を話すフラマン人、南部(ワロン地域圏)にはフランス語またはワロン語(フランス語の方言的なものだそうです。面倒なので以下、両方まとめて“フランス語”と略します。)を話すワロン人が住んでいて・・・」といった記憶がかすかに残っています。

人口的には、ベルギーの人口約1050万人のうち、フラマン語のフランドル地域圏に600万人、フランス語を話すワロン地域圏に350万人、フランス語人口が大半を占める首都ブリュッセルに100万人が住いんでいます。

ベルギーは1人当たりのGDPが世界最高クラスですが、工業・サービス業が発達した北部のフランドル地域に比べ、石炭・鉄鋼業が衰退した南部のワロン地域では失業率が2倍以上あります。
北部と南部では言語が違うことから、労働者の需給にギャップが生じても、南北間の人的交流が生じにくく、これも失業率の格差が縮まらない一因となっているそうです。【ウィキペディア】

そんな事情で、この両者の間には政治的緊張もあるようです。
昨年12月には公共TV放送が、「北部フランドル地域圏が分離独立する・・・国王はコンゴ(旧ベルギー)へ亡命した・・・」という、オーソン・ウェルズの“火星人襲来”のような、まことしやかな偽情報を臨時ニュースとして流したところ、国中が大騒ぎになりました。
(TV局の趣旨は“議論を喚起するため”というもののようですが。)

今年7月には、“次期首相として組閣要請を受けているキリスト教民主フランドル党のイブ・ルテルム党首が、TV局の取材で「今日21日(建国記念日)は何の祝日か?」と聞かれ答えられず、またベルギー国歌を歌うよう求められてフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌った。記者に、本当にそれがベルギー国歌「ラ・ブラバンソンヌ」の歌詞だと思っているのかと問われると「分からない」と答えた。・・・”というニュースもありました。【7月23日 AFP】

建国記念日は私も知りませんのでともかく(ベルギー人も建国記念日の由来を知っているのは5人にひとりとか)、国歌はどうでしょうか?
ルテルム氏はフラマン語系の政治家ですが、冗談か皮肉かでフランス国歌を歌ったのか、口にしたくなかったのか、本当に知らなかったのか・・・よくわかりません。
冗談なら、この話は敢えて世界配信にならないような気もしますが。(当然知っていると思えば、記者もこんな質問しないと思いますし。)
本当に知らなかったなら、ベルギーにおける“国家”の位置づけが気になります。
日本でも県歌とか市歌なんてありますが、多くの人は私を含め知りません。
ベルギー国歌もその程度の認識しかされていないということでしょうか?

もう少し深刻な話が“南北対立で新内閣が組閣できず、政治的空白が150日続いている”というもの。
*********
北部オランダ語(フラマン語)圏と南部フランス語圏との対立が先鋭化するベルギーで、6月10日の総選挙後、新政権が成立しない政治空白期間が150日を超え、過去最長を更新した。ベルギー王室は改めてオランダ語(フラマン語)圏とフランス語圏の「対話」を要請しているが、事態は膠着(こうちゃく)化しそうな雲行きだ。

ベルギーは6月10日の総選挙で中道右派政党・キリスト教民主フランドル党(CD&V)が勝利し、ルテルム党首が国王から組閣を命じられた。党首は南部フランス語圏地域の政党との連立政権を目指したが調整に失敗し、一時は組閣を断念。しかし、国王は9月末に再度、党首に組閣を命じ、党首もCD&Vとフランス語圏のリベラル派を結集した中道右派政府の誕生を目指したが、調整は難航している。
ベルギーのメディアは政治空白の長期化について、チェコとスロバキアの分裂国家を例に、ベルギーも両語圏に分裂する恐れを指摘している。【11月13日 産経】
*********

こうした中、先週7日の連邦下院委員会で、ブリュッセル首都圏(フランス語系が8割を占める都心エリアとフラマン語系が過半を占める郊外自治体を併せた圏域 地理的にはフランドル地域圏に囲まれているが、政治的には従来からフランス語系政治家が抑えていると言われています。)について、首都圏から郊外自治体を分離しようという案がフラマン語圏議員によって強行採決されました。
連立が進まない事態に対する揺さぶりですが、フランス語系住民にとっては、こうした動きは“「いんぎんな形の(暴力を使わない)民族浄化」(英誌エコノミスト)と映る”とも報じられています。【11月12日 時事】

ベルギー国家は「共同体」と「地域」の2層からなる連邦組織です。
「共同体」は言語によるもので、フラマン語・フランス語・ドイツ語(非常に小規模)の各「共同体」
「地域」は地理的な区分で、北部のフラマン語地域、南部のフランス語地域、そしてブリュッセル首都圏

93年憲法で連邦制として規定されており、連邦政府は、外交や国防、社会保障などといった限定された権限しか持っていません。
その他の権限が、「共同体」「地域」に移譲されていて、「共同体」政府の主な権限は、文化政策(マス・メディアなど)、教育政策、社会保障をのぞいた厚生政策、「地域」政府の主な権限は都市計画や環境といった生活環境の管理、経済政策、地方自治体(県・コミューン)の行政監督となっています。
「共同体」「地域」には、立法権のほか、どのような政府を構成するかについての権限も与えられています。
将来的には憲法制定権も与えられると考えられているそうです。
(All About “ベルギー政治の基礎知識2007”
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20071012A/index.htm より抜粋)

非常に複雑です。正確に記述するともっと複雑のようです。
なんやらよくわかりませんが、(日本人からすると)おそろしく“手の込んだ”装置で国家を形成・維持しているようです。
もとより、世界の多くの国は国内に複数の民族・人種、文化を抱えているほうが一般的で、その間に政治的緊張が存在することもごく普通のことです。
アメリカの人種問題、マレーシア・インドネシア・インドなどの他民族国家、多くの国々に存在する少数民族問題、スーダンのアラブ系とアフリカ系の対立、ルワンダのフツとツチの抗争、イラクの宗派対立・・・。
内紛・対立は別にアジア・アフリカだけでなく、カナダのケベック、スペインのバスクなど世界中その手の問題だらけです。

日本は海岸線で明瞭に区切られた国土に、もちろん在日とかアイヌ(ウタリ)の方などいますが、数のうえではほぼ単一に近いような民族が単一の文化をもって暮らしていますし、移民なども西欧各国に比べればまだ少ないので、私などにとっては、国家・民族・国土などというのは“最初から存在している自明の空気みたいな”存在で、普段これらを意識することは殆どありません。
こういう条件は世界的にはむしろ例外の部類でしょう。

ベルギーの連邦制は、そういった日本人の目からすれば、いかにも“つくられたもの”のような感じもしますし、すでに一部“家庭内別居”に踏み込んでいるようにも思えますが、ベルギー国内では“完全離婚”を求める声は極右政党などを除くとそんなには強くないとも聞きます。
ベルギー国民は“地域、国家、ヨーロッパ”という3層のアイデンティティーを持っているとも言われます。
ただ、今後EUの機能が拡充すれば、中間にある“国家”の存在意義も改めて問われるかもしれません。
ヨーロッパでは近年の分離例としては、協議離婚が成立したチェコスロバキアの“ビロード離婚”(93年)もありますが、ユーゴスラビアのように血で血を洗う事態になったケースもあります。

現代社会では、伝統的な規制が緩み、経済環境が変化するなかで、“家族”が崩壊し、社会の単位が“個人”へ移行しているように思えます。
そのような動きとも連動するように、他民族国家を規定していた制約がゆるみ、グローバル化のなかで、各民族が独自の自立権を求めて次第に分化していくことが多いようにも見えます。
これまた、数十年前、高校の政治経済の授業で教わったホッブス、ロック、ルソーなどに立ち返り、“国家とはなんぞや?”という問いが必要なのかも。


(ナポレオンが作ったフランドル地方に残る運河 世界最高水準の所得と美しい国土 分離でも何でも“好きにすれば?”と言った感じも。“flickr”より By benppiper)




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カンボジア  特別法廷 イエン・サリ夫妻逮捕

2007-11-14 16:03:19 | 世相

(なぜ自分が殺されなければならないのかもわからないまま、ツールスレン収容所で死んでいった大勢の人々 “flickr”より By faeez)

カンボジア捜査当局は12日、旧ポト・ポル政権ナンバー3だったイエン・サリ元外務担当副首相(78)と妻のイエン・チリト元社会問題相(75)を首都プノンペンの自宅で逮捕しました。
イエン・サリ元副首相には人道に対する罪と戦争犯罪、イエン・チリト元社会問題相は人道に対する罪の容疑がかけられています。

カンボジアの旧ポル・ポト政権時代の大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷については、拷問で悪名高い政治犯収容所のカン・ケク・イウ元所長(通称ドッチ)が7月末拘束された際に当ブログでも取り上げました。
(8/1 http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070801 )

1975-79年のポル・ポト政権下では百数十万人(正確なところは不明)が死亡したり処刑されたといわれています。
ドッチに続いて、政権ナンバー2だったヌオン・チェア元カンボジア人民代表議会議長が9月身柄拘束されていました。
今後、キュー・サムファン元国家幹部会議長も拘束される見通しで、虐殺の真相解明に向けた追求が本格化する予定です。

(追記「カンボジア政府は14日、旧ポル・ポト政権のキュー・サムファン元国家幹部会議長(76)の身柄を同国西部パイリンの自宅からプノンペンに移送する作業に着手した。元議長は13日、高血圧などで体調が悪化したといい、ヘリコプターでプノンペンに移送後、治療を受ける。ポル・ポト政権の元最高幹部を裁く特別法廷は、元議長の健康に問題がなければ戦争犯罪や人道に対する罪で逮捕するとみられる。【11月14日 時事】)

なぜあのような国民の4人に1人が殺されるという異常な大量虐殺が行われたのか?
政権の中枢にいた者はみな自らの責任をうやむやにして、他人に転嫁しようとしています。
以下、「ポル・ポト<革命>史」(山田寛著)から、関係者の発言を抜粋します。

ポル・ポト元首相(1998年死亡)は生前にインタビューで語っています。
「自分は民衆を殺すためではなく、闘争をしに生まれてきた。我々が闘争したからカンボジアはベトナムに呑み込まれずにすんだ。そのことに非常に満足している。我々の運動は間違いも犯したが、そんな間違いは世界中のどんな運動にもある。数百万人が死んだなんて誇張にすぎない。ベトナムの手先がいたるところに潜り込んでいた。我々は自分の身を守らなければならなかった。」
「自分はトップの人間で、大きな問題の決定しか行わなかったから、ツールスレン(ドッチが所長をしていた政治犯収容所)など聞いたこともなかった。あれはベトナムが作った博物館だ。」

タ・モク(元軍総参謀長 後年ポル・ポトと袂を分かち、ポル・ポトを拘束、最高権力者となる。その残忍な性格から“The Butcher(屋)”の異名を持つ。昨年死亡)の生前のインタビュー。
「アメリカは数百万人死んだと言うが実際は数十万人だろう。ポル・ポトが人道に反する罪を犯したのは明らかだ。ツールスレンもポル・ポトだけの責任。彼の手は血にまみれているのだ。」

ヌオン・チェア(共産党副書記長 ポル・ポトに次ぐナンバー2 拘束中)の98年投降時のコメント。
「人命ばかりでなく、内戦で生命を落とした動物たちにも申し訳なかったと思っている。」
(国民の命などは動物と同程度の価値しかなかったのか?)

ドッチ(アウシュビッツとも並び称されるツールスレン政治犯収容所所長。行方がわからなくなっていたが、96年に発見されたときはキリスト教の洗礼を受けて、タイ国境近い森の中で、国連・アメリカ民間救援組織のバックアップを受けながら難民救援活動を行っていた。関係者の中で唯一全面的に自分の非を認めている。拘束中)
「私の罪は、あの頃神でなく共産主義に仕えたことだ。殺戮の過去を大変後悔している。」
「ポル・ポトは『党内の敵を見つけ出し、党と国を防衛しなければならない』と言い、その仕事をヌオン・チェアに任せた。ヌオン・チェアこそ殺戮の主役だった。キュー・サムファンなど筆記係にすぎなかった。」
「まず裁判にかけるべきはタ・モクとヌオン・チェア。ポル・ポトとソン・セン(元国防担当副首相)が生きていたら彼らもだ。」

今回逮捕されたイエン・サリ(副首相 党内ナンバー3 96年にポル・ポト派を離脱、新政権に投降して国王の恩赦を受けた。その後のポル・ポト派投降のさきがけとなった。投降後はバイリンのルビー採掘の権益を握り優雅な余生を送っていたが、近年は心臓疾患を患い、治療のため隣国タイのバンコクを頻繁に訪れている。)
「私は誰も処刑していないし、その指示もしていない。ポル・ポト1人で大小すべての決定を行っていたが、虐殺に関しては、ヌオン・チェアを長とする秘密公安委員会が実権を行使した。国民虐殺の責任はポル・ポトとその取り巻きのヌオン・チェア、ソン・セン、ユン・ヤット(ソン・セン夫人)、タ・モクにある。この5人こそ死刑に値する。」
「私は国民に自由を与えようとして、何度もポル・ポトと対立した。ポル・ポトは93年に私を暗殺しようとした。」
(本当に対立していたら、なぜ活動中に粛清されなかったのか?)

ケ・ポク(党序列13番目 軍副司令官 東部地域の大粛清の実行責任者で、無類の残忍さを発揮 98年帰順 その後政府軍の将軍に任じられ02年死亡)
「(政権をとるまでの)70~75年のポル・ポトの指導は正しかった。住民の支持を受けた。国際社会の支持も受けた。だからこそアメリカに打ち勝つことができた。」
「だが(政権をとった後)ポル・ポトは他国に負けない発展を目指した。そのために国民の命を犠牲にしたのはポル・ポトだ。」

キュー・サムファン(元国家幹部会議長 政権の“表の顔”として活動)
04年に自伝を出版。その内容は「私は知らなかった。」というもの。

責任を認めたドッチ以外は見事な責任のなすりあい、あるいは「ポル・ポトが悪い」という“死人に口なし”です。

なお、今回逮捕されたイエン・サリ夫人のイエン・チリトは、革命前カンボジアで始めての英語教育校を設立、パリ留学ではシェークスピア文学を研究した外国文化に造詣が深い経歴を持ちますが、彼女が夫ともにかかわった政権は徹底的に外国文化、というより自国も含め文化全般を弾圧、文化人の経歴を持っている、英語を知っているというだけで殺されるような社会をつくりました。
フン・セン現カンボジア首相はかつて「ポル・ポト夫妻、イエン・サリ夫妻の四人組が真の実力者だった。二人の妻はキュー・サムファンなどよりよほど力があった。チリト夫人の夫への影響力はすこぶる大きく、サリやサムファンが出す文書の多くが彼女によって書かれていた。二人の妻は完全な毛沢東主義者だった。」と語っています。

チリトの姉ポナリーはポト・ポルの最初の夫人(後年離婚 03年死亡)です。
ポナリーについては「女性的魅力に欠けていたため、その鬱憤が後年の残酷政治に繋がった」との説もあります。また「政権をとる前の70年代前半に精神病を患っていた」「ポナリー夫人は大量虐殺や残虐政治をやめさせたいと思っていたが、夫のポル・ポトはとりあわなかった。それが別居の原因だった。」などの話もあります。
多くの話同様、その真偽は不明です。
 
ポナリー・チリト姉妹の父は裁判官で、後に王女の1人と出奔するほど王族と親しい関係にありました。
シアヌーク国王は姉妹の子供時代をよく知っていたそうです。
革命政権の中枢にいた者達には明瞭な共通事項があります。
地主・資産家・裁判官などのブルジョア階級出身、シソワット高校卒業、フランス留学、教員の経験があるという点です。
イエン・サリ、チリト、ポナリー、キュー・サムファン、はこの全てに該当しますし、ポル・ポトやソン・センも高校を除くとフランス留学など他の事項には該当します。
留学経験のないヌオン・チェアやドッチは例外的な存在です。

これほど教員経験者がそろった政権が教育を殆ど否定する(中学校は全く存在せず、小学校もごく一部、1日30分ほど革命の歌やスローガンを教える程度)というのも不思議と言うべきか、経験の反動としての結果だったのか・・・
これほど留学経験者がそろった政権が、外国の影響を一切排除しようとしたのは・・・・
彼らの農業などとは無縁の出自が、政権の“超観念的な”現実無視の農業重視政策、都市否定政策を生み出したのでしょうか。

都市・文化・貨幣を否定し、教育も行わず、家族も否定して集団食事を導入し、農業だけに実現不可能な期待をかけ、国民を“使い捨て”労働力として死においやり、西洋医療を否定して字も読めない子供を“裸足の医師”にしたて、大人を信用せずに子供を兵士にしたて、あらゆる者を“ベトナムの手先”として粛清し・・・現在の私たちの価値観からすると理解不能な異様な社会ですが、恐らくポル・ポト等は本当に信じていたのでしょう。
自分たちが“アメリカ、ロン・ノル旧政権、ベトナムの力をはねのけ、いまだ中国すら実現していない偉大な真に新しい社会を作りつつあるのだ”という妄想を。
今日を生き残るのに精一杯の国民からの批判などありようもないですから、ブレーキもかかりません。

また、彼らが手本にした中国は文化大革命およびその後の混乱期であり、農村への下放とか造反有利といった既存の価値・概念の否定の風潮が広まっており、ポル・ポトが目指した原始共産制的な社会は当時の中国社会を更に純化したような社会にも思えます。

また、中国では文化大革命に先立つ大躍進政策では2000万人もの餓死者を出したとも言われていますが、革命の遂行のためには“多少”の犠牲は止むを得ない、あるいはスターリンの粛清にみられるような革命を守るためには敵は殲滅する必要がある・・・そのような“人命軽視”の風潮が当時の共産主義社会にはあったのではないでしょうか?

更に、カンボジアに歴史的に存在する隣国ベトナムへの敵愾心が、「ベトナムの手先」というレッテル張り、大粛清につながっていく。

そんな、実社会経験の乏しいエリート達の頭の中で膨れ上がる妄想、圧倒的な暴力システムによる批判の抹殺、共産主義社会にみられた人命軽視の風潮、ベトナムへの敵愾心・・・それらが“4人に1人が殺される”という異常な社会を生んだようにも思えます。

フン・セン首相は特別法廷に消極的だと聞きます。
当然でしょう。彼やヘン・サムリン等自身がかつてはクメール・ルージュの一員であり、ベトナムとの関係を疑われそうになってベトナムに逃げた東部地方幹部だったのですから、いまさら昔の話は蒸し返したくないのでしょう。
自分たちに降りかかる問題が出かねませんから。
また、政治的にみても、いちおう安定した現状をつついてことさらに問題をおこさなくても・・・という思いもあるでしょう。バイリンにはまだ旧ポル・ポトの一派が多く住んでいます。

もはや、政権中枢にいた多くが死亡し、生き残っている者も高齢・病気で、報復のための裁判は成立しません。
ただ、カンボジア国内ですらポル・ポト以後に生まれた若者が増え、ポル・ポト時代の記憶が風化していくなかで、この裁判によって惨劇の真実を明らかにしておくことは将来をあやまたないための灯りともなりますし、なにより死んでいった大勢の人々に対する残されたものの責務であると考えます。

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地雷  進まない除去作業

2007-11-13 14:07:11 | 世相

(地雷で前足を失った象 スリランカ “flickr”より By DexterPerrin)

昨日12日、地雷問題に取り組む「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」が報告書を発表しました。
内容は報道されているとおりで特段付け加えることもないのですが、素通りするのも・・・と思われて取り上げました。

ICBLは対人地雷禁止条約の順守状況の監視や地雷除去に取り組むNGOです。
報告内容は以下のとおりです。
・ 06年に報告された地雷による犠牲者は前年比16%減の5751人(ICBLは、実際の犠牲者数はもっと多いだろうとの見解を示しています。) ここ4年間で半減
・ ミャンマー、ソマリア、レバノンなどの紛争地帯で犠牲者数が増加
・ 死傷者の7割以上は一般市民で、その34%が子供
・ 地雷で手足を失うなどした生存者数は07年8月時点で世界に約47万3000人存在
・ 新たに対人地雷を埋設したことが確認されたのはミャンマーとロシアの2カ国
・ 中国、ロシア、米国など対人地雷禁止条約非加盟の約40カ国が保有する地雷数は約1億6000万個
・ 同条約は一定期間内の埋設地雷の除去を締約国に義務づけているが、09~10年に期限を迎える29カ国の半数近く(ボスニア・ヘルツェゴビナやカンボジア、チャドなど14カ国)が達成は絶望的(国際支援が十分でなく、資金的に困難なため。)
・ 99年以降、地雷の除去が完了した土地は2000平方キロメートルに及ぶが、依然として20万平方キロメートルの広さの土地に地雷が埋まったまま

最後の数字からすると、除去完了面積はここ7年間で1%・・・ということは、単純に計算すれば、このペースではあと700年かかるということにもなります。
およそすべての兵器・武器は殺傷のための道具であり、核爆弾からカラシニコフに至るまで、“良い兵器”“悪い兵器”という区分も奇妙に思われます。
その中でも地雷のイメージが悪い原因は、犠牲者の多くが“手足を失う”という姿で生き残るため、その痛ましい犠牲者を街中で目にする機会が多いこと、戦争・紛争解決後も迷子の地雷が無数に残存し、クラスター爆弾の不発弾同様、その犠牲者の多くが一般市民であり、また子供であることにあります。

あえて殺さずに負傷者にすることで敵方の負担を重くする(負傷者は完全に戦力外になり、更に、重傷者を後送する兵・手当てする兵が必要になる。)という発想にも嫌なものを感じます。
(「では、殺したほうがいいのか?」と問われると返答に窮しますが・・・)
自軍の地雷被害を避けるために捕虜を先に歩かせるとか、そのような点も見越して、何回か踏んでから爆発する地雷の開発とか・・・息苦しくなるもの感じます。

なお、ウィキペディアによると、最近の地雷は“迷子”にならないようにいろんな技術改良がなされていて、正規軍が正しく埋めた地雷は紛争後は安全に除去できるそうです。
問題なのは、そのような優れた地雷は条約で製造をやめる反面、何も対策がなされていない安価な従来型の地雷が反政府武装勢力など非正規軍によって今も無管理に埋められていることだそうです。

数年前、カンボジアのアンコールワットを旅行した折に、シェムリアップにある“アキラ地雷博物館”(最近郊外のバンテアイスレイ遺跡近くに移転いたそうです。)を訪ねました。
いわゆる“博物館”という立派なものではなく、アキラさんという地雷除去を続けている現地の方、それを支援するボランティアの方々による文字通り“小屋”のような建物で、周囲・内部に処理済みの地雷・その他不発弾などが無造作に山積みされているようなところでした。

日本から来ている若いボランティア女性に説明してもらい、地雷を実際に踏んでみました。
踏んだとき地雷のバネが外れる不気味な感触(爆薬が入っていればそのとき私の足は吹き飛びます。)が、今も足裏に残っています。

よくTVなどで地雷除去作業の様子を見ます。
金属探知機みたいなものを使い、注意深く掘り出して・・・なんとも危険な、かつ、手間隙かかる作業です。
これでは除去作業が進展しないのも無理ありませんし、こんな作業をする方の神経がおかしくなってしまうのでは?と心配されます。

一方で、ショベルカーを改造した地雷除去車もときにTVで見ることがあります。
カンボジアに自社で改造したこの重機を持ち込んで作業されている日本の方(山梨日立建機の雨宮社長 http://www.hitachi-kenki.co.jp/company/environment/mine.html)もおられて、その紹介番組を拝見したこともあります。
もちろんそういった重機が使用できる場所とそうでない場所はあるのでしょうが、安全性・効率が格段に違います。
企業のCRS活動(Corporate Social Responsibility)というものが全くのチャリティなのかある程度利潤ベースのものなのかよくわかりませんが、国としてこのような活動を更に推し進める策を講じてもらいたいものです。
(恐らく、今でも補助金とか税制優遇とかは多少あるのでしょうが。もし何もなければ論外です。)
大きな流れとしては、このような企業の社会活動や環境配慮などが明示的に評価されて、その評価が企業利益にも直結するよなシステムを作ることで、企業の社会参加を誘導していくことが望まれます。

一昨日、アフガニスタンの地雷で足を失った人達に義足を作ってあげている日本の方(NGOアフガニスタン義肢装具支援の会 滝谷氏 http://www.gisoku.com/ )の紹介TVを観ました。
新たに作ると数十万円するので、休日に古いものをリサイクルで作り直して、ボランティアの方の手助けをかりながら活動されているとか。
もちろん活動内容は感動的でしたが、番組で印象に残ったのは、日本から義足を運ぶための袋を作っているシーンでした。
通常のバッグや箱では重くなってその分料金が高くなるので、なるべく軽くてすむように自分たちで布製の袋を作っているのだとか。
活動の厳しい運営、それをサポートする支援策の貧困さが窺い知れました。
こういう活動を“どうやって運搬料金を安くあげようか”といった心配から解放してあげるぐらいのサポートができないのか?
給油活動云々、国際貢献云々を議論する前にやるべきことが山のようにあるように感じました。

先ほどの重機を使用した地雷除去活動を紹介した番組だったでしょうか、もう2、3年前になりますが、女性レポーターが地雷原に暮らす現地の女の子に話しかけていました。
その子の家が地雷除去が済んでいない場所にあると聞いて、女性レポーターはちょっと本気の怒りもまじえたように「どうしてそんな危ないことを!地雷の怖さを知らないの?」と問いただします。
女の子は困ったように「他に住むところがないから・・・」と答えました。
自分の問いが現実の生活の中では無意味なことを悟った女性レポーターは、返す言葉を失いしばらく無言でした。
地雷のことが話題になると、この絶句した女性リポーターの言葉にならない思いが今も蘇ります。

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イギリス・ポーランド  労働力国際移動のもらすもの

2007-11-12 16:09:25 | 世相

(ロンドンの地下鉄で佇むポーランド人女性 “flickr”より By Steffen M. Boelaars )


移民問題が多くの社会で大きな問題になっていますが、最近目に付いたところをいくつかピックアップすると・・・
フランス・・・呼び寄せ家族にDNA鑑定
(当ブログでは10/28 http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20071028
スイス・・・10月21日の国民議会選挙で第1党の国民党が露骨な排外主義を掲げ、史上稀な“汚い選挙”と言われたが、結果は国民党の勝利
イギリス・・・EU地域以外からの外国人就労者に対し英語検定(「TOEIC」の650~700点に相当レベル、プロサッカー選手は除外)を実施
オーストラリア・・・市民権テスト導入、社会に馴染めず犯罪を増加させるとアフリカ難民受け入れを大幅削減
イタリア・・・11月2日、これまで移民に寛容と見られていた中道左派政権が、“危険移民”を即座に国外退去できる緊急法令発布
ドイツ・・・大聖堂の街ケルンでトルコ移民が大規模モスク建設計画
(当ブログでは8/7 http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070807
などなど。

****英保守党の支持率、与党労働党を8ポイント上回る****
エクスプレス紙で発表された英民間調査機関ICMの世論調査によると、キャメロン氏率いる保守党の支持率が43%と、ブラウン首相率いる与党労働党の35%を8ポイント上回ったことが分かった。移民政策をめぐる懸念などが背景にあるものとみられる。
同紙によると、保守党躍進の背景には、最近の下院での与野党対立でキャメロン氏がブラウン首相より分がいいことや、移民統計をめぐる政府の混乱などがあるという。
調査では、移民数に毎年上限を設けるというキャメロン氏の提案に対する支持が45%と、既存の政府の政策に対する支持30%を上回った。
政府は前週、労働党が政権を奪還した1997年以降の移民数は80万人と発表したが、数日のうちにその数をまずは110万人に、次いで150万人にまで修正した。【11月11日 AFP】
*************

つい先頃まではキャメロン氏を大きくリードしていたブラウン首相ですが。
給油量でも数字の訂正は疑念を深めます。
それはともかく、記事によると、強いリーダーのイメージ、国民との接触機会ではブラウン首相が上回り、人気、信頼性、勇敢さ、信念への忠実さなどでもキャメロン氏を上回ったとのことですので、要は移民政策と“欧州憲法条約批准の是非を問う国民投票を実施しない”という点で人気を落としたようです。

イギリスへの移民で近年多いのがポーランドからの移民です。
数字はいろいろあるみたいですが(イギリス政府が把握しきれていないぐらいですから)、04年のEU加盟以降大量のポーランド移民が流入し、そのイギリス国内のポーランド移民の数は100万人という説もあるそうです。
ドイツとフランスはすでに国内に大量の労働移民を抱えているため、ポーランド人の労働移民は基本的に許可していないことも、イギリスでのポーランド移民増加の背景にあると思われます。

当然に大量の移民はイギリス社会にさまざまの問題・軋轢をおこしますが、流出するポーランド側でも多くの問題を惹起しています。
伝統的にポーランドでは炭鉱労働者のような労働組合の政治力が強く、医師とか教師の待遇は恵まれていない(医師の場合イギリスとポーランドで10倍近い所得格差があるとか)ため、こうした医師・看護師などの流出で国内の社会サービスに支障をきたす事例も出ているようです。
このあたりの事情は、私は観ていませんが、NHKのBS「ポーランド発 イギリス行き」という番組で紹介されていたようです。

更に、労働者の流出はポーランド国内の賃金水準を押し上げ、安い労働力を求めてポーランドに進出していた外資の動向にも影響を与えているとか。
ポーランド政府は労働需給緩和のため、隣国ウクライナとベラルーシ、ロシアに対し、労働法を改定して3カ月以内なら労働許可証取得不要という規定を導入したそうです。
つまり、イギリスへ流失した労働力を東の隣国からの労働力流入で穴埋めしようというもの。
そして、おそらく外資も更に安い労働力を求めて東へ移動・・・ということでしょう。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20071031/139240/ NBonline )

マクロレベルで見れば、こうした労働力・資本の移動、賃金の高騰などは調整過程のひとつであり、長期的にはやがて落ち着くべき均衡点に落ち着く・・・とも言えなくもないですが、市場まかせでは恐らく個人の生活はこのような調整の苦しみには耐えられないとも思えます。

移民の人々の移住先での生活も思うようにいかないことも多々あります。
上述のTV番組でも、語学力の壁もあって国内での経験・知識を生かせずイギリス国内で単純労働に従事するポーランド移民が紹介されていたようです。
ロンドンのホームレスの3割がポーランド人とか。

イギリスで働くポーランド労働者の送金はポーランドに還流して、不動産市場の高騰といった経済的影響をもたらしますが、政治的にも影響を与えたようです。
先月21日に行われたポーランド総選挙は、最大野党「市民プラットフォーム」が勝利し、保守的・民族主義的なカチンスキー兄弟の与党「法と正義」が敗北しました。
カチンスキー兄弟の政権は、双子で大統領と首相を務めるという点でも異例でしたが、その政策も「第2次世界大戦で何百万人という同胞がドイツとの戦いで命を落とさなかったら、現在の人口はもっと多かったはずだ」と、欧州議会におけるポーランドの議決権増大を迫るなど、欧州各国からは「異形の国」として見られがちでした。

今回の選挙では若者達の投票率、西欧各国在住のポーランド人(若年層が主)の投票率が非常に高かったそうです。出口調査等でこれらの多くが野党「市民プラットフォーム」に投票したと言われています。
外から、西欧各国から見た祖国の姿に思うところがあったのでしょう。
(上記 NBonline )


それで、受入国側の話ですが、単に「労働者の流入に困っている」のではなく、イギリスなど欧州先進国は“高度な熟練技能を有する移民”の獲得は、将来の国家の命運を左右する問題として、流入促進に向けて取り組んでいます。
10月23日、EUは将来の労働力不足をにらんだ新たな移民労働者制度「ブルーカード」の概要を明らかにしました。
米国の永住許可証「グリーンカード」を参考に、数百万人の熟練労働者のEU域内移住を想定、優秀な能力を持つ移住希望者を対象に、米国、カナダ、オーストラリアに加え、EU諸国も移住先として考慮してもらおうという制度です。 
「ブルーカード」の取得には、相当の学位を有することや3年以上の就労経験が条件となるほか、安価な労働力流入で労働組合の反発を招かないよう、賃金水準を就労国が定める最低賃金の3倍以上とする規定も設けらます。

要するに、単純労働者の大量流入は困るが、高度な技能を持つ優秀な移住者にはなんとか来てもらいたいと言う“いいとこどり”の政策です。
日本を含め、どこの国もそのあたりは同じですが。

グローバル化の流れは、資本だけでなく、従来固定的と見られることも多かった労働力の国際的流動化を促進します。それにつれて、あらたな問題・軋轢も生じてきます。
やがては日本もその流れに巻き込まれるか、あるいは、それを拒否して激しく抵抗するか・・・。
そのような大きな社会の変革が個々人の幸せにどう影響するかは、手に余る問題なのでパス。
なんだか将来は大変そう。



(今年10月 ロンドンの在外投票所を取り巻くポーランド移民の長い列 “”より By Mr Hyde )
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アフガニスタン  復興に向けて

2007-11-11 14:12:26 | 国際情勢

(米軍予備役である写真の女性は、アフガニスタン西部のヘラート地域で地元の孤児院を訪問するボランティアチームを率いています。この日、服・おもちゃ・お菓子と“PRTが暖房のためのヒーター・燃料購入を認めた”という知らせを持って、子供達のもとを訪れました。 “flickr”より By Claude Croteau)

今月6日、アフガニスタン北部バグラン州の製糖工場(国際支援で建設)で、視察国会議員団を歓迎する行事のさなか自爆テロが発生、52人が死亡(国会議員6名を含む)、106人が負傷する事件がありました。
犠牲者の大半が、歓迎ための花束を手にしていた地元小学校の児童だったそうです。
これまで比較的治安が良いとされた北部の治安悪化を示す事件とも懸念されています。
民生支援が進む北部の治安までも悪化すれば、アフガン復興がこれまで以上に停滞することになります。

なお、攻撃に関与する武装勢力の実態は不明な点が多く、タリバンとの連携も指摘されるイスラム原理主義の元軍閥グループ、ヘクマティアル派の関与を指摘する声もあるそうです。【11月7日 毎日】

アフガニスタンではNATO指揮下のISAFによるタリバン勢力との戦闘が続いていますが、一方で、カルザイ大統領は9月9日、「和平は交渉抜きでは達成できない」と、タリバン等武装勢力と交渉する用意があることを表明しました。【9月9日 時事】
このような動きに若干期待はしたものの、その後の関連報道を見ないこともあって、その実効性には疑問を持っていました。
しかし、この「話し合い」の呼びかけは全く進展がなかった訳ではなく、“地方政府へのタリバン参加”というかたちで動いてはいるようです。

****地方政府、広がるタリバン登用 3州で255人、行政区長も*****
アフガニスタン北西部バドギス、ファリヤブ両州政府に、旧支配勢力タリバンのメンバーがそれぞれ約100人ずつ計210人採用され、行政区長に任じられた人物もいることがわかった。両州の警察幹部らが毎日新聞に明らかにした。
地方政府へのタリバン参加は、中部ガズニ州に続き計3州となった。タリバンに和解を呼びかけているカルザイ大統領の和平路線の一環で、全国に同様の動きが広がる可能性が出てきた。
タリバンの参加は、タリバン支持者を抱える地方では行政運営が円滑になる側面もある。「タリバンのいないカブール(中央政府)と違い、地方はタリバンも反タリバンも隣り合わせで暮らしている。敵視政策だけでは地方に混乱と暴力を強いるだけ」(バドギス州警察幹部)だからだ。
ただタリバンの地方行政への浸透は、武力だけでなく政治力もタリバンに与えることになる。
タリバン側は「全外国軍の撤退が政府との和解条件だ」と国際治安支援部隊(ISAF)などを狙った自爆攻撃も続けている。
カルザイ政権は外国軍の力を背景に政権を維持している。地方の治安回復と政治的安定を狙ったタリバンの職員採用は、矛盾を抱えた政策とも言えそうだ。【11月10日 毎日】
***********

最初のガズニ州でのタリバン登用は、この地で発生した韓国人拉致事件が契機になったようです。
記事にもあるように“矛盾を抱えた政策”ではありますが、タリバンと一般住民の線引きもはっきりしないような地域にあっては、敵視政策だけでは治安回復は出来ないと思われます。
こうした共存を視野に入れた取組みの進展を期待します。

アフガニスタンの治安回復にとって重要な問題として、戦闘を担うアフガニスタン国軍の育成と並び、警察組織の育成もあります。
“タリバンと共謀して、タリバンが地元の民間人や輸送車を襲い略奪しても、取り締まらない。”といった警察官の腐敗問題が、タリバンの行動を自由にし、武器や麻薬の運搬を可能にしているという指摘があります。
警察官の腐敗の背景には、給料が適切に支給されてないという問題があるそうです。
警察組織の育成をドイツから引き継いだ米軍よると、警察官の給与を月額70USドルから100USドルにあげる予定だそうですが、タリバンが参画者に与える額は、かつて100USドルで現在は250USドルとのこと。【11月9日 IPS】
こんな面でタリバンに負けていては、治安回復などは難しいと言わざるを得ません。

米国主導の多国籍軍、ISAFの「地方復興支援チーム」(PRT)は、無償の医療援助や道路・学校の補修を行うことで地元住民との協力関係を築こうとしています。
米軍のカンダハル周辺の前線基地で活動を続けている医療班メンバーは「我々が医療援助活動を終えた後、村人の米軍に対する態度は一変した。タリバンを支持する住民は確実に減少している」と語っています。
また、別の米軍関係者は、このような援助活動は武装組織に関する情報収集にも役立っているとして、「住民は自らの安全が確保できていると感じれば、武装勢力を掃討するため機密情報でも話してくれる」と話しています。
これに対しては、「米軍は情報さえ得ればここからすぐ立ち去り、次はタリバン兵が村を襲撃にやって来る。だから話せないのだ」との住民の声もあります。【10月23日 IPS】

日本国際ボランティアセンター(JVC)はISAFのPRTを批判しています。
「これまでターリバーンや他の反米・反政府武装勢力に対する急襲作戦、空爆を行っていた米軍戦闘部隊が、ある日突然ISAF/NATOの旗印を掲げるようになった。住民にとってもISAFと米軍を中心とする対テロ戦闘部隊とはもはや区別できない状態になったのである。」

「PRT部隊は住民に薬剤と生活物品のばら撒きを行い、夜間には射撃訓練まで行った。住民に対する軍による宣撫および情報収集活動とみなされている。」

「戦争と復興が同時に進行するアフガニスタンの復興支援の現場では、軍との距離を保つことが活動を継続できる環境を維持することに繋がる。米軍が導入し現在NATO/ISAFの管轄下全国25箇所で展開している地方復興支援チーム(PRT)は、軍事活動と復興支援活動の境界を曖昧にすることで、中立の原則を盾として活動してきたNGOなどの援助団体が活動できる領域を狭めている」
http://www.ngo-jvc.net/jp/notice/notice20071016_afghanstatement.html )

アフガニスタンの安定にとって復興支援が重要なことは言うまでもないことですが、そのありようについては様々な意見があります。

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